あれから4時間。
懐かしい国語の教科書を片手に、私は国語科担当の宮本先生の声を右から左へ聞き流していた。

いつ、夢から覚めるのだろうか。

先程から何度もそう思いながら、目だけで辺りを見渡す。
何も変わらない風景は平和だったあの頃を思い出させられる。
けれど同時に、どうしようもない不安にかられて、私は密かに顔を歪めた。

本当にリアルな世界。

時間の流れもまるで現実で。なんなら今までの授業も眠たくなって、途中意識を失ってしまう程だった。
まるでこの世界が現実のように思えて仕方がない。
そんなことを考えてしまう度に、眠気など一気に吹き飛んで全身に鳥肌が立った。

いや違う。これは私の夢だ。
最近仕事に疲れて、昔に戻りたいなんて思ったから夢で見てるんだ。

必死にそう思おうとしても、やっぱり一向に夢から覚める気配はなかった。

「沢村さん。」

「え」

ふと誰かに呼ばれて顔を上げれば、教卓に立つ宮本先生と目が合った。
先生に呼ばれていたことに気がついて急いで返事をして立ち上がる。

「ここの段で、サチ子は様々な困難に襲われるって書いてあるけど、沢村さんが考える困難って例えばどんなものがある?」

「え…。」

「この先の話では、サチ子の困難について勉強するんだけど、沢村さんが考える困難について聞きたいなって。」

そう言って微笑む先生の言葉に、私は思わず固まった。同じ説明をされ、十分に先生の言葉は理解出来てはいるのだが、投げ掛けられた質問に対しての答えは見出だせなかった。

未だに固まっている私に、追い討ちを掛けるように先生が微笑む。
皆の視線が痛いくらいに私に集中していることに気が付いたとき、私は少し視線を下げながら口を開いた。

「社会に出ること…ですかね…」

「……え。」

先生の思わず出てしまったであろう声に、私の心臓がざわめき出したのを感じた。

やってしまった。

自分が今高校生であることを忘れていた。
社会にも出ていない高校生が言うことではない。
失言してしまったことを弁解しようと口を開きかけた所で、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

「あ…えと…、沢村さんありがとう。確かに社会に出ることはすごく大変なことよね。じゃあ、今日はここまで。次回この続きからやります。委員長号令。」

早口でそう言った宮本先生に私が唖然としていると、委員長の河村くんが声を上げた。

「きりーつ。きをつけー……れい。」

そんな彼の気だるげな声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。
ざわざわと教室内が騒がしくなり始めた所で、私は静かに席に座った。

もっと違うことを言うべきだった。

どこかぎこちない先生の声が、未だに耳にこびりついて残っている。

「疲れた…。」

たった2分にも満たないあの時間で、どっと疲労感が押し寄せてきて静かに机に突っ伏す。

そっと目を閉じれば、瞼の裏に浮かんだのは宮本先生の顔だった。

『あなた達にもきっと、明るい未来があるのよ。』

高校生の頃、宮本先生がよく口にしていた言葉。
あの頃の私は聞き流していたはずなのに、どうして頭に浮かぶのか。
それは先生の聞きやすい声のせいなのか、それとも…。

そこまで考えて思考を停止させた。
先程までざわついていた胸が何事もなかったかのように正常な鼓動を鳴らし始める。

明るい未来なんて、あるはずがないんだ。

「馬鹿みたい。」

低く冷めた声は誰の耳にも入ることはなく、そっと騒音の中に溶け込むように消えていってしまった。