いよいよ明日、公爵邸に移り住む日が迫ったその夜。
 なんだか落ち着かず、眠れずにいました。お水をいただこうと部屋を出ると、明かりが点いた部屋があります。
 誰も使っていないはずの部屋なので、不思議に思い近づきました。私が幼い頃、子ども部屋として使用していた部屋です。両親の寝室の真横に位置するその部屋で、幼い頃はお兄様と二人仲良く遊んだものです。

(こんな時間に誰かしら……?)

 覗いてみると、お母様が私の小さい頃に読んでいた絵本をゆっくりと眺めていました。

「あぁいらっしゃい、ローズ。」

 お母様はすぐに私に気付くと、目尻に溜まった涙をさっと拭いました。

「こんばんは、お母様。まだ寝ないのですか?」
「ふふっ。眠れないのよ。不思議ね。お父様もまだお仕事をされているわ。」

 まだ少し涙ぐんだお母様がそう言いました。もしかしたら、すぐ婚約破棄されて出戻り娘になるかもしれませんけれど、引っ越し前夜です。私も甘えたくなりました。

「お母様、お胸に飛び込んでも良いでしょうか?」
「まぁまぁ私の娘は大きくなっても甘えん坊ですこと。」

 そう言いながらも、嬉しそうに笑ったお母様は腕を広げてくださったので、私は遠慮なくそのお胸に飛び込みました。
 優しいお母様。子どもの頃、こうしてお母様に甘えるのが大好きだったのに。いつの間にか、こうして甘えることもなくなりました。

(あぁ、お母様の香りだわ……)

 結婚式はまだですが、婚約式を済ませ、公爵家の嫁となるべく家を出る……全然予想していなかった未来に、私もまだ対応できていません。
 今更ながらとてつもなく寂しくなってきました。

(それは私だけじゃなく、お父様もお母様もなのだわ)

「お母様。婚約式のドレス、お母様も制作に一役買っていらっしゃったのでしょう?」

 あの素敵な純白のドレス。レースが贅沢に使用されていて、すごく私の好みでした。
お母様が私の好きそうなデザインを、カタリナ様にお伝えされたのだと確信していました。

「ええもちろん。娘の一大イベントだもの。婚約披露パーティも結婚式も、素晴らしいドレスをカタリナちゃんと作るから期待していてね」
「ふふふ。ありがとうございます。…それからアンナのことも。心強いです。」

 アンナはお母様から正式に公爵家についていくよう命じてくださいました。アンナが一緒に来てくださるのならば、本当に心強いです。

「当たり前よ。貴女のことは、私もお父様もとても大切なの。アンナは貴女が大好きだし、安心して任せられるわ。」

 お母様が私の頭をなでながら、ゆっくりとお話ししてくれます。その心地よさは幼少のころを思い出して。少しだけ涙が出そうでした。

「大好きよ、ローズ。」
「私もです。お母様。」
「ねぇ、もし辛くなったら、いつでも帰っていらっしゃいね。ほら、小さい頃みたいに荷馬車にでも忍び込んで。」

 気づくとお母様は湿っぽい雰囲気から、いたずらなお顔へと変化していました。

「もう!お母さまったら!」

 私たちは夜更けだというのに、抱き合いながらクスクスと笑い合い、深夜までお喋りを続けたのでした。