オリアーヌ・メダンは恵まれている。
 
 誰かがそう言っていた。私もずっとそう思っていた。生まれたときから何でも持っていて、幸せで。でも、それは誰かから与えられたものだ。
 
 自分の力で何も手に入れたことがない。それが当たり前だと思っていたツケが回ってきたのよ。
 
「なんてざまなのオリアーヌ」
 
 鏡の中の私は涙に濡れていた。気づくのが遅すぎた。ハインツが私のことをなんとも想っていないことも、ヴィンセントの優しさも、自分の気持ちさえも。
 
 ハインツとの婚約破棄を成功させて、自分の力で自由を手に入れるはずだった。恋をして、本当の幸せが詰まった結婚を手に入れるはずだったのだ。
 
 今夜、婚約が破棄されたとしても遅い。だって、ヴィンセントはもうすぐ王女様の手を取って戻ってくるのだから。
 
 もし、お母様から噂を聞いたときに自分の気持ちに向き合っていれば、追いかけられたはずだ。
 
 自分の頬を叩く。小さくパチンと音が鳴った。
 
 くよくよしても仕方ないわ。できることを全部やって、納得して社交界から去るのよ。
 
 まずは、ハインツとの婚約を破棄する。そして、ヴィンセントに想いを伝える! 失恋は辛いけど、幸い社交界からは爪弾きにされているだろうし、ちょうどいい。
 
 私は手を握りしめ、鏡の中の私とうなずき合った。
 
 
 
 
 ほどなくして、ニーナが部屋に入ってくる。それまでには涙も止まっていたし、すぐに冷やしたから目も腫れなかった。
 
「お帰りなさい。お願いしたことは済んだ?」
「はい。アパルトマンのほうは無事準備が済みました」
「ありがとう。あとは、私が最高の演技を見せるだけね」
「本当に、本当にこの計画を実行されるのですか? 成功したら大勢の前で罵られる可能性もあるのですよね?」
「それが目的なんだから大丈夫よ。ちょっと笑われて、社交場に出られなくなるだけ。今までだってほとんど社交に出ていないんだから、変わらないわ」
 
 ニーナの眉尻が下がる。それ以上下がったら眉毛が縦になってしまうわ。
 
「さて、少し早いけど準備を始めましょう。オリアーヌ・メダン最後の舞踏会になる可能性があるもの。注文していたドレスを持ってきて」
 
 ニーナは私に促され箱を開けた。注文通り深紅のドレスだ。綺麗な色。彼女が肩の部分を持って広げる。
 
 真っ赤なドレスを着るのはハインツへの反抗心からだ。彼の瞳の青とは真逆だから。なにより、私は赤が似合う。だから着るの。白い肌がより白く見える最高の色だと思う。
 
 少し気の強そうな目だと言われるけど、気にしたことはない。気弱そうだとつけ込まれるよりは断然楽だからだ。
 
 今回のドレスは新しく注文した。舞踏会に来た人が生涯オリアーヌ・メダンを忘れないような最高のドレスをと頼んだのだ。
 
 悪女として歴史に残るには目立ってなんぼだわ。
 
 可愛らしいフリルも、華やかなレースもない。オフショルダーのシンプルなドレス。でも、ラインはとても綺麗にできている。注文通りのできだ。
 
「今日はそのままのお嬢様で勝負するのですね。とても素敵です」
 
「ありがとう。私、頑張ってくるから」
 
 私の華麗なる最期をニーナに見せられないのが残念だ。
 
 
 
 
 ロッド家の馬車に揺られる。視界に入る不機嫌な男は、今日は隣に座らない。なぜなら、私がオリアーヌ・メダンだからだ。ソフィアのときなんて隙間もないくらいピタッとくっついていたくせに。今は冷め切った夫婦のような距離だわ。
 
 ここ最近の出来事のおかげで、ハインツは私のことを相当嫌っているようだ。ソフィアに出会う前は嫌な顔は見せない模範的な婚約者だったのだけれど、人って変わるものね。
 
 婚約者を仕方なく迎えにきたハインツは、その婚約者の顔を一度も見ない。その程度で胸が苦しくなっちゃうような小娘ではなくなった。この心臓が強く育ったのは、ほぼハインツのおかげなので感謝している。
 
 不機嫌を主張するあたり子供よね、自分の機嫌をとれない人。機嫌の善し悪しで他人を動かそうとするなんて、五歳児のすることだわ。五歳児のほうがまだ可愛げがあるってものよ。
 
 両親やお兄様たちは別で来ている。ロッド家のおじさまとおばさまも今日の舞踏会に来ないわけがないので、会場のどこかで会えるだろう。
 
 王宮はすぐそこというところまでさしかかった。そろそろ、始めようかしら。ヴィンセントが私のために考えてくれた案だ。
 
 ゆっくりと息を吸い込む。
 
「そういえばハインツ。新しいお屋敷、買ったのですってね」
「君には関係ない話だ」
 
 ゾクゾクするくらい低い声。苛立ち、それとも怒り? ソフィアがされたことを思い出したのかしら?
 
「やだ、公爵夫人になるのよ? 関係なくないわ。あなたのお屋敷は私のお屋敷になるんだもの」
「君には一歩も近づけさせるつもりはない」
「そうなの? 残念。でも、構わないわ。だって……」
 
 私は面白くなってつい笑いを漏らしてしまった。これは演技ではなくて本当に面白くなってきたのよ。滑稽だなと思って。ハインツが大好きなソフィアも、彼が大嫌いなオリアーヌもどっちも私なんだもの。
 
「『だって』、なんだ?」
「だって、その屋敷に住む人はもういないもの」
 
 どこを探してももういない。私はこれから先ソフィアになることはないから。ハインツの眉根が寄る。よく見る顔だ。華やかな舞踏会には似合わない顔。私だからこそ引き出せた表情とも言える。
 
「何を言っている?」
「行ってみればいいじゃない。赤いレンガの花屋の向かいにあるアパルトマン。三〇五……だったかしら? 忘れてしまったわ」
 
 ハインツの目が見開かれる。宝石のような目が私を映した。