オリアーヌ・メダンではハインツとの婚約破棄まで導くことができない。本当ならもうソフィアの仮面は捨ててしまう予定だった。
自分の幸せのためにソフィアの仮面をもう一度かぶるのだ。と、かっこよく言ってみたはいいが、ただソフィアで誘惑して婚約破棄に導いてやるという計画。そして最後は彼の前から消える。まるで悪役。一人の男をだますのだから、悪役ではなく、悪なのかもしれないわ。
ハインツに会うため、ソフィアとして、私は彼に手紙を送った。今ごろ返事が届いているはず。
だから、ソフィアに変装して街に出た。折角だから少し買い物でもしていこうと思ったのが運の尽きだった。
なんで、こんなことになっているの……?
「突然すまない」
よそ行きの顔で「挨拶は不要だ」と笑うのは、ヴィンセントだった。とても地味な服装をしている。以前の大きな挨拶を根に持っているのだろう。彼は私を制止する。
あたしとヴィンセントは近くの庭園へと移動した。この庭園はとても縁がある。ハインツとも一緒に来たのだ。人はさほど多くない。場所を選べば秘密のお話までできてしまう。
まるで決闘のように、あたしとヴィンセントは適度な距離をたもって向かい合った。
「本来なら書面にて事前に話をすべきなのに、このような場所で申し訳ない」
「いえ、おかまいなく」
上流階級の貴族ならともかく、ソフィアのようなどこの誰とも分からない少女が王太子から手紙をもらえば卒倒ものだ。ヴィンセントの判断は正しい。
「それで殿下、何か……ご用でしょうか?」
多くを話せばあたしがオリアーヌだと気づいてしまうのではないか。彼は勘がいいようだから。
彼はあたしの顔をまじまじと見る。
「あの……」
「すまない。先日は知り合いに似ていると思ったが、違ったようだ」
「そうですか。ご用はそれだけですか? でしたらしつれ――」
「いや、君に一つお願いしたいことがあって」
「お願いですか? あたしのような者に叶えられる願いなどないかと」
「いや、君にしか叶えられない」
あたしにしか叶えられない願いなど、この世に存在するだろうか。田舎から出て来た貴族と言えるのかもわからない女が、何でも持っている王太子殿下に?
そんなの一つしかないわ。
「もしかして、殿下……。私のことを……好きになってしまったとか?」
つい、口にしてしまった。ヴィンセントはあたしの言葉に動きを止めた。固まっている。もしかして、本当に? あり得ないことはないわ。ハインツという前例があるのだから。
都会の美女を見慣れているヴィンセントは、こういう垢抜けていない女性が好みということもあり得る。
「違う。断じて君のことを好いたことはない。君は飛躍しすぎだ」
ヴィンセントはこめかみを抑える。なんだ。よかった。ハインツに加えてヴィンセントにまで気に入られてしまったら、ソフィアが魔性の女になってしまうところだったわ。折角悪女オリアーヌにいじめられるかわいそうなヒロインに仕立て上げるつもりだったのだ。
ヴィンセントがあたしを好きになったわけじゃないなら、穏便に離れよう。今はあなたに構っている暇はないのよ。
「では、なんでしょう?」
「ハインツのことだ」
「ハインツ様の? あたし、何かしましたか?」
「……君とハインツのことが噂になっている」
「まぁ! そうなのですね」
初耳! とばかりに驚いて見せる。ヴィンセントは小さく眉を跳ねさせた。
「君は世事に疎いようだから知らないかもしれないが、ハインツには婚約者がいる」
「それは、知っています」
「婚約者がいるハインツが君のような未婚の女性をエスコートしたとあれば、噂にもなる」
ヴィンセントの表情は真剣そのものだった。いつも意地悪ばかりするから忘れていたけれど、優しいところもあるのだ。ジュエラには毎日のようにお菓子を贈っているし。
彼は幼馴染みである私とハインツの仲を心配してくれているのだろう。なんと友人思いなひとだろうか。今まで私をいじめてきた恨みの半分くらいは帳消しにしてあげてもいい。
でも、今ヴィンセントに阻まれると、計画が台無しになってしまうわ。かといって、本当のことを言えば計画自体止められてしまいそうだし。
こうなったら、ソフィアはそういう話に疎いことにしてしまおう。キョトンとしてヴィンセントの希望は絶対にのまないわ。
「でも、ハインツ様は親同士が決めた婚約者だと言っておりました。愛しているのはあたしだけだって」
頬を染めることはさすがにできないけど、はにかむくらいならできる。ヴィンセントの顔が険しくなった。そんな顔もできるのね。
「このままだと、君にも良縁は回ってこなくなるだろう。すまないが、ハインツから手を引いてくれないか」
「良縁だなんて。もともと、貴族の中でも末端にいるあたしに、いい話などあるはずがありません」
「そんなにハインツが好きだと?」
「ええ、こんなあたしにも優しくしてくれるのは、後にも先にもハインツ様だけですから」
「自分が幸せなら、誰を傷つけてもいいと?」
「ハインツ様とオリアーヌ様の問題でしょう? あたしはどうすることもできません。あたしが身を引けば、ハインツ様はオリアーヌ様を愛しますか?」
ヴィンセントは難しい表情のまま、何も言わなかった。もしかしたら、彼もハインツが私のことを好きではないことを知っていたのかもしれない。
「話はそれだけでしょうか? でしたら、失礼します」
これ以上話すとぼろが出そうだ。あたしは頭を下げると駆け足でアパルトマンに戻った。
ヴィンセントと結婚する人はきっと幸せになれるわ。友人思いの彼が、恋人に優しくないわけないもの。私にもあんな風に心配してくれる優しい恋人がいたらよかったのに。
アパルトマンに行くと、手紙が届いている。ハインツからだ。
そうよ、その恋人に出会うためにはまっさらなオリアーヌにならなくてはいけない。たとえ悪女になったとしても、私はハインツとの婚約を破棄するの。
小さなアパルトマンの一室で、あたしは握りこぶしを作った。
自分の幸せのためにソフィアの仮面をもう一度かぶるのだ。と、かっこよく言ってみたはいいが、ただソフィアで誘惑して婚約破棄に導いてやるという計画。そして最後は彼の前から消える。まるで悪役。一人の男をだますのだから、悪役ではなく、悪なのかもしれないわ。
ハインツに会うため、ソフィアとして、私は彼に手紙を送った。今ごろ返事が届いているはず。
だから、ソフィアに変装して街に出た。折角だから少し買い物でもしていこうと思ったのが運の尽きだった。
なんで、こんなことになっているの……?
「突然すまない」
よそ行きの顔で「挨拶は不要だ」と笑うのは、ヴィンセントだった。とても地味な服装をしている。以前の大きな挨拶を根に持っているのだろう。彼は私を制止する。
あたしとヴィンセントは近くの庭園へと移動した。この庭園はとても縁がある。ハインツとも一緒に来たのだ。人はさほど多くない。場所を選べば秘密のお話までできてしまう。
まるで決闘のように、あたしとヴィンセントは適度な距離をたもって向かい合った。
「本来なら書面にて事前に話をすべきなのに、このような場所で申し訳ない」
「いえ、おかまいなく」
上流階級の貴族ならともかく、ソフィアのようなどこの誰とも分からない少女が王太子から手紙をもらえば卒倒ものだ。ヴィンセントの判断は正しい。
「それで殿下、何か……ご用でしょうか?」
多くを話せばあたしがオリアーヌだと気づいてしまうのではないか。彼は勘がいいようだから。
彼はあたしの顔をまじまじと見る。
「あの……」
「すまない。先日は知り合いに似ていると思ったが、違ったようだ」
「そうですか。ご用はそれだけですか? でしたらしつれ――」
「いや、君に一つお願いしたいことがあって」
「お願いですか? あたしのような者に叶えられる願いなどないかと」
「いや、君にしか叶えられない」
あたしにしか叶えられない願いなど、この世に存在するだろうか。田舎から出て来た貴族と言えるのかもわからない女が、何でも持っている王太子殿下に?
そんなの一つしかないわ。
「もしかして、殿下……。私のことを……好きになってしまったとか?」
つい、口にしてしまった。ヴィンセントはあたしの言葉に動きを止めた。固まっている。もしかして、本当に? あり得ないことはないわ。ハインツという前例があるのだから。
都会の美女を見慣れているヴィンセントは、こういう垢抜けていない女性が好みということもあり得る。
「違う。断じて君のことを好いたことはない。君は飛躍しすぎだ」
ヴィンセントはこめかみを抑える。なんだ。よかった。ハインツに加えてヴィンセントにまで気に入られてしまったら、ソフィアが魔性の女になってしまうところだったわ。折角悪女オリアーヌにいじめられるかわいそうなヒロインに仕立て上げるつもりだったのだ。
ヴィンセントがあたしを好きになったわけじゃないなら、穏便に離れよう。今はあなたに構っている暇はないのよ。
「では、なんでしょう?」
「ハインツのことだ」
「ハインツ様の? あたし、何かしましたか?」
「……君とハインツのことが噂になっている」
「まぁ! そうなのですね」
初耳! とばかりに驚いて見せる。ヴィンセントは小さく眉を跳ねさせた。
「君は世事に疎いようだから知らないかもしれないが、ハインツには婚約者がいる」
「それは、知っています」
「婚約者がいるハインツが君のような未婚の女性をエスコートしたとあれば、噂にもなる」
ヴィンセントの表情は真剣そのものだった。いつも意地悪ばかりするから忘れていたけれど、優しいところもあるのだ。ジュエラには毎日のようにお菓子を贈っているし。
彼は幼馴染みである私とハインツの仲を心配してくれているのだろう。なんと友人思いなひとだろうか。今まで私をいじめてきた恨みの半分くらいは帳消しにしてあげてもいい。
でも、今ヴィンセントに阻まれると、計画が台無しになってしまうわ。かといって、本当のことを言えば計画自体止められてしまいそうだし。
こうなったら、ソフィアはそういう話に疎いことにしてしまおう。キョトンとしてヴィンセントの希望は絶対にのまないわ。
「でも、ハインツ様は親同士が決めた婚約者だと言っておりました。愛しているのはあたしだけだって」
頬を染めることはさすがにできないけど、はにかむくらいならできる。ヴィンセントの顔が険しくなった。そんな顔もできるのね。
「このままだと、君にも良縁は回ってこなくなるだろう。すまないが、ハインツから手を引いてくれないか」
「良縁だなんて。もともと、貴族の中でも末端にいるあたしに、いい話などあるはずがありません」
「そんなにハインツが好きだと?」
「ええ、こんなあたしにも優しくしてくれるのは、後にも先にもハインツ様だけですから」
「自分が幸せなら、誰を傷つけてもいいと?」
「ハインツ様とオリアーヌ様の問題でしょう? あたしはどうすることもできません。あたしが身を引けば、ハインツ様はオリアーヌ様を愛しますか?」
ヴィンセントは難しい表情のまま、何も言わなかった。もしかしたら、彼もハインツが私のことを好きではないことを知っていたのかもしれない。
「話はそれだけでしょうか? でしたら、失礼します」
これ以上話すとぼろが出そうだ。あたしは頭を下げると駆け足でアパルトマンに戻った。
ヴィンセントと結婚する人はきっと幸せになれるわ。友人思いの彼が、恋人に優しくないわけないもの。私にもあんな風に心配してくれる優しい恋人がいたらよかったのに。
アパルトマンに行くと、手紙が届いている。ハインツからだ。
そうよ、その恋人に出会うためにはまっさらなオリアーヌにならなくてはいけない。たとえ悪女になったとしても、私はハインツとの婚約を破棄するの。
小さなアパルトマンの一室で、あたしは握りこぶしを作った。