上品な建物の中に案内されたあたしは、思わず眉根を寄せた。

 目の前にはにこやかな女性たち。ここは――……
 
「……ドレスサロン?」
「ああ。私のためにお洒落をしてくれたと聞いて、とても言いにくかったんだが……。今日のためにドレスを用意していたんだ。よかったら、着てみてほしくて」
 
 ハインツは駄目かな? と首を傾げる。くっ……。サロンまで連れてきて確認するあたり確信犯だわ。

 この勝負、完全にハインツの勝ちだ。
 
「でも……。折角今日のために準備したのに……」
「ありがとう。とても嬉しいよ。でも、今日は私がソフィアを楽しませる日だから。全部私に準備させてほしい」
 
 そんな言葉どこで覚えてくるのだろうか。五歳で婚約者になってからの十四年間、片時も忘れなかった好きな人の甘い言葉。まだ未練でもあるのかと言われそうだが、気づけば頷いていた。
 
 もう好きではないはずだ。条件反射だと思う。強い意志を持てと誰か私の頬を思いっきり叩いてほしい。
 
 あれよあれよという間に私は着替えさせられ、加えて化粧まで直されてしまった。つまり、ダサくて目立つかっこうでハインツに恥をかかせよう計画は失敗である。
 
 爽やかな青のドレス。すぐに分かった。ハインツの瞳と同じ色だから。ハインツのタイは緑である。あたしの色というわけだ。相手の色を取り入れるスタイルは、恋愛結婚がはやっている昨今ではよく選ばれている。
 
 サロンの女性たちは、私の姿を見て満足そうに頷いた。鏡の中には、可愛らしい女性が立っている。

 チャームポイントのそばかすが、元通りだ。
 
「お嬢様、とても素敵です」
「……あ、ありがとう」
 
 ここまでやってくれるとは思わなかった。サロンの方々は悪くない。いい仕事をしたのだ。でも、こっちの計画は丸つぶれ。
 
 ため息を飲み込むのがやっとだ。
 
「思っていたとおり、青がよく似合う」
 
 ハインツはあたしを抱き寄せた。自然な仕草で額に口づけを落とす。
 
「人前で困ります!」
「人前でなければ、その可愛い唇を奪っていた」
 
 きゃー! と叫んだのは、私ではなく、後ろにいたサロンの女性たちだ。
 
 今日は絶対二人きりにならないわ。ファーストキスは将来出会う相思相愛の相手のために取っておくと誓ったのだ。
 
 
 
 
 ハインツが選んだ夜会は中規模のものだった。小さすぎても大きすぎても面倒だから、この規模がちょうどいいのだろう。ロッド家が懇意にしている家の主催だから、というのもあるのかもしれない。
 
 会場に入って早々、ハインツは注目を浴びている。あたしに向けられた視線は刺さりそうなほど鋭い。婚約者がいても人気だということは知っていたけれど、これほどとは。
 
 オリアーヌのときと違って、みんな敵意を隠さないのだ。本当なら、声を大きくして言いたい。「ご安心ください。数日のうちにハインツはフリーになりますよ!」と。
 
 ハインツは周りの好意も私に向けられる敵意にも気づいていないのか、緩んだ顔で私に耳打ちする。
 
「みんな、君を見ている」
「ハインツ様に虫がついたと思っているのでしょう」
「こんな可愛い虫なら大歓迎だ」
 
 ハインツの顔はゆるゆるでだらしがない。そんなに可愛い虫がいいなら、お花畑で蝶でも追いかけていればいいのよ。
 
「ねえ、ハインツ様の横にいるあれは誰?」
「メダン家の……ではないわよね?」
「愛人かしら。あんな可愛い顔して、婚約者のいる男に色目を使うのね」
 
 ひそひそと噂話が始まる。もう少し、声を抑えたほうがよろしくてよ。本人に聞こえているわ。と、いうことは、今の声はハインツにも聞こえているはず。
 
 今日の計画その一はあえなく失敗に終わった。でも私の計画はまだ序章にすぎない。この夜会の真の目的は『ハインツが女に入れあげている』という噂を広め、お父様やお母様の耳にまで入れることなのだ。
 
 そのためには、ソフィアがハインツから愛されていることをアピールする必要がある。あたしは噂話を気にしている風を装って、わずかに俯いてみせた。
 
 計画どおり、ハインツがあたしの肩を抱き寄せ、唇を耳に寄せた。
 
「言わせておけばいい。彼女たちは暇なだけだ」
 
 彼の言葉に小さく頷く。田舎娘は噂話に耐性がないから、そんな気休めの言葉では駄目なのよ。頷いたけど、視線は合わせない。彼の服を小さく握って、ソフィアの気持ちを表してみました。

 存分に心配なさって。そして、周りの女性たちが嫉妬に嫉妬を重ねるくらい甘やかしてほしい。
 
「折角だから、スイーツを食べに行こう。ここのシェフはスイーツが得意なんだ」
 
 スイーツでご機嫌取りということね! そうはいかないんだから。でも、スイーツは好きだからぜひとも行きたい。私は食欲に負けてのこのこと着いて行ったのだ。
 
 ハインツはせっせとケーキを選ぶ。可愛らしくトッピングされたケーキを差し出された。この男が持っているソフィアのイメージだろうか。
 
 残念な男。
 
「これもおいしそうだ」
「ハインツ様、そんなに食べられませんよ」
「そう? 残ったら私が食べるから、一口だけ」
 
 なんだか恋人同士みたいじゃない。全種類一口食べて、ハインツに食べさせてあげようかしら。お言葉に甘えて、私は彼の手にあるケーキを一口分もらう。
 
 他人が見たら、周りの見えていない恋人たちに見えるかしら?
 
 こういうの、一度やってみたかったの。無事に婚約破棄できたら、こんな風に優しくしてくれる相手が見つかるかしら? ソフィアじゃなくて本当の私を見てくれる人。
 
「もういらない?」
 
 突然私の手が止まったからか、ハインツは不思議そうに首を傾げた。私は頭を横に振る。
 
「ええ、もうお腹いっぱい」
「じゃあ、次は腹ごなしにダンスでもしよう」
 
 ダンスもまた、アピールの場には持ってこいだ。みんなが注目してくれる。あたしは小さく頷いた。
 
「ソフィア嬢、私と一曲踊ってくれませんか?」
「もちろん、よろこんで」
 
 この調子なら、ハインツとどこから来たのか分からない田舎娘の噂は瞬く間に広がるだろう。数多の情報戦を制したメダン家の人間なら、二、三日で今日の話を手に入れてくるはず。
 
 あとは泣き落としで婚約を白紙にしてもらう作戦である。ロッド家にも噂は運ばれるだろうから、公爵のおじさまもおばさまも、渋々頷いてくれるのではないかしら。
 
 今日のハインツのとけきった顔を、たくさん広めていってほしい。
 
 あたしの腰を抱く彼は、とても幸せそうだった。こんな顔、見たことない。惚れ薬でも飲んだの? ってくらい。
 
 ステップを踏む。あたしはおもいっきり彼の足を踏んでやった。彼の眉根がわずかに寄る。痛いでしょ? だって、心を込めて踏んだのよ。
 
「ごめんなさい……! 少し、緊張してしまって」
「大丈夫。平気だ」
 
 彼は何でもない風に微笑む。なら、音を上げるまで蹴ってあげよう。くるりと回る瞬間、すかさず脛を蹴る。
 
 青あざをたくさん作って差し上げるわ。
 
 ハインツは踏まれるたび、蹴られるたびに眉を寄せる。
 
「あっ! また、ごめんさい! ……もう、やめましょう?」
 
 しおらしい態度を見せれば彼は頭を横に振った。
 
「いや、こんなの全然痛くもない。何曲でも踊っていられるよ」
 
 ハインツはどんなに蹴られても笑顔のままだ。恋の力なのか、彼の脛が屈強な戦士並みなのか。私にはわからない。
 
 もっと辛そうにしてくれれば私の気は晴れたのに、腹いせにも何にもならないわ。
 
 二曲ほどダンスを楽しんだあと、ハインツは知人から声をかけられた。その隙に私は「少し休憩する」と言って、彼の元を離れたのだ。
 
 一人きりになって、肩の荷がおりる。常にハインツに見られていると思うと緊張するのよね。
 
 ふうっとため息をついたとき、肩を叩かれた。
 
 振り向けば、知らない令嬢が三人ほど。腕を組んで私を見る。どちらら様かしら?
 
「ねえ、あなた。ハインツ様のなに?」
「なに? あー……、あたしはハインツ様の『遠い親戚です』」
 
 そう、遠い親戚よ。貴族たちが使う常套句だ。つまり、『愛人です』と言っているようなものだったりする。それがどういう意味なのか分かったのだろう。三人は眉をひそめる。
 
「あなた方はどちらさまでしょうか?」
 
 今は田舎娘という設定はあるものの、どこの誰とも知らない相手に話しかけられてとても不快だわ。名乗りなさい。
 
「私たちはメダン侯爵家のオリアーヌ様のお友達よ!」
 
 真ん中の令嬢が胸を張り、自慢げに言った。左右に立つ令嬢たちも大きく頷く。
 
 メダン侯爵家のオリアーヌ様ね。ふーん。……って、それって私じゃない?
 
 こんな人たち知らないんだけど。