「初子、泣くな」
「はい、申し訳ありません」

鼻声が返ってくる。俺は高層階用のエレベーターを待ちながら、彼女の顔を見ずに言った。

「前言撤回、泣いていいぞ」
「……いえ」
「これは俺の見解だけど」

言葉を切って、彼女の腰を抱いた。

「初子がずっとずっとお母さんを憎んできたのは、お母さんを忘れないためだと思うよ」

初子が顔をあげた。信じられないという表情をしている。俺は少し笑った。

「愛と憎しみは表裏一体だと言う。初子は愛情深いから、お母さんの罪を勝手に背負うだけじゃなく、恨むことでお母さんの記憶を鮮明にし続けてきたんだ。でもな、もういいんだ」

反対の手で初子の頭をかき抱き、胸に惹き寄せた。

「初子はもう誰も憎まなくていい。俺が隣にいるから、寂しくないぞ」

初子の瞳からどっと新たな涙の粒が溢れた。

「私は……ずっと寂しかったんですね」

しゃくりあげる声は子どものようだ。

「ずっとずっと、母に捨てられた子どものままだったんですね。寂しかったと、気づくこともできずに……!」

俺は無人のエレベーターホールで、初子を抱き締めた。
母親に捨てられたとき、初子はまだ小学生だった。ダメージの大きい父をささえ、妹を守り、学校や地域の迫害に耐えねばならなかった。
初子は寂しいと言いそびれていたのだ。悲しいと言わずに、罪の意識だけを育てて大人になってしまった。

本当は母親のことが大好きなひとりの女の子だったのに。