ヴィンセントは私の耳元でこっそりと教えてくれた案に私は目を丸めた。
 
「それで良いの? たったそれだけ?」
「ああ、それで良い。きっと、ハインツはその場で婚約破棄を言い渡すさ」
 
 本当にそれだけ? と何度か聞いたけど、彼は頷くばかりだった。
 
「心配?」
「うん、だってこんなにいろいろやってきたのよ?」
 
 水をかけられ、頬を叩かれ、ドレスだって破かれた。ロマンス小説でされるいじめの中で、比較的ハインツに伝わりやすいものはこなしてきたと思う。それでも彼は「婚約破棄」の言葉だけは絶対に口にしなかった。
 
 ヴィンセントの提案はそれくらい単純なものだ。
 
「今までいろいろやってきたからそれだけでいいんだ」
 
 そういうものなのかしら? 首を傾げれば、やっぱり彼は自信ありげに頷くばかりだった。
 
 でも信用ができない。もっと大がかりで大胆なことをしたほうが良いのではないかしら?
 
「他に良い案もないし、とりあえずやってみたら?」
 
 今まで黙っていたジュエラが口を挟む。ついでに眉根に指をねじ込まれた。考えすぎて眉間に皺が寄っていたようだわ。
 
「それに、失敗したらお兄様が責任とってくれるでしょうし」
「責任って。……ヴィンセントが代わりにハインツと結婚してくれるの?」
 
 二人同時に咳き込む。さすが兄妹。咳のタイミングまで一緒。ヴィンセントはこめかみを押さえ、ジュエラは腹を抱えたて笑い出した。
 
「どうやったら、お兄様とハインツが結婚するって方向にいくの? オリアーヌの頭の中を覗いてみたいわ!」
「他に責任の取り方なんてないじゃない。失敗したら私はハインツと結婚しなくちゃいけないわけだし」
「もう一つ責任を取る方法があるのよ。方法がね」
 
 ジュエラのウィンクが私を通り抜け、ヴィンセントにぶつかる。答えを求めて彼を見つめたけれど、彼は何も言わない。優雅に紅茶を飲んでいる場合ではないんだけど。
 
「他に切り抜ける方法があるなら、それをすれば良いのではないかしら?」

 
「お兄様に略奪してもらうの」
「略奪って……結婚式の教会で扉がバーンッって開くあれ?」
「オリアーヌはロマンス小説の読み過ぎね。そう、結婚式まで待つ必要はないけどね。ハインツから奪ってもらえば良いのよ」
「ヴィンセントが、私を?」
 
 ヴィンセントは何も言わない。何を考えているか全然分からないわ。もしかしたら、ジュエラの提案に驚いているのかもしれない。ジュエラはヴィンセントのことなど構わずしゃべり続ける。
 
「他の男じゃ無理だけど、王太子殿下だったら穏便にはいかないけど公爵の叔父様は頷くしかなくなるでしょ。お母様はオリアーヌのこと大好きだし、きっと味方してくれると思うわ。ハインツにも非があるわけだし」
 
 ロッド公爵の長男より上の立場となると、確かにヴィンセントが適役ではあるけれど。王宮で開催する夜会でみんなの前で「オリアーヌは私のものだ」とかいっちゃうヴィンセントを想像する。
 
 さまにはなるだろう。これこそ「私のために争わないで!」という瞬間だわ。でも……。
 
「確かにうまくいきそうだけど、その案はだめね。絶対だめ」
「全力で拒否された。お兄様、残念だけどフラれちゃったわね」
 
 ジュエラは笑う。ヴィンセントは小さく咳払いするとようやく口を開いた。
 
「私は略奪愛のフリくらい構わない。大根役者よりはうまく立ち回れると思うが?」
「だめよ。迷惑はかけられないわ」
「迷惑?」
「そうよ。王太子が従兄弟の婚約者を略奪したなんて、ヴィンセントの名に傷がつくでしょう? これは私の問題なんだから、ヴィンセントが悪者になるのはだめね」
 
 周りは事実なんて関係ない。面白いほうが真実になるのよ。私は自分の人生のために悪役を演じることは厭わないけど、ヴィンセントが悪役になるとなったら話は別だわ。
 
「ジュエラの提案はありがたいし、ヴィンセントの気持ちも嬉しいけど、私が失敗してもその方法だけは決行してはだめよ」
 
 真剣に訴えれば、ヴィンセントは小さく頷いた。そんな中、ジュエラは含みのある笑みを浮かべる。
 
「気持ちは嬉しい……ね」
「なによ。本当にそう思ったわ」
「いやね。オリアーヌのことだから、『こんな意地悪な人と結婚なんて絶対むり!』って言うのかと思ったから。つまり、略奪じゃなければお兄様と結婚してもいいってことでしょう?」
「べっ! 別に結婚したいわけじゃないわ! ヴィンセントは意地悪けど、ハインツに比べたら数倍マシだもの。ただ、それだけのことよ!」
「オリアーヌったらそんな大声出しちゃって。どうしたの?」
 
 ニヤニヤと笑うジュエラの顔は、絶対に私をからかっている。こういうときのジュエラはヴィンセントによく似ている。兄妹なんだなと思い知らされる瞬間だわ。
 
 困るわ。そんなことをジュエラに言われたら、ヴィンセントが勘違いするかもしれないじゃない。私の心配は杞憂だった。彼はいつもと変わらない意地悪な笑顔で口を開く。
 
「オリアーヌが断ってくれてよかった。せっかく結婚相手を選べるんだから、選びたいさ」
「だったら、早く相手を見つけたほうが良いわ。良い女はすぐに取られちゃうんだから」
 
 目には目を。嫌味には嫌味を。いつものやりとりだ。でも、どうしてか胸がツキンと痛んだ。もしかして、何かの病気かしら?
 
「ヴィンセントに教えてもらった作戦は最後にとっておくわ。とりあえず、ソフィアから結婚を仄めかしてみる。王宮の舞踏会までには決着をつけないと。それが失敗したらそのときはそのとき。腹を括る」
 
 ヴィンセントは私の頭をぐしゃぐしゃにして、部屋から消えていった。私に何か恨みでもあるのかしら? 特別なお茶会を入れていなくてよかったわ。
 
「私、ヴィンセントのこと少し勘違いしていたわ」
「どんな風に?」
「ヴィンセントは私の秘密を知ったら生涯このネタで意地悪して、ついでにお父様にも告げ口されると思っていたの」
 
 話をしっかり聞いて、アドバイスまでくれたわ。なんだか拍子抜け。
 
「オリアーヌ、私は占い師ではないけれど、あなたが『前言撤回!』って叫ぶ姿が脳裏に浮かぶわ。今日は優しかったけど、お兄様がこの先このネタを口にしないとは言い切れない。なんなら、恩に着せる可能性もあるわね」
「う……。想像できるわ……。今のうちに前言撤回しておこうかしら」
「でも逆を言えば、そのネタでいじられるということは、ハインツとの問題が解決しているということよ。良いじゃない」
 
 ジュエラは私の肩を強く叩いた。ハインツとの結婚と、ヴィンセントにいじられる未来。どっちかは付いてくると思うと大きなため息が出てくるわ。
 
「それで、オリアーヌはハインツから自由になったら何がしたいの?」
 
 自由になったら? 何がしたいかなんて考えたことなかった。でも、もし何でもできるなら……。
 
「そうね、恋愛……かしら? 胸がときめいてしまうような恋愛をしたいわ」