聡美との昼食を終え、5時間目の数学。
お昼の後ということもあり、午前中よりも強い睡魔に襲われながらも、なんとか授業を終えた。

6時間目に入った段階で、そういえば夢から覚めるのはいつだろうと考え始めた。

今日1日、私が過ごした時間は確かに現実そのものだった。
けれど、それとは矛盾するようにこんなことが現実で起こるはずがないとも思う。
私には実際に高校生活を送った記憶があって、卒業し、就職もしている。
そっちが夢だったと考えるにはあまりにも現実的すぎたもので、その考えはすぐに払われた。

考えても分からないことは、もう考えないようにしよう。

そんなことができない性格であることは自分が一番よく分かっているのだが、とりあえず私は席替えに集中することにした。


「じゃあ、三鷹と沢村じゃんけんな。」

担任の山本先生にそう言われ、立ち上がって出席番号1番の三鷹さんとじゃんけんをして、見事勝利した私は席に着いた。

「よし!じゃあ沢村から引くぞー!」

そう言ってくじを引くのは私ではなく、担任の山本先生だ。

うちの高校は不思議なもので、席替えは年2回。
平等にするためにくじを引くのは担任の先生なのだ。

箱の中から1枚の紙を取り出すと、先生はどこか嬉しそうな顔で私の方に紙を掲げた。

「良かったな、沢村!同じ席だ!」

「は、はあ…。」

すぐに黒板に私の名前を書いた先生に、当たり前だが生徒達からブーイングがいく。
窓際の一番後ろの席なんて誰もが憧れる席だ。
それをまたも私が勝ち取ってしまったことになんだか申し訳なくなって俯いた。

「しょうがないだろ!運なんだから!ほら、次いくぞ。川西引くからなー。」

さらりと生徒達のブーイングを流した先生はまた箱の中の紙を取り出す。

「お!川西やるなー。11番、一番前の席だ。俺の男前な顔が拝めるぞー。」

「うわ、最悪…。」

そんなやり取りを右から左に、もう集中することもなくなった私は頬杖をついて窓の外を見つめた。

ぼんやりとしていれば、これからどうしようかと無意識にまた考えてしまっていた。
とりあえず今のこの生活をしなくてはいけないのは分かっているのだが、果たしてこの先どうなっていくのか。
もしかしたら明日になればまた仕事をする日々に戻っているのかもしれないし、今瞬きをしたら自分の一人暮らしの部屋に戻っているかもしれない。

そう思ってぎゅっと目を閉じて開いてみるが、景色は何も変わらなかった。

良かったと内心で安堵している自分に驚く。
やっぱり、あの独りぼっちの生活には戻りたくないんだなと他人事のように思った。

『本当に自分がなんで過去に戻ってるのかをきちんと考えてみなよ。』

そう言って消えていったサチの言葉を思い出す。

自分が過去に戻ってる理由。

ふと、サチが初めて私の前に現れた時を思い出す。
彼女は私が帰ったらすでに部屋の中にいた。
願いを叶えると言って。

願い。過去に戻ること?
確かに私は戻りたいと願っていた。ずっと。
でもそれは高校の頃から思っていたことだ。
何度も何度も、やり直したいと。
なのにどうして今?どうして高校?
私が本当に戻りたいと思っていたのは、

「よし!じゃあ移動!」

山本先生の声にはっと我に返る。
辺りを見渡せば、各々が皆荷物をまとめて決まった席へと移動をしていた。

どうやら席替えのくじ引きは終わったようだった。
特に何も変わりのない私はまたぼんやり窓の外へと視線を戻して空を見つめた。

その時。

「沢村。」

私を呼ぶ声が聞こえて、声のする方へ顔を向ける。

「あ…。」

そこにはどこか嬉しそうな顔で笑う西川くんが立っていた。

「今日からよろしくな。」

一瞬その言葉の意味が分からずにいたが、黒板の方へ目を向けて、私の名前の横に西川と書かれているのが見えて納得した。

もう一度西川くんの方へと視線を戻せば、彼は変わらぬ笑みを浮かべていた。

「沢村はすごいな。同じ席だなんて。俺狙ってたのに。」

荷物を片付けながら話す西川くんに、内心で戸惑いながら返す言葉を考える。

「あ…いや…先生がくじ引いたから、すごいのは先生かな…。」

自分の声量はこんなにも小さかっただろうか。
きちんと彼に聞こえているだろうか。

そんなことが頭の中を占めていて、自分の声よりも鼓動の方がうるさくて、その不安はどんどん大きくなっていく。

「はは。そうかも。あ、掃除当番とかって席順だよな?最初はどこだろう。」

自分の声が届いていたことに安堵したものの、話し掛けてくる西川くんに戸惑いを隠せずにいた。
正直、早く話を終わらせたくてしょうがなかった。
何て言えば良いのかが分からずに口をつぐんでしまったところで、山本先生が声を上げた。

「はい、静かに。じゃあ半年は可哀想なことにこの席だから、よろしくな。それで、今から班作っていくからな。この班は1年変わんないからな。基本的に5人ずつ。まぁ班って言っても掃除くらいだな。えーと…この5人…」

そう言って先生は前の席から順に5人ずつのグループを決めていく。

「…で、窓際から2列目は前から4人ずつな。前から、5、6、7班。覚えとけよ。…えーっと…あ、そうそう。掃除場所は1ヶ月交代で、場所は黒板に貼っとくから話が終わったら見に来い。…ぐらいかな。よし!残りはグループで自己紹介一応しとけ。あとは自由時間!はい、始め。」

先生の話が終わった途端にざわざわ教室内が騒がしくなり始める。
中には席を立って黒板の方へと行く生徒もいた。

そんな教室内をぼんやりと見つめていれば、いきなり前に座っていた女子生徒がこちらを振り返ってバチッと目が合う。

「あ…。」

「じゃあ自己紹介しとこうか。」

西川くんの声に、はっとなって目の前の彼女から目を反らして西川くんの方へと視線を向けた。

「俺は西川陸。よろしく。」

そう言って人の良さそうな笑みを浮かべる西川くんは、前に座る男子生徒へじゃあ次、と声を掛けた。

「あー…田中義光。よろしく…。」

一切誰とも目を合わせることなく、無愛想にそう呟くと、彼は掛けていた眼鏡を少し上げた。

記憶を巡らせれば、そう言えば彼とは3年間クラスが同じだったことを思い出す。
けれど関わりはほとんどなく、話したのは班が同じになったこの時しかない。

どこか自分と近いような気がして、思わずじっと田中くんを見つめるが、彼はずっと視線を下げたまま机の中にある本に触れていた。

「えと…私は長月優奈です。よろしくね。」

田中くんへと向けていた視線を目の前の長月さんに向ければ、彼女は私と目が合うと微笑んだ。

髪を耳の下で2つに結ぶ長月さんは、全体的にふわふわとした雰囲気を持っていて、名前の通り優しそうな印象だった。

「次、沢村さん。」

「え、あ…」

彼女によくされて、自分の名前を口にしてから、よろしくお願いします、と小さな声で呟いた。

この中ではきっと、誰よりも声が小さいのだと思った。
そんな自分に嫌気がさして俯いた。
ざわざわとした教室内がどこか遠くに聞こえて、自分の鼓動がより大きく聞こえる。

こういうところから直さなければいけないのに、私にはそれができない。
声が小さいと言われるのは少なくなくて、直そうとすればする程声は出ない。
自分の中でも、もう落胆よりも呆れの方が勝っていた。
それくらい声が小さいのが当たり前になっていて、この時間が早く終われと願ってしまう。


「あ!俺、掃除場所どこか見てくる。」

そう言って西川くんは黒板の方へと歩いて行ってしまった。
残された私達3人で会話がある訳もなく、沈黙が生まれる。
チラッと田名くんへ視線を向ければ、いつ出したのか本を読んでいた。
その視線を今度は長月さんへ向ければ、バチッとまた目が合ってしまった。
反らすことが出来なくなった私に、彼女はまた優しい笑みを浮かべた。
その笑顔にどう返したら良いのかが分からずに、そっとまた視線を外した。

「沢村さんって趣味とかある?」

「え?」

急に話し掛けられて思わず前を見れば、長月さんは変わらぬ笑みを浮かべていた。

「しゅ…み…」

「うん。」

「えと…」

人に語れる趣味なんて今も昔も無くて、なんて返せばいいか分からずにまた俯く。
どうしようと、緊張で体が強張り始める。
握り締めた手のひらにじんわりと汗が滲んでいくのを感じ始めたところで、西川くんが戻ってきたのが分かった。

「俺たち理科室だったよ。」

「理科室か。今日からだよね?」

そう口にする長月さんはもう私からは視線を外していて、西川くんへ話し掛けていた。

話が反れたことに安堵して力が抜ける。
けれどすぐにやってしまったと後悔が生まれ始めた。

また、うまく話せずに呆れられてしまった。
せっかく話し掛けてくれたのに何も返せなかった。

また全身に力が入ってきて、体が少しずつ熱くなっていくのを感じた。

いつもこうだ。
本当に私は駄目だ。

心の中で自分自身を罵倒して、何でできないの?と責めていく。
でも責めた所でそれを改善できたことなんてなくて、その事実が悔しくて密かに歯を食いしばった。
その時。

「私、絵描くのが好きなの。」

その声に一瞬思考が停止した。

声のした方へ視線を向ければ、また長月さんがこちらを見つめていた。

私…話しかけられてる…。

横目で西川くんの方へ目をやれば、彼は田中くんに話し掛けていた。

何かを返さないとと必死に思考を巡らせて口を開く。

「絵…描いてるの…?」

絞り出した声はやっぱり小さくて、そして震えていた。
そんな私に彼女が何を思っているのかは分からなかったが、長月さんは嬉しそうに頷いた。

「小さい頃から好きで、よく描いてた。あ、ここの学校ね、美術の先生がすごい人なの。美術部の顧問もしてるって聞いて、美術部に入部する目的でここの高校選んだんだ。だから家が遠くて少しだけしんどいんだよね。」

そう言う長月さんからはしんどさなど全く見えなくて。彼女は嬉しそうに笑っていた。

「どの位…掛かるの…?」

「2時間位かな?」

2時間?たかが絵のために?

「た、大変だね…。何で通ってるの…?」

「自転車で駅までと、残りは電車とバス。」

ニッコリと笑う彼女からは、やっぱりしんどさなどひと欠片も感じなかった。

「本当に、好きなんだね。」

思わずこぼれてしまった言葉に、彼女は一瞬え?と目を見開いたが、すぐに言葉の意味を理解したのか、少し照れくさそうに頷いた。

「沢村さんはどの位掛かるの?」

「私は…バスで20分位かな…。」

「そうなんだ。中学同じ人とかいる?」

そういえばと思い起こすが、私の知っている中では聡美しかいなかった。

「あんまり…かな…。」

「そっか。私もいないから、もし良かったら仲良くしてくれると嬉しいな…。」

彼女の言葉に目を見開くが、先程みたいに目は合わなかった。
先程見ていた優しい笑みはどこへ行ったのか。
長月さんは少し自信なさげに笑っていた。

彼女の手が少し震えていることから読み取れるのは、彼女は今怖がっているのだということだった。
それはきっと、私が今まで体験したことのない恐怖なのだろうと思った。
ぐっと唇を噛んで、そっと口を開いた。

「あ…の…話し掛けてくれて…嬉しかった…。私でよければ…。」

今度は俯くことなく長月さんの方を見て言えば、彼女は目を見開いて私の方へ視線を向けると、すぐに嬉しそうに笑みを溢した。
そして小さな声で呟いた。

「話し掛けて…良かった…。」

安堵のため息をつく彼女は、友達作るの苦手なんだ、と続けた。

その言葉にどうしようもなく胸が熱くなった。
それは友達と言われたことに対してもそうだが、何よりも勇気を出して私に話し掛けてくれたことだった。

ふと思考を巡らせて過去を振り返るが、こうして話掛けてくれた記憶はない。

あの頃の私は、人を寄せ付けなかったのかもしれない。
そう思えば胸が苦しくなって、涙が込み上げてきそうだった。

「私も…苦手…。」

彼女の言葉にそう返せば、長月さんはまた照れくさそうに笑った。

仲良くなれるだろうか。

そんな不安が押し寄せてきたけれど、何となく大丈夫なような気がして力が抜けた。