大学に入学しても、俺が考えるのは沢村のことばかりだった。
未練がましく、ずっと彼女のことを考えてはため息を吐くばかりだった。
入学してすぐに、俺は気の合う友人に出会った。
柊木創。
彼は俺と似たような過去を持っていた。
『容姿が良いだけでいじめられていた。』
何気ない会話のなかで、不意に彼はそんなことを口にした。
『お前、俺と境遇同じっぽく見えて話し掛けた。』
自分の容姿が良いとは思ったことはないが、容姿が良いという理由で殴られたことはある。
それを伝えれば、同じだなと彼は笑った。
そして、人が嫌いだったこと。引きこもっていたこと。幼馴染みの女の子に救われたことを話してくれた。
『理解してくれる人間なんていないと思ったけど、案外すげー近くにいるんだな。』
そう言って幸せにそうに笑う柊木が、羨ましいと思った。
柊木に出会って1年がたった頃。
俺は自分のことを話した。
過去のことを話すのは、彼が初めてのように思う。
過去のこと。母親のこと。
それから沢村のこと。
そして、信じてもらえるかどうかは分からないが、過去に戻ったことを俺は彼に話をした。
柊木は俺の話を馬鹿にすることもなく、最後まで真剣に聞いてくれた。
そして、災難だなと眉を寄せて言った。
「だからお前、彼女も作らず告白全部断ってんのか。」
「……。」
「なんか、その子以外信用してない感じだな。」
そう言われれば、確かにそうかもしれないと思った。
自分を救って、自分を理解して、自分を受け止めてくれたのが彼女だけだと、俺は確かに思っている。
「でもさ、結局はその戻った過去だけだろ?現実の彼女を、お前は見てたの?」
「は…。」
見てたって、俺はずっと彼女を追い掛けた。
話し掛けて、話し掛けて。
でも結局彼女は…。
「お前が話し掛けても振り向かなかった。それは事実。ていうか現実。人間さ、時間が経てば変わるもんだよ。沢村だっけ?結局その子は変わっちゃったんだよ。お前が出会った彼女はもうそこにいない。」
そこにいない?
体からすっと熱が引いていくのを感じた。
分かっていた。
だけど分かりたくなかった現実。
「お前はさ」
「幻想にすがってるだけ。」
「……。」
「そう言いたいんだろ。」
冷めた声が出たように思う。
俺が戻った過去に見た彼女の笑顔を、優しさを、俺はもう一度見たいと思った。
でも結局、取り戻せなかった。
取り戻せなかったんじゃない。
最初から無かった。
だってその記憶は、俺の中にしかないから。
でも、それでも。それを言われたことに、無意識に腹を立てていた。
彼の方に視線を向ければ、柊木はそんな怖い顔すんなよと言ってため息をついた。
「別にそこまでは言ってねーよ…。お前が過去に戻ったその過去を、幻想だとは思わない。でも、現にお前が出会った彼女は、その過去の彼女ではなかったんだろう?変わってたんだろう?そんでお前は、彼女を変えられなかった。もう変えることもできない。だったらもう、追い掛ける意味あんのかなって思っただけ。今はもう会えない彼女を思っている間にも、その子以上にお前を理解してくれる子と、お前は出会ってるかもしれないだろ?」
無駄じゃないのか、この時間。
柊木の言葉が、胸に突き刺さった。
何も言えなかった。
結局俺は彼女を変えられてない。
幻想にすがってるだけ。
もしかしたら今彼女は、自分を変えてくれる人と出会ってるかもしれない。
笑顔を取り戻して、その人と笑い合ってるかもしれない。
その人と幸せを作ってるかもしれない。
『一緒に幸せを作っていこう。』
そう言ってくれた彼女は、俺ではない誰かと…。
頭に血がのぼる。
考えたくなかった。
「お前って…すっげー嫉妬深いんだな。」
「は?」
「自分の顔見てみろよ。絶対渡さないって、表情に出てんぞ。」
けらけら笑う柊木に、呆然としてしまう。
絶対に渡したくない…?
「お前よりも、彼女のことを幸せにする奴はいっぱいいるんだよ。」
「っ。」
「お前よりも、彼女はカッコいい男捕まえて、幸せだって笑う。それをお前は邪魔すんのか?」
邪魔…する…?
俺が…?
「彼女の幸せ壊すのかって聞いてんだよ。」
柊木の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。
彼女の幸せを壊す?
壊すってなんだ。
だって俺が、俺が
「俺が彼女を幸せにする。笑顔にする。そいつ以上に。俺が…」
そこまで言ってはっと我に返る。
辺りを見渡せば、色んな人の視線が俺に集まっていることに気が付いた。
食堂で、俺はなんで声を上げているんだ。
俯いた俺に、目の前の柊木は楽しそうに笑っていた。
「お前…彼女のことになると必死だな。ていうかなにその自信。どっからくるわけ?」
「は?!」
「そこまで好きなら探せよ。もっと。必死に。お前みたいなめんどくさい人間を受け止めてくれたんだろ?そんな子もう二度と出会えるかわかんねーぞ。お前に出来ること、まだ残ってんじゃねーの?」
俺に出来ること。
彼女と一緒になったクラスメートには大半連絡をした。
先生にも居場所を教えてほしいと連絡をした。
彼女の家にも行った。
でも。
誰も彼女の連絡先を知らなかった。
個人情報は教えられないと先生には言われた。
何度か送り迎えした彼女の家には、今は誰も住んでいなかった。
全てが断たれたように思えた。
俺に出来ること?
あとはなんだ…。
「そんだけ好きなら、死に物狂いで探してみろよ。お前を過去に戻したっていう男の子も、縁は消えないって言ったんだろ?それでも見付けらんなくて、もうやることは全部やったって言うなら諦めろ。お前と彼女は交わんない運命なんだよ。」
家に帰って考えた。
考えて、考えて、考えて…。
でも何も浮かばない。
その時、こんこんっと扉をノックする音が聞こえて我に返る。
返事をすれば、控えめに扉が開かれて、弟の空が顔を出した。
「兄ちゃん、飯。」
「おう。今日父さんの当番だっけ?」
「そう。ハンバーグ作ってたよ。」
そう言って、空は扉を閉めて行ってしまった。
13歳になった彼は身長も伸び、あの頃よりも男らしくなったように思う。
母が亡くなったとき、わんわん泣いていた彼の面影はもうない。
それでも母のお墓に行くと、途端に彼は泣きそうな顔をする。
幼い彼にとって母親を亡くすことがどれだけ辛かったか。
今だってきっと、彼に母親は必要なはずだ。
一度だけ、父に再婚をしたりはしないのかと聞いたことがある。それは父の為というよりも、空のために。
その時父は言った。
『たとえ空に、お前に母親が必要だとしても、俺にはそれはできない。俺は母さん以外を愛せないんだよ。』
その言葉に俺は安堵したのを覚えている。
父が母ではない誰かを連れてきたとき、迎えられるかどうかが分からなかったからだ。
愛し合っている2人を思い出して思う。
俺もそんな、唯一無二の人と共に生きたい。
それで浮かぶのはやっぱり彼女で。
見つからなくても、俺はきっとずっと彼女を好きでいるのかもしれないと思った。
あの思い出がなかったとしても、俺の記憶の中には確かに存在しているから。
「…飯…。」
食べなきゃと思って体を起こす。
ベッドを降りたところで、足元に落ちている2つ折りの紙を見つけて拾い上げる。
「あ…」
拾い上げた紙を広げて、不意に声を漏らす。
それは母が俺に宛てた最期の言葉。
“陸 あなたは変われる”
歪な字で書かれたそれに、涙が溢れそうになった。
母さん。俺は変われただろうか。
母さんに恥のない息子でいられてるだろうか。
深いため息をついて、それを机に置こうとしてあれ?と思う。
この紙は、写真立てに飾ってあるはずだ。
ぱっと机に飾ってある写真立てに目をやれば、あるはずのそれはやっぱりなかった。
自分で出した覚えはない。
さっきまで確かにこれは写真立ての中にあったはずなのに。
「なんで…」
チリンッ。
「っ!」
不意に聞こえた音に肩を震わせた。
なんだと思い音の聞こえた方に目を向ければ、足元に見覚えのあるものが落ちていた。
「え…これ…。」
あるはずはない。
ブルーの風鈴のストラップを掲げてそう思う。
だってこれは、俺が戻った過去で、夏祭りに行った屋台で買ったものだ。
「なんで…これがここに…」
戻った過去はなかった。
それなのに、これがここにあるのはあり得ないはずだ。
「なんで…」
「諦めないで。」
「っ?!!!」
ふと声が聞こえて、ばっと辺りを見渡す。
けれどこの部屋には誰もいない。
「今…声が…。」
確かに声がした。
それに今の声は…
「母さん…?」
諦めないでって…。
ふと、ある記憶が蘇る。
それは、俺が戻った過去で母が言った最期の言葉だ。
『これからどんなことがあっても諦めないで。陸は変われたんだから。』
そしてもうひとつ、ある光景が脳裏に浮かぶ。
高校の教室。
辺りは暗くて、廊下には制服を着た沢村の姿。
少し怒ったような表情を見せる彼女の視線の先には、見覚えのない髪の長い女の子が1人。
「なんだこれ…。記憶にない…。」
それにあの子は誰だ?
沢村の友達?
そこまで思って、はっとなった俺は卒業アルバムを引っ張り出した。
ぱらぱらと捲り、先程の女の子の写真を探す。
「あった…。」
新井聡美。
見覚えのないその人物に、もしかしてと思いすぐにそのページから知っている男子生徒を探す。
「河村…。河村に聞いてみよう…。」
スマホを取りだし、急いで元クラスメートの河村に電話を掛ける。
すぐに俺のコールに出た河村は、久し振りと弾んだ声でそう言っていたが、すぐに本題に話をすり替える。
「えと…新井!新井聡美って子の連絡先知ってるか?」
『え?新井?確かあるよ。なにお前、新井のこと好きなの?そう言えば沢村とは連絡取れたのかよ。』
沢村と連絡を取るために、彼に連絡先を知っているかどうかを聞いたことがある。
「取れてない。その沢村と連絡取るために、彼女の連絡先がほしいんだ。知ってたら頼む。」
俺の切羽詰まった声に、河村はすぐに分かったと言って電話を切った。
秒で来た彼女の電話番号を入力して、すぐに通話ボタンを押した。
プルル…と、無機質な電子音が数回鳴って、もしもし?という女性の声が聞こえて息を呑む。
「あ…と、すみません。新井聡美さんの携帯ですか?あの俺…同じ高校の西川陸と申します。」
『そうですけど…。西川…陸…。ああ…。…えと、西川くん…?私に何か…?』
少し戸惑っているような彼女に、俺はすぐに本題に話を進めた。
「あの…俺、沢村幸乃さんの居場所を知りたいんです。」
『え?幸乃?』
その言葉に、彼女が沢村の友人であることを確信した。
「俺、彼女に救われたんです。何度も、何度も。でも…何も返せてないんです…。卒業してから彼女を探していました。でも当てが何もなくて、漸くあなたに辿り着いたんです。俺は彼女の優しさに、笑顔に救われたんです。でも今度は俺が救いたい。…彼女の居場所を、教えてくれませんか?」
そこまで言って、暫く沈黙が続いた。
何分たったか、彼女は会社名らしき言葉をぽつりと口にした。
『…今そこにあの子がいるかは分からない…。でも、卒業してあの子はそこに就職した。』
「ありがとうございます…!」
『あの子に…私も救われてたような気がする…。』
ぼそっと呟かれた言葉は聞こえなくて、思わず聞き返せば何でもないと突っぱねられた。
『用件はそれだけ?』
今度ははっきりと聞こえた声に、はいと返事を返す。
それじゃあと言って、彼女は電話を切った。
スマホの画面を切り替えて、先程彼女が言っていた企業を検索する。
「行ける。」
電車で20分。
駅から足で10分。
財布を片手に、部屋を飛び出して階段をかけ降りる。
「陸、飯。」
「ごめん!後で食う!」
俺を呼ぶ父の声を無視して、俺は家を出た。
走って、走って。
『おにーさんがつくった縁は、消えることはないから。』
不意に脳裏に浮かんだコウの言葉に、確かな可能性を感じた。
会えるかもしれない。
込み上げてくる何かを堪えながら、俺は駅まで走り続けた。
未練がましく、ずっと彼女のことを考えてはため息を吐くばかりだった。
入学してすぐに、俺は気の合う友人に出会った。
柊木創。
彼は俺と似たような過去を持っていた。
『容姿が良いだけでいじめられていた。』
何気ない会話のなかで、不意に彼はそんなことを口にした。
『お前、俺と境遇同じっぽく見えて話し掛けた。』
自分の容姿が良いとは思ったことはないが、容姿が良いという理由で殴られたことはある。
それを伝えれば、同じだなと彼は笑った。
そして、人が嫌いだったこと。引きこもっていたこと。幼馴染みの女の子に救われたことを話してくれた。
『理解してくれる人間なんていないと思ったけど、案外すげー近くにいるんだな。』
そう言って幸せにそうに笑う柊木が、羨ましいと思った。
柊木に出会って1年がたった頃。
俺は自分のことを話した。
過去のことを話すのは、彼が初めてのように思う。
過去のこと。母親のこと。
それから沢村のこと。
そして、信じてもらえるかどうかは分からないが、過去に戻ったことを俺は彼に話をした。
柊木は俺の話を馬鹿にすることもなく、最後まで真剣に聞いてくれた。
そして、災難だなと眉を寄せて言った。
「だからお前、彼女も作らず告白全部断ってんのか。」
「……。」
「なんか、その子以外信用してない感じだな。」
そう言われれば、確かにそうかもしれないと思った。
自分を救って、自分を理解して、自分を受け止めてくれたのが彼女だけだと、俺は確かに思っている。
「でもさ、結局はその戻った過去だけだろ?現実の彼女を、お前は見てたの?」
「は…。」
見てたって、俺はずっと彼女を追い掛けた。
話し掛けて、話し掛けて。
でも結局彼女は…。
「お前が話し掛けても振り向かなかった。それは事実。ていうか現実。人間さ、時間が経てば変わるもんだよ。沢村だっけ?結局その子は変わっちゃったんだよ。お前が出会った彼女はもうそこにいない。」
そこにいない?
体からすっと熱が引いていくのを感じた。
分かっていた。
だけど分かりたくなかった現実。
「お前はさ」
「幻想にすがってるだけ。」
「……。」
「そう言いたいんだろ。」
冷めた声が出たように思う。
俺が戻った過去に見た彼女の笑顔を、優しさを、俺はもう一度見たいと思った。
でも結局、取り戻せなかった。
取り戻せなかったんじゃない。
最初から無かった。
だってその記憶は、俺の中にしかないから。
でも、それでも。それを言われたことに、無意識に腹を立てていた。
彼の方に視線を向ければ、柊木はそんな怖い顔すんなよと言ってため息をついた。
「別にそこまでは言ってねーよ…。お前が過去に戻ったその過去を、幻想だとは思わない。でも、現にお前が出会った彼女は、その過去の彼女ではなかったんだろう?変わってたんだろう?そんでお前は、彼女を変えられなかった。もう変えることもできない。だったらもう、追い掛ける意味あんのかなって思っただけ。今はもう会えない彼女を思っている間にも、その子以上にお前を理解してくれる子と、お前は出会ってるかもしれないだろ?」
無駄じゃないのか、この時間。
柊木の言葉が、胸に突き刺さった。
何も言えなかった。
結局俺は彼女を変えられてない。
幻想にすがってるだけ。
もしかしたら今彼女は、自分を変えてくれる人と出会ってるかもしれない。
笑顔を取り戻して、その人と笑い合ってるかもしれない。
その人と幸せを作ってるかもしれない。
『一緒に幸せを作っていこう。』
そう言ってくれた彼女は、俺ではない誰かと…。
頭に血がのぼる。
考えたくなかった。
「お前って…すっげー嫉妬深いんだな。」
「は?」
「自分の顔見てみろよ。絶対渡さないって、表情に出てんぞ。」
けらけら笑う柊木に、呆然としてしまう。
絶対に渡したくない…?
「お前よりも、彼女のことを幸せにする奴はいっぱいいるんだよ。」
「っ。」
「お前よりも、彼女はカッコいい男捕まえて、幸せだって笑う。それをお前は邪魔すんのか?」
邪魔…する…?
俺が…?
「彼女の幸せ壊すのかって聞いてんだよ。」
柊木の言葉に、一瞬頭が真っ白になった。
彼女の幸せを壊す?
壊すってなんだ。
だって俺が、俺が
「俺が彼女を幸せにする。笑顔にする。そいつ以上に。俺が…」
そこまで言ってはっと我に返る。
辺りを見渡せば、色んな人の視線が俺に集まっていることに気が付いた。
食堂で、俺はなんで声を上げているんだ。
俯いた俺に、目の前の柊木は楽しそうに笑っていた。
「お前…彼女のことになると必死だな。ていうかなにその自信。どっからくるわけ?」
「は?!」
「そこまで好きなら探せよ。もっと。必死に。お前みたいなめんどくさい人間を受け止めてくれたんだろ?そんな子もう二度と出会えるかわかんねーぞ。お前に出来ること、まだ残ってんじゃねーの?」
俺に出来ること。
彼女と一緒になったクラスメートには大半連絡をした。
先生にも居場所を教えてほしいと連絡をした。
彼女の家にも行った。
でも。
誰も彼女の連絡先を知らなかった。
個人情報は教えられないと先生には言われた。
何度か送り迎えした彼女の家には、今は誰も住んでいなかった。
全てが断たれたように思えた。
俺に出来ること?
あとはなんだ…。
「そんだけ好きなら、死に物狂いで探してみろよ。お前を過去に戻したっていう男の子も、縁は消えないって言ったんだろ?それでも見付けらんなくて、もうやることは全部やったって言うなら諦めろ。お前と彼女は交わんない運命なんだよ。」
家に帰って考えた。
考えて、考えて、考えて…。
でも何も浮かばない。
その時、こんこんっと扉をノックする音が聞こえて我に返る。
返事をすれば、控えめに扉が開かれて、弟の空が顔を出した。
「兄ちゃん、飯。」
「おう。今日父さんの当番だっけ?」
「そう。ハンバーグ作ってたよ。」
そう言って、空は扉を閉めて行ってしまった。
13歳になった彼は身長も伸び、あの頃よりも男らしくなったように思う。
母が亡くなったとき、わんわん泣いていた彼の面影はもうない。
それでも母のお墓に行くと、途端に彼は泣きそうな顔をする。
幼い彼にとって母親を亡くすことがどれだけ辛かったか。
今だってきっと、彼に母親は必要なはずだ。
一度だけ、父に再婚をしたりはしないのかと聞いたことがある。それは父の為というよりも、空のために。
その時父は言った。
『たとえ空に、お前に母親が必要だとしても、俺にはそれはできない。俺は母さん以外を愛せないんだよ。』
その言葉に俺は安堵したのを覚えている。
父が母ではない誰かを連れてきたとき、迎えられるかどうかが分からなかったからだ。
愛し合っている2人を思い出して思う。
俺もそんな、唯一無二の人と共に生きたい。
それで浮かぶのはやっぱり彼女で。
見つからなくても、俺はきっとずっと彼女を好きでいるのかもしれないと思った。
あの思い出がなかったとしても、俺の記憶の中には確かに存在しているから。
「…飯…。」
食べなきゃと思って体を起こす。
ベッドを降りたところで、足元に落ちている2つ折りの紙を見つけて拾い上げる。
「あ…」
拾い上げた紙を広げて、不意に声を漏らす。
それは母が俺に宛てた最期の言葉。
“陸 あなたは変われる”
歪な字で書かれたそれに、涙が溢れそうになった。
母さん。俺は変われただろうか。
母さんに恥のない息子でいられてるだろうか。
深いため息をついて、それを机に置こうとしてあれ?と思う。
この紙は、写真立てに飾ってあるはずだ。
ぱっと机に飾ってある写真立てに目をやれば、あるはずのそれはやっぱりなかった。
自分で出した覚えはない。
さっきまで確かにこれは写真立ての中にあったはずなのに。
「なんで…」
チリンッ。
「っ!」
不意に聞こえた音に肩を震わせた。
なんだと思い音の聞こえた方に目を向ければ、足元に見覚えのあるものが落ちていた。
「え…これ…。」
あるはずはない。
ブルーの風鈴のストラップを掲げてそう思う。
だってこれは、俺が戻った過去で、夏祭りに行った屋台で買ったものだ。
「なんで…これがここに…」
戻った過去はなかった。
それなのに、これがここにあるのはあり得ないはずだ。
「なんで…」
「諦めないで。」
「っ?!!!」
ふと声が聞こえて、ばっと辺りを見渡す。
けれどこの部屋には誰もいない。
「今…声が…。」
確かに声がした。
それに今の声は…
「母さん…?」
諦めないでって…。
ふと、ある記憶が蘇る。
それは、俺が戻った過去で母が言った最期の言葉だ。
『これからどんなことがあっても諦めないで。陸は変われたんだから。』
そしてもうひとつ、ある光景が脳裏に浮かぶ。
高校の教室。
辺りは暗くて、廊下には制服を着た沢村の姿。
少し怒ったような表情を見せる彼女の視線の先には、見覚えのない髪の長い女の子が1人。
「なんだこれ…。記憶にない…。」
それにあの子は誰だ?
沢村の友達?
そこまで思って、はっとなった俺は卒業アルバムを引っ張り出した。
ぱらぱらと捲り、先程の女の子の写真を探す。
「あった…。」
新井聡美。
見覚えのないその人物に、もしかしてと思いすぐにそのページから知っている男子生徒を探す。
「河村…。河村に聞いてみよう…。」
スマホを取りだし、急いで元クラスメートの河村に電話を掛ける。
すぐに俺のコールに出た河村は、久し振りと弾んだ声でそう言っていたが、すぐに本題に話をすり替える。
「えと…新井!新井聡美って子の連絡先知ってるか?」
『え?新井?確かあるよ。なにお前、新井のこと好きなの?そう言えば沢村とは連絡取れたのかよ。』
沢村と連絡を取るために、彼に連絡先を知っているかどうかを聞いたことがある。
「取れてない。その沢村と連絡取るために、彼女の連絡先がほしいんだ。知ってたら頼む。」
俺の切羽詰まった声に、河村はすぐに分かったと言って電話を切った。
秒で来た彼女の電話番号を入力して、すぐに通話ボタンを押した。
プルル…と、無機質な電子音が数回鳴って、もしもし?という女性の声が聞こえて息を呑む。
「あ…と、すみません。新井聡美さんの携帯ですか?あの俺…同じ高校の西川陸と申します。」
『そうですけど…。西川…陸…。ああ…。…えと、西川くん…?私に何か…?』
少し戸惑っているような彼女に、俺はすぐに本題に話を進めた。
「あの…俺、沢村幸乃さんの居場所を知りたいんです。」
『え?幸乃?』
その言葉に、彼女が沢村の友人であることを確信した。
「俺、彼女に救われたんです。何度も、何度も。でも…何も返せてないんです…。卒業してから彼女を探していました。でも当てが何もなくて、漸くあなたに辿り着いたんです。俺は彼女の優しさに、笑顔に救われたんです。でも今度は俺が救いたい。…彼女の居場所を、教えてくれませんか?」
そこまで言って、暫く沈黙が続いた。
何分たったか、彼女は会社名らしき言葉をぽつりと口にした。
『…今そこにあの子がいるかは分からない…。でも、卒業してあの子はそこに就職した。』
「ありがとうございます…!」
『あの子に…私も救われてたような気がする…。』
ぼそっと呟かれた言葉は聞こえなくて、思わず聞き返せば何でもないと突っぱねられた。
『用件はそれだけ?』
今度ははっきりと聞こえた声に、はいと返事を返す。
それじゃあと言って、彼女は電話を切った。
スマホの画面を切り替えて、先程彼女が言っていた企業を検索する。
「行ける。」
電車で20分。
駅から足で10分。
財布を片手に、部屋を飛び出して階段をかけ降りる。
「陸、飯。」
「ごめん!後で食う!」
俺を呼ぶ父の声を無視して、俺は家を出た。
走って、走って。
『おにーさんがつくった縁は、消えることはないから。』
不意に脳裏に浮かんだコウの言葉に、確かな可能性を感じた。
会えるかもしれない。
込み上げてくる何かを堪えながら、俺は駅まで走り続けた。