「…ん…。」

目を開けて、見慣れた天井をぼんやり見つめた。

体が重い。
そんなことを思いながら起き上がって、ふと違和感を覚える。

「あれ…。」

視界が何かに隠れてあまり見えない。
何かなんて分かりきっている。
俺はずっとこの視界で過ごしてきたんだ。

嫌な予感が胸を過って、密かに体が震えていく。

あれ…。これって…。

「おかえりなさい、おにーさん。」

「っ!!」

ふと聞き覚えのある声が聞こえてそちらに目を向ければ、あの日俺を過去に送った少年、コウが立っていた。

「なん…で…。」

「無事に元の世界に戻ってきたよ。」

「元の世界…?」

「そう。おにーさんがお父さんに殴られた次の日、かな?」

そう言われて初めて、顔に違和感を感じ始めた。

父さんに殴られた…?
だってそれは…

「……。」

頭を思い切り何かで殴られたような感覚がした。

「ふふ。おにーさんは理解が早くて助かるよ。」

「ちょっと待て。」

無邪気に笑うコウに、俺はベッドから降りて歩み寄る。膝をついて、彼と同じ目線になって尋ねる。

「…過去は…。過去は…変わってるのか…?」

震える声でそう呟けば、コウは急に真剣な眼差しで俺を見つめて、それから首を横に振った。

「変わってないよ。元通り。おにーさんはお母さんの死ぬ間際には会えなかったし、お母さんに謝ることも出来てない。幸乃さんにも、会えてないよ。」

「っ」

頭が真っ白になった。コウから視線を外して項垂れる。

全部がなかった。
謝ったのも。笑い合ったのも。
色んなところに行ったのも。
沢村に出会ったのも。
母さんと沢村が出会えたのも。

全部、全部がなかった。

「なんで…なんで……なん…で…」

「過去は変えられない。変えることはできない。ぼくが出来るのは過去に戻すことだけ。」

過去は変えられない…?

「じゃあなんで戻したんだ…。無意味なのに…。何も変わらないのに…。なんで…。なんで…。」

「それでもおにーさんは変われたじゃん。」

「は…?」

顔を上げれば、コウは優しい笑みを浮かべて俺を見つめていた。

「あの頃のおにーさんじゃない。おにーさんは変われたんだ。それに、おにーさんがつくった縁は、消えることはないから。」

「縁…?」

コウはそれだけ言うと、俺の部屋に溶け込むかのように消えてしまった。

目を見開いて、コウが居たはずの場所を呆然と見つめる。

頭が追い付いていけてなかった。

俺は確かに過去に戻った。
母さんに謝った。
自分を変えた。
失った時間を取り戻した。
沢村に会えた。
母さんの最期を見届けた。

覚えているのに。記憶の中には沢山の笑顔があるのに。

「全部…なかったのか…?」

泣きたかった。
叫びたかった。

でも涙も声も出なかった。

この感情の出し方が分からなかった。

その時、コンコンとノックをする音が聞こえて我に返る。

「飯。」

父のぶっきらぼうな声が聞こえたと思ったら、その気配は消えていく。

扉を開ければ、いつも母がやっていたように、ご飯が置かれていた。
母が作るご飯よりも歪な形をしているそれに、母はもうこの世にはいないと物語っているように思えてしょうがなかった。

そのまま階段を降りてリビングに向かえば、父と弟が2人でご飯を食べていた。

「にい…ちゃん…。」

俺の存在に気付いた空は、涙を流しながら震えた声で俺を呼んだ。父はこちらに目もくれずに、黙々とご飯を食べている。

「…兄ちゃん…?泣いてる…の…?」

そう言われて、初めて自分が涙を流していることに気が付いた。父はそんな俺を、目を見開いて見つめていた。

視界がぼやけた。
体が震えた。
立っていることが困難になって、崩れるようにしてそこに座り込む。

「…っ…ごめっ…。ごめん…。ごめんなさい…。」

何度も何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、ぼろぼろと涙を溢した。

結局駄目だった。
過去をやり直しても、俺が母さんと過ごした時間は何もない。

ごめんなさい。
謝罪の言葉も言えてない。
ありがとう。
感謝の言葉も言えてない。

あの笑顔はこんなにも俺の記憶の中にあるのに。

俺がいない過去で、母は笑っていただろうか。
家族で、みんなで色んなところに行きたいと願った母の願いは、母の中で叶えられたのだろうか。

叶えられてるはずがない。
母は最期まで俺のご飯を部屋の前に置いて、話をしようと向き合ってくれていた。
毎日毎日。
出掛けた様子なんてなかった。
笑っていた様子なんてなかった。

ごめんなさい。
幸せを与えてあげられなくてごめんなさい。

「母さん…ごめんなさい…。」

「に…ちゃっ…」

近付いてきた空も、ぼろぼろと涙を流していた。
小さなその体を自分の方に引き寄せて、ぎゅっと力強く抱き締める。

「ごめん…ごめん…。」

声を上げて、空は俺の腕の中で泣いた。

全てを壊した。
過ごすはずだった家族の時間を、笑顔を、幸せを。
父さんから、空から、母さんから。
俺は全てを奪ってしまった。

「馬鹿野郎…。」

その言葉と共に、大きな体に抱き締められた。

「母さんはずっと…お前を待ってたんだ…。」

「っ…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。」

謝っても謝っても、この気持ちが母に伝わることはない。

それでも何度も何度も、俺は謝罪の言葉を繰り返し口にしていた。




「ごめんなさい…。」

頭を下げた俺に、父はふっと笑ってもういいよと口にした。

「逆に、お前が苦しんでたのを気付いてやれなくて悪かった…。」

「ちがっ」

「違くない。お前は昔から我慢する奴なのに。身勝手に引きこもってたとばかり思っていた。向き合ってやれなくてごめん。」

結局は身勝手だ。
人が嫌になって、関わりたくなくて、引きこもった。
身勝手のなにものでもない。

「…人間、沢山いるからな。全員が全員味方をするわけじゃない。黒くて汚い人間は沢山いる。俺も、昔はそう思ってた。」

「え…。」

「昔、荒れてたよ。両親とも喧嘩して、周りとも喧嘩して。色んな奴傷付けて、迷惑かけて。何も信じなかったし、信じられなかった。でもその時に、母さんに会ったんだ。」

初めて聞く話だった。
置いてある母さんの写真を手にとって、父さんは愛しいものを見る目でそれを見つめていた。

「母さんが俺を変えてくれた。こんな俺を、彼女は否定せずに、肯定してくれたんだ。信じられないのもわかる。でも信じようとしてみて。合わない人間なんて沢山いる。けど必ず自分を理解してくれる人間もいるから。って。私はその1人だって言われたら、もう好きになるしかないよな。」

ははっと笑って、父は写真を置いた。

「初めて好きになった。守りたいと思った。幸せにしたいと思った。それ言ったら、母さん言ったんだ。されてばかりは嫌だ。だから一緒に幸せを作っていこうって。」

不意に浮かんだ。

『一緒に幸せを作っていこう。』

そう言った彼女の顔が。

「お前もきっと、そういう相手が見つかる。」

そう言って、父は1枚の紙を差し出してきた。

「母さんが息を引き取る直前に書いた、お前に宛てた言葉だ。」

2つ折りのそれを、ゆっくりと開いた。

“陸 あなたは変われる”

「…っ…」

歪な文字で、それでも確かに母さんの字だった。

ポタポタと涙が溢れていく。

「お前は変われるよ。必ず。母さんが言うんだ。」

だから大丈夫。

そう言った父の声に重なるように、母の声も聞こえたような気がした。

変わる。変えられる。
父に何度も頷いて、脳裏に浮かぶ母の笑顔に俺はそう誓った。