運命というのはそんなにお手軽なものではない。それならば、ハインツはオリアーヌにとっての運命だと思うし、ハインツもこんな女――中身は私だけど――よりもオリアーヌを運命だと思うはずだ。
 
 王都には庭園が点在している。私が借りているアパルトマンの近くにも中規模の庭園があった。整備されていて誰でも入れるのだ。
 
 私――いや、あたしはハインツと並んで歩いている。こうなったのは、全てハインツのせいだと思う。
 
 人前だということも気にせず、抱きしめ愛の告白をしたのだから。
 
 変装していてもハインツの整った顔は目立つ。だから、なかばむりやり庭園へと引っ張ってきた。
 
「さきほどの話ですが」
「あれが嘘偽りない私の気持ちだ」
「はぁ……。そうですか」
 
 大好きな婚約者に「君が運命」だと言われたら、普通であれば嬉しい。嬉しいはずなのだが、こんなに虚しいとは思わなかった。
 
 告白されると同時に、浮気を目撃したようなものだ。しかも目の前という特等席で。
 
「さきほども言いましたが、婚約者がいらっしゃいますよね?」
 
 ハインツはわずかに笑うと、あたしの頭を撫でた。彼の婚約者になって十四年経つけど、今まで一度だって撫でられた記憶がない。

 こんなところで婚約者のなでなでを味わうことになろうとは……!

 虚しさを通り越して、面白くなってきた。彼はあたしをオリアーヌだと気づかずに頭まで撫でているね。

 このタイミングで笑うわけにはいかない。だって、目の前の男はいたって真剣な表情で私を見下ろしている。
 
「大丈夫。苦労をさせるつもりはない」
「苦労って……。婚約者のいる方に『運命』と言われても普通は困惑します」
「婚約者といは言うが、彼女は親同士が決めた関係だ。私の意志はないよ」
「……好きでもなんでもない、と? 幼いころから一緒だったのでしょう? 少しくらい愛情があったのでは?」
 
 ほんのちょっとくらいはあったと思うのよ。それが、恋愛感情ではなく兄妹のような――……。
 
「いや。好きになったことは、ただの一度もないよ」

 ハインツはキッパリと言い切る。即答じゃない。できたら、一分、いや、三十秒でいいから考える素振りを見せていただきたかったわ。

「ひどいのね……」
「ん?」
 
 思わず出た呟きはハインツの耳には届かなかったらしい。彼は首を傾げる。
 
「いいえ、婚約ってそんなものなのかと思って」
 
 今まで一人で舞い上がっていたのだ。ハインツが優しいのは私を愛しているからではなくて、どうでもよかったからだったのね。
 
 神様は残酷だわ。秘密を持った罰をこんな形で与えるなんて。
 
 なんだかばかばかしくなってきた。百年の恋が冷めてしまう瞬間ってこういうときなのかしら? キラキラと輝いていたハインツは、ただ顔の良い男にしか見えない。
 
 失恋したらもっと悲しいかと思っていたけれど違うのね。でも、色々ありすぎで疲れちゃった。今日はさっさと帰ろう。

 ハインツの気持ちがわかった以上、考えることは山積みだ。目の前にいる恋する乙女にかまっている暇はない。
 
「ハインツ……様は『運命』だっておっしゃいますが、それは勘違いです。あたしにも運命を決める権利はありますから。では」
「先日のことなら申し訳なく思っているっ! どうか話を聞いてほしい」
「先日? ああ、馬車の……。先日のことはもう忘れてください」
 
 私も忘れたい思い出なので。襲おうとした男と叩いた女。おあいこということにしてもらえないかしら。さすがに、「傷つけられたから責任を取れ」なんてどこぞの令嬢の父親みたいなことは言わないわよね?
 
「あのときはどうにかしていたんだ。君に叩かれて気がついた」
「そう……ですか。それはよかったですね。では」
 
 私は背を向ける。これ以上ハインツに付き合っていたら、人生を損してしまうわ。
 
 しかし、彼は私の腕を強くつかんだ。
 
「待って。一度だけでいいからチャンスがほしい」
「お断りします。あたしも暇ではないの」
 
 帰ってお父様に婚約を白紙にできないか相談するから忙しいのだ。
 
 しかし、ハインツは頑なだった。「一度だけ」「無理です」の押し問答が何度も続く。気がつけば、静かな庭園で注目を浴びている。
 
「本当に……困ります」
「ならば、わかってもらえるまで、何度でもアパルトマンに会いに行こう」
 
 それは脅しと言うのではないかしら? きつく睨んだが、彼は平然としている。こんなに頑固だったかしら。もっとスマートで、適度に優しくて。それが婚約者に見せる彼のよそ行き(・・・・)の姿だったのだろう。
 
「他の住人に迷惑なのでやめてください。……追い出されたら住むところがありません」
「私としては君が追い出されたほうが都合がいい。私の屋敷には部屋がたくさんある」
「……わかりました。一度だけお付き合いします。だからアパルトマンには来ないで」
「寂しいな。先に誘ったのは君なのに。……でも、嬉しいよ」
「それで、ハインツ様はチャンスと言いましたが、何にお付き合いすればよろしいですか?」
 
 ハインツは嬉しそうに口角を上げる。
 
「なら、我が家に――……」
「それはお断りします」
 
 この姿で家族に紹介なんてされたらたまったものではないし、二人きりになりやすい屋敷はよくない。逃げ場がないもの。
 
「では……夜会に一緒に参加。なら?」
「……それなら。あまり大きくない夜会がいいのですが」
「ああ、大きいと私も面倒な挨拶が増える。今日招待状を確認して改めて連絡しよう。……だからそろそろ教えてくれないか?」
「何をでしょう?」
「名前。君の名前だ」
「あ……」
 
 そういえば、私の正体に気づいていると思っていたから名乗っていなかった。
 
「あたしの名前はソフィア。家名はあまりいい思い出がないので、聞かないでください」
 
 ただ考えていないだけだけど。物は言いようよね。まるで過去に何かあったみたいに匂わせておけば、よほどの無神経でなければ察して踏み込まないだろう。
 
 ハインツとの縁は切っても切れないものなのか。あたしとハインツの奇妙な関係が始まってしまった。