歩き慣れた王宮の廊下。特にジュエラの私室までの道のりは慣れたものだ。最初のころは門までジュエラの侍女が迎えに来てくれていた。何回目かのときにそれが王宮の中に変わり、ついにはそれもなくなっていたわね。
二人でお茶をしているあいだ、ジュエラが侍女を部屋から出すようになって、私もニーナを連れてくることがなくなった。変わっていると周りはとやかく言うけれど、気が楽なので気にしない。
いつからだったかしら、一人で廊下を歩いていると決まって反対側から現れるのだ。黒い、あれが。
ほら、今日も現れた。
「ヴィンセント、ごきげんよう」
「オリアーヌは相変わらず一人で歩いているんだな」
挨拶に嫌味をねじ込むのは日常茶飯事だ。私のことを一人だと笑っているけれど、ヴィンセントだって誰も連れてあるいていない。王太子ともなれば、従者の一人や二人連れているのが普通でしょう?
「ええ、ただ友人とお茶をするだけなのに、侍女の手を煩わせるわけにはいかないもの。私は自立した女のよ。それにしても王太子は今日もお暇なのね」
「オリアーヌが泣いていないか心配で見に来たんだ」
いつもの私なら、ヴィンセントの言葉に目くじらを立てていたところ。だけど、私は知っている。彼が私のためにハインツとソフィアにもの申してくれたことを。
相変わらず意地悪だけど、あんな姿見たら怒りたくても怒れないわ。
ヴィンセントは以前もソフィアにも忠告していた。あのころから私を、オリアーヌを気遣ってくれていたのね。私の前では相変わらず意地悪だけど。
「ヴィンセントには私が泣いているように見えるの? 目が悪くなったのではなくて?」
「ハインツが大好きな君のことだ。涙で枕を濡らしているのではないかと思ってね」
「馬鹿ね。枕が濡れても状況は何も変わらないのよ」
泣いたってハインツは婚約を破棄してくれないし、「私が愛していたのはオリアーヌだ!」とはならないわけ。今更「愛している」と言われてもお断りだし、今季縁を切りたい男ナンバーワンだけど。
ヴィンセントは二度、目を瞬かせると声を上げて笑った。廊下に彼の笑い声が響く。彼は笑い終えると、私の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
「相変わらずだな」
「ちょっと! 髪の毛がボサボサになるわ!」
「いつもと大して変わらないだろう?」
ヴィンセントは首を傾げる。ジュエラに会うだけとは言え、場所は王宮。ここに来るのに、どれだけセットに時間をかけていると思っているのだろう。セットするのは私ではなくてニーナだけど。
これからは頭のてっぺんに棘のある飾りでも載せようかしら。そうすれば、ヴィンセントも容易には触れない。
「ヴィンセントのせいで今日から笑いものになってしまうわ」
「悪かったって。そう怒るな。そんなに気になるなら侍女を貸してやるから」
そう言いながら彼はまた頭を乱暴に乱すのだ。言っている側から!
「意地悪にもほどがあるわ! そんな風だから結婚相手の一人も見つからないのよ!」
「ひどい言い草だ。せっかくオリアーヌを元気づけてやろうと思ったのに」
「元気づける? ……もしかして、私のことを心配していたの?」
「心配くらいするさ」
ヴィンセントは言ってのける。絶対否定されると思っていたのに、肯定されたら何と返していいか分からないわ。
彼を見つめて数秒。私の時間は止まった。私を見下ろすヴィンセントも動きを止めたから、全ての時間が止まったのかもしれない。
これが夢だとしたら、恥ずかしくて誰にも言えないような夢だ。意地悪なヴィンセントが優しいなんて言ったら、ジュエラは腹を抱えて笑うだろう。
彼がわずかに口角を上げる。
「最近ジュエラの元に入り浸っていると聞いて、ジュエラの交友関係がオリアーヌだけになりやしないかと心配でならない」
彼は大げさにこめかみを押さえた。そして、意地悪な顔で私を見下ろすのだ。
「なんだ? もしかして、本当に心配されていると思ったのか?」
そういう男だったわ! 私に優しかったことなど一度だってない。たとえ婚約者に恋人が現れて苦しい思いをしていたとしても、彼が「おーよしよしかわいそうに」なんて頭を撫でるわけがないのだ。
でも、なんだかとってもむかつく!
だって。
「私、ちゃーんと知っているんだから。本当は私のことをとっても心配しているって」
ヴィンセントが肩をすくめて首を傾げる。そんな風に分からないふりしても駄目なんだから。
「昨日、ヴィンセントがハインツとソフィアに会いに行ったことくらい、知っているのよ。それもジュエラのためだと言うの?」
「情報が早いな。昨日の今日でよく知っているじゃないか」
「貴族社会は情報社会ですもの」
「……たまたまだ。最近母がうるさいから夜会に参加したまでで……」
「嘘。だって、この前だってわざわざソフィアに会うために街で待ち伏せしていたでしょう?」
それもたまたまだと言うのかしら。偶然が二回も起るなんて、ロマンス小説くらいよ。
ヴィンセントは何も言わない。一人だけ時間が止まったかのように呆然と私を見つめる。本当のことを言い当てられて驚いているのだろう。
ようやく彼が口を開いた。
「オリアーヌ。なぜ、それを?」
二人でお茶をしているあいだ、ジュエラが侍女を部屋から出すようになって、私もニーナを連れてくることがなくなった。変わっていると周りはとやかく言うけれど、気が楽なので気にしない。
いつからだったかしら、一人で廊下を歩いていると決まって反対側から現れるのだ。黒い、あれが。
ほら、今日も現れた。
「ヴィンセント、ごきげんよう」
「オリアーヌは相変わらず一人で歩いているんだな」
挨拶に嫌味をねじ込むのは日常茶飯事だ。私のことを一人だと笑っているけれど、ヴィンセントだって誰も連れてあるいていない。王太子ともなれば、従者の一人や二人連れているのが普通でしょう?
「ええ、ただ友人とお茶をするだけなのに、侍女の手を煩わせるわけにはいかないもの。私は自立した女のよ。それにしても王太子は今日もお暇なのね」
「オリアーヌが泣いていないか心配で見に来たんだ」
いつもの私なら、ヴィンセントの言葉に目くじらを立てていたところ。だけど、私は知っている。彼が私のためにハインツとソフィアにもの申してくれたことを。
相変わらず意地悪だけど、あんな姿見たら怒りたくても怒れないわ。
ヴィンセントは以前もソフィアにも忠告していた。あのころから私を、オリアーヌを気遣ってくれていたのね。私の前では相変わらず意地悪だけど。
「ヴィンセントには私が泣いているように見えるの? 目が悪くなったのではなくて?」
「ハインツが大好きな君のことだ。涙で枕を濡らしているのではないかと思ってね」
「馬鹿ね。枕が濡れても状況は何も変わらないのよ」
泣いたってハインツは婚約を破棄してくれないし、「私が愛していたのはオリアーヌだ!」とはならないわけ。今更「愛している」と言われてもお断りだし、今季縁を切りたい男ナンバーワンだけど。
ヴィンセントは二度、目を瞬かせると声を上げて笑った。廊下に彼の笑い声が響く。彼は笑い終えると、私の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
「相変わらずだな」
「ちょっと! 髪の毛がボサボサになるわ!」
「いつもと大して変わらないだろう?」
ヴィンセントは首を傾げる。ジュエラに会うだけとは言え、場所は王宮。ここに来るのに、どれだけセットに時間をかけていると思っているのだろう。セットするのは私ではなくてニーナだけど。
これからは頭のてっぺんに棘のある飾りでも載せようかしら。そうすれば、ヴィンセントも容易には触れない。
「ヴィンセントのせいで今日から笑いものになってしまうわ」
「悪かったって。そう怒るな。そんなに気になるなら侍女を貸してやるから」
そう言いながら彼はまた頭を乱暴に乱すのだ。言っている側から!
「意地悪にもほどがあるわ! そんな風だから結婚相手の一人も見つからないのよ!」
「ひどい言い草だ。せっかくオリアーヌを元気づけてやろうと思ったのに」
「元気づける? ……もしかして、私のことを心配していたの?」
「心配くらいするさ」
ヴィンセントは言ってのける。絶対否定されると思っていたのに、肯定されたら何と返していいか分からないわ。
彼を見つめて数秒。私の時間は止まった。私を見下ろすヴィンセントも動きを止めたから、全ての時間が止まったのかもしれない。
これが夢だとしたら、恥ずかしくて誰にも言えないような夢だ。意地悪なヴィンセントが優しいなんて言ったら、ジュエラは腹を抱えて笑うだろう。
彼がわずかに口角を上げる。
「最近ジュエラの元に入り浸っていると聞いて、ジュエラの交友関係がオリアーヌだけになりやしないかと心配でならない」
彼は大げさにこめかみを押さえた。そして、意地悪な顔で私を見下ろすのだ。
「なんだ? もしかして、本当に心配されていると思ったのか?」
そういう男だったわ! 私に優しかったことなど一度だってない。たとえ婚約者に恋人が現れて苦しい思いをしていたとしても、彼が「おーよしよしかわいそうに」なんて頭を撫でるわけがないのだ。
でも、なんだかとってもむかつく!
だって。
「私、ちゃーんと知っているんだから。本当は私のことをとっても心配しているって」
ヴィンセントが肩をすくめて首を傾げる。そんな風に分からないふりしても駄目なんだから。
「昨日、ヴィンセントがハインツとソフィアに会いに行ったことくらい、知っているのよ。それもジュエラのためだと言うの?」
「情報が早いな。昨日の今日でよく知っているじゃないか」
「貴族社会は情報社会ですもの」
「……たまたまだ。最近母がうるさいから夜会に参加したまでで……」
「嘘。だって、この前だってわざわざソフィアに会うために街で待ち伏せしていたでしょう?」
それもたまたまだと言うのかしら。偶然が二回も起るなんて、ロマンス小説くらいよ。
ヴィンセントは何も言わない。一人だけ時間が止まったかのように呆然と私を見つめる。本当のことを言い当てられて驚いているのだろう。
ようやく彼が口を開いた。
「オリアーヌ。なぜ、それを?」