「ヴィンセントが結婚……?」
「こら。王太子殿下でしょう。幼馴染みでもそろそろわきまえなければならない時期よ」
「わかっているわ。人前ではわきまえているもの」
「だったら、お母様の前でもわきまえなさい」
「お母様はいいじゃない。家族だもの」
 
 家族にまで気を使いたくない。
 
「その頬を膨らませる癖もやめなさい。もうすぐ嫁ぐというのに、子どものままではいけないのよ」
「結婚しないかもしれないじゃない」
「馬鹿なことおっしゃい。……変な噂のせいね」
「噂じゃないわ。全部本当のことよ。ハインツは私のことは好きじゃないわ」
「でも、最後はあなたを選ぶわ」
 
 そうでしょうとも。お飾りの侯爵夫人にするのがハインツの希望なのだから。
 
「わかったら、王太子殿下に会うのは控えなさいね。これ以上変な噂を増やしたくないでしょう?」
「本当にヴィンセントは結婚するの? そんな浮いた話聞いたことないけど……」
 
 お母様は嬉しそうだ。お母様にとってヴィンセントは「王太子」以上の存在なのだろう。友人の子だ。祝い事があれば我が子のように喜ぶ。
 
「なに浮かない顔しているの? 祝い事よ?」
 
 嬉しいはずだ。二十四にもなって浮いた話一つ出ないヴィンセントの結婚。幼馴染みの幸せだ。嬉しいはずなのに、胸の奥で何かがつっかえている。
 
「オリアーヌ?」
「……ええ、嬉しいわ。だって、ヴィンセントが結婚すれば、暇潰しに渡しをいじめてこないだろうし。それに、王妃様の悩みもなくなるもの」
 
 そうよ、とっても嬉しい。いいことずくめだわ。
 
 
 
 
 お母様の言いつけどおり、王宮に行くことは控えることにした。別にヴィンセントに会いたくないからとかではない。ジュエラを独り占めするのは悪いと思っただけ。
 
 王宮の舞踏会までのあいだ、ハインツは毎日ソフィアに会う。ジュエラを理由にお出かけできなくなったから大変だったけど、「舞踏会の準備」とか何かと理由をつけて出かけたり、こっそり抜け出すことでどうにかなっている。
 
 ハインツとはソフィアとして昼間会うだけではなく、何度か夜会にも行った。きっと、舞踏会に憧れたソフィアのために何個か見繕ったのだろう。
 
 どこの夜会もヴィンセントの話題でもちきりだ。噂話に耳を傾けてみれば相手は隣国の王女様で、向こうから打診があったそうだ。以前、ヴィンセントが外交で他国に行ったとき、王女様のほうが一目惚れしたとかしないとか。その噂がどこまで本当かは分からない。
 
 私が知っている真実は一つだけだ。顔合わせのために、ヴィンセントが数日前から国境付近の街まで出向いているということ。それは、ジュエラの手紙に書いてあった。
 
 王女様を伴って王宮の舞踏会に現れるのではないかと、もっぱらの噂だ。
 
 夜会に参加すると、例の三人娘が度々ソフィアをいじめようとしたけれど、さすがに学習したハインツがソフィアの側を片時も離れなかった。そのおかげで頭からワインをかぶらずに済んだのだ。ワインは飲み物であって浴びる者ではないから助かったわ。あんなの人生に一度でいいもの。
 
 私が三人娘を見るとおびえる素振りを見せてから、三人娘の存在を認識したようだ。あの三人はハインツのことが大好きだから、認識してもらえてよかったわね。いい仕事したわ。
 
「自分の手は汚さず、人を使う……。ずる賢い女だ」
 
 三人が様子を伺っていることに気づいたハインツは吐き捨てるように言った。調べもせずに全部オリアーヌのせいにしちゃうところがハインツの悪いところだ。今後公爵家を背負っていくのに、そんな感じで大丈夫なのかしら? 二代で終わっても知らないんだから。
 
「ハインツ様が一緒にいてくださるおかげで、あたしは大丈夫ですから」
 
 ソフィアの健気な笑顔にハインツの心は打たれているでしょう。ハインツの心の声は聞こえないから、私が代弁するわ。きっとこうね。「ああ、私のソフィアはなんて可愛いんだ!」
 
 ソフィアにクールで優しい顔を見せたいみたいだけど、私にはバレバレなのよ。
 
 夜会の後、アパルトマンの前まで送ってくれるのが日常になり、近所の人には何も言われなくなってしまった。代わりに「公爵家の愛人」というあだ名はできたけど。事実みたいなものだから仕方ない。
 
「明後日の朝、迎えに来る。荷物をまとめておいて」
「はい。明日の舞踏会は頑張ってください」
 
 そう、気づけば舞踏会まであと一日。私はただただソフィアとしてハインツとデートを重ねるばかりになっていたのよね。それも今日でおしまい。感慨深いわ。
 
 だから、おまけとばかりに抱きついておく。最後はサービスしておかないと。ハインツは幸せそうに笑う。
 
 ハインツは、本気でソフィアのために屋敷を買ったようだ。ロッド家にお金があるとはいえ、驚きを隠せない。それでも彼はオリアーヌに「婚約破棄」の一言は言わなかった。
 
 私はいつものようにハインツに別れを言って、アパルトマンへと戻ったのだ。
 
 このひと月、本当にめまぐるしかった。オリアーヌとしてはふだんから夜会は参加していなかったけど、この一ヶ月はお茶会も参加していない。全ては婚約破棄のためだった。
 
 王宮の舞踏会は今夜開催される。昨日のうちに王太子一行は王宮に到着する予定だったけれど、遅れているみたい。婚約者になったであろう王女様が体調を崩して遅れている……とかでないと良いんだけど。
 
 ヴィンセントが王女様をエスコートする姿を想像する。どんな方かしら? 背は高い? かわいい方? それとも美人?
 
 婚約者ができたら、ヴィンセントは私をいじめなくなるかしら。今夜、ハインツから婚約破棄されれば、社交界に居場所はなくなるかもしれないから、必然的にヴィンセントとも会わなくなる。だから、そんな心配する必要ない。
 
 なんでこんなに胸がいたいのか。ハインツにこれっぽっちも愛されていないと分かったときでもこんなに痛まなかった。
 
「本当は分かっているじゃない。オリアーヌ」
 
 誰も居ない部屋に私の声だけが広がる。ぎゅっと胸が締めつけられた。胸を押さえれば、視界が歪んで涙がこぼれる。
 
「私、ヴィンセントが好きなんだわ」