私はグラスを持って挨拶に回る。途中、顔見知りに声をかけられた。
 
「ごきげんよう。オリアーヌ様がこのような夜会に参加するなんて珍しいですわね」
「ごきげんよう。あまり夜の会は得意ではなくて。でも、今日は会いたい方がいらっしゃるから来てみたの」
「メダン家のご令嬢に望まれる方なんて、興味が湧いてきたわ」
「あら、たいした相手ではないのよ。ただ、ナイトがいつも周りにいて、こうでもしないと会えないの」
 
 今の悪役っぽいかしら? 少しだけ、悪役には憧れていたのよ。もちろん、物語のね。悪役として名を残した女性たちの記録なんかも好き。我が道を行く感じは憧れだわ。物語でも記録でも悪役の最後というのは悲しいものよ。国を傾けた王妃なんて最後は斬首刑だもの。でも、我が道を行き最後は儚く散る。それでも歴史に傷跡を残していくなんて、なかなかまねできたものではないわね。
 
 私もそれに少しだけあやかりまして、悪い女を演じますから何卒、最後はぎゃふんと言わせてください。田舎から出てきた男爵家の娘に婚約者をとられ、後ろ指をさされたいの!
 
 そんな私でも好きだって言ってくれる人がきっと運命の男よ。
 
 私は適当なところで具合の悪いふりをして休憩室を借りた。そこにニーナを呼んでもらう。
 
「お嬢様、本当にやるんですか? 本当の本当に?」
「本当の本当にやるわ。さあ、着替えを手伝って」
 
 私は手際よくドレスを脱いで行く。早き替え、何度も練習したのよ。ニーナに用意してもらったドレスを着る。そして、仮面をつけた。
 
「絶対に私が来るまでこの扉は開けないでね。もしも誰かが来ても、オリアーヌは具合が悪くて休んでいると入れてはだめよ」
「もちろんです。お嬢様こそあまり無理はなさらないでください」
「もちろん。じゃあまた後でね」
 
 そう言って、私は窓から抜け出したのだ。誰にもバレないようにこっそりと庭を通り、屋敷を抜け出す。少し行ったところに馬車が止まっている。――準備しておいた馬車だ。それに乗込み、何食わぬ顔で会場に入った。
 
 次は、ソフィアとして。
 
 あたしを怪しむ者はいない。二回も門をくぐっているなんて、誰も気づいていないのだ。
 
 ちょっと流行遅れのドレスを身にまとい、その辺を歩けば、あたしを見た人たちが噂話を始める。
 
「見て、よく出てこられたわね」
「あら、今日はハインツ様がご一緒ではないのね」
 
 声を潜めているのかいないのか。あたしに聞こえるように言っているのだろう。オリアーヌ・メダンは侯爵家の娘だったから、悪口はきちんと陰に隠されていることが多かった。下級貴族だとここまであからさまに言われるのね。
 
 ハインツの恋人――愛人かしら? ともなると、ダンスには絶対誘われない。誘えば噂になるだろうから、みんな怖いのだ。
 
 私は控えめに軽食をとりながら、声がかかるのをまつ。ケーキを食べきったころに、ここの使用人らしき男に声をかけられた。
 
「ソフィア様でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「実は、メダン家のオリアーヌ様がお呼びでして。一緒に来ていただけませんか?」
 
 男の声で回りが静まりかえった。
 
 会場がざわついた。なにせ、ハインツの婚約者がハインツの愛人を呼び出したのだ。実はオリアーヌのときに具合が悪いと休憩室を借りたとき、使用人の一人に言っておいたのだ。「ソフィアという女が来たら、この部屋に連れて来て」と。
 
 約束どおり、この使用人はソフィアに声をかけた。仕事のできる男だわ。
 
 おしゃべりの大好きな人たちは、ひそひそと話を始めた。きっと、私のことを言っている。こんな楽しそうなことないもの。明日のトップニュースよ。ハインツの元にも噂は行くだろう。
 
「メダン家のオリアーヌ様が私に……?」
 
 素知らぬふりをして首を傾げる。演技派なので、そこはちゃんと驚いてみせるのよ。
 
「あの……今日いらっしゃるのですか?」
「部屋で休憩されております」
 
 使用人は「ご案内します」とだけ行って先導した。どんな気持ちで案内しているのかしら? 今日の話のネタができた~とかかしら。この人もいい感じに着色して噂を振りまいてくれるといいのだけれど。
 
「あの……オリアーヌ様は私のこと何か言っていましたか?」
「いえ。何も」
 
 使用人の顔が鉄仮面のようだわ。こういうときって気持ちを押し殺しているときにこそ出る顔よね。何考えているのか気になるわ。
 
 使用人はオリアーヌが待つという部屋まで案内すると扉を叩く。
 
「ソフィア様をお連れしました」
 
 それから少し扉が開かれる。ニーナが顔を出した。
 
「お待ちしておりました。ソフィア様のみ、中へどうぞ」
「は、はい……」
 
 頷いて扉をくぐる。使用人の男は一礼するだけだった。
 
 扉が閉まっても気は抜けない。私は小声でニーナに声をかけた。
 
「誰も来なかった?」
 
 私の質問にニーナは小さく頷く。
 
「ありがとう。こんな面倒な役回りさせてしまって。さて、ニーナ、申し訳ないけどあともう一仕事、お願いね」
「本当に私がやるのですか?」
「ええ、自分ではできないもの。おもいっきりやってちょうだい」
 
 バチンと一発ね。私は頬をずいっとニーナに差し出す。
 
 オリアーヌに呼び出されたソフィアが頬を腫らして帰る。それだけで、皆様の話題を提供しているというもの。
 
「では……。いきます」
「ええ、明日まで跡が残るくらいしっかりよろしくね」
 
 歯を食いしばる。そして、ニーナは思いっきり私の頬をぶった。
 
 バチンッという音が部屋を満たす。やっぱり痛いわ。久しぶりに味わったビンタは、遠慮のない本気のやつだ。
 
 目の前がチカチカしたし、頬に熱が集まっている。目から涙まで飛び出てしまったわ。
 
 そして、ニーナの手のひらも真っ赤になっていた。
 
「ごめんなさい。ニーナも痛いわよね」
「いえ、この程度。お嬢様の頬のほうが痛そうで……」
「いいの。これは私が望んだことだもの」
 
 頬が熱い。鏡をみれば、くっきりはっきりしっかり。手のひらだと分かる跡が残る。
 
「世界広しといえど、使用人が主人の頬をぶったことがあるのは私くらいかも知れません」
「さて、私は一人泣きながら屋敷を出るから、ニーナは何食わぬ顔で出てね。みんなソフィアに注目してオリアーヌがどうしたかは気にしないわ」
 
 大体、誰が途中で抜けたかなんて把握できていないことが多い。次会ったときに適当に理由をつけておけばいいだけだ。
 
 そして、私は夜会の会場へと戻った。目に涙をたっぷりためて。頬には派手に手の跡がある。
 
 先ほどソフィアの近くにいた女性が隣の人に耳打ちする。「さっき、オリアーヌ様に呼ばれていたのよ」くらいは言っていそうだ。
 
 私はさっさと夜会を後にした。私がいなくなってから、楽しく装飾されていることだろう。
 
 次の日、ハインツは真っ青な顔であたしの頬を見た。