夏休みを迎えた私の生活は、あの頃と何一つ変わらなかった。
部活も、バイトさえもやっていない。
まして友達と遊ぶなんてことはなかった。
それは今もそうで。友達というものに、一体誰を当てはめて良いのかも分からなかった。
思い浮かぶのは優奈と聡美。
優奈はともかく、私にとって聡美を友達と呼んで良いのかが、私には分からない。

結局誰にも連絡は出来なくて、私は今日も田中くんから借りた本に没頭していた。

夏休みが始まってから2週間ちょっと。
あの頃は当たり前だった1人で過ごす夏休みは、なぜだか少し寂しいように思えてしょうがなかった。

借りた本はもう読み終わってしまい、自分が今1人であることを自覚させられて、より一層その寂しさが増していく。

どうしてあの頃は平気だったのだろうか。

1人でいることは好きだった。
誰にも干渉されず、誰とも関わらなければ自分も相手も傷付けることはない。誰もが平和でいられる。
それが良かった。それで良かった。なのに…

「……。」

静寂とした1人の空間が、どうしようもなく息苦しく感じられた。
まるでそれはあの1人きりの部屋に戻ったようで。夏なのに寒気がして、無性に泣きたくなった。

「…出掛けよう…。」

無意識に呟いた言葉に、自分で驚いた。
それでも体は勝手に動いて、身支度を始める。

どこに行こうか。

玄関の扉を開けて、ぶわっと包まれる暑さに目が眩みそうになった。
それでも歩みを止めない私は、何を求めているのだろうか。

ただひたすらに歩みを進めて、ふと浮かんだのは中学生の頃だった。
そういえば、夏休みはよく図書館へ行っていた。
本を借りては、誰もいない公園のベンチで座って読んでいた。

田中くんから借りた本ももうすぐ終わる。
そう思った私の足は、図書館へと向かっていた。


図書館へ行けば、図書館独特の匂いと空気に包まれて、一気に懐かしさが込み上げてくる。
暑い外とは違って、ガンガンに効いたクーラーが心地よく感じた。

暫くはここに居ようと決めて、端から端の本を1冊ずつ眺めていった。
何となく気になったタイトルの本を手にとって、ページを捲って内容を見る。面白そうな本は戻さずに手にとっていれば、気が付けば自分の手には5冊の本が握られていた。

もういいか。
そう思ってカウンターへ行き、貸し出し手続きを済ませて図書館を後にした。

外はやっぱり暑くて、思っている以上に自分の体が外の空気についていけてないことに気が付いた。

そういえば、飲み物もおろか朝ごはんも食べていない。
お腹空いた…。喉が乾いた…。

キョロキョロと辺りを見渡すが自販機はなく、少し先に喫茶店があるのが見えた。

もうお昼だし、何か食べていこうかな…。

そう思って、私はその喫茶店へと足を進めた。

その喫茶店は落ち着いた雰囲気があって、どこか懐かしい感じがした。

チラッと中の様子を確認すれば、お客さんが1人カウンターに座っているだけであとは特に見当たらなかった。
そんな静かな雰囲気に心惹かれながら、私はその喫茶店へ足を進めた。

「いらっしゃ……沢村?!」

俯きがちに扉を開けた私の耳に入ってきたのは聞き慣れた声だった。
顔を上げれば案の定、西川くんが目を見開いて立っていて、彼は白のYシャツに黒のエプロン身に付けていた。

「西川くん…どうして…。」

思わぬ人物に目を丸くして彼を見つめていたが、そういえば喫茶店でバイトをしていると言っていたことを思い出した。

「バイト先…ここだったんだ…。」

そう言えば、彼は照れくさそうに笑って頷いた。

「あ…えと、いらっしゃいませ。1人?」

「あ…うん…。」

「じゃあ、どうぞ。」

手招きをする西川くんについて行けば、カウンターからは少し離れた席へ案内される。

「何注文する?」

優しい笑みを浮かべながら、西川くんは机に置いてあるメニューを私の方へ差し出した。

「2週間ぶり…位か…?まさかここで会えるなんて思ってなかった。」

少し頬を染めながら、彼は恥ずかしそうにそう言う。

「私も…びっくりした…。あ、この間はありがとう。本と教科書運んでくれて。」

わざわざ家まで届けてくれた彼の優しさにもう一度お礼を言えば、どういたしましてとどこか嬉しそうに笑う。

「あ、こっちこそありがとう。スポーツドリンク…助かった。あとお菓子まで。」

「あ…いや、対したものじゃなくて…申し訳ない…って言うか…。あ、熱中症は大丈夫だった…?ごめんね、暑い日に運んで貰っちゃって…。」

あの暑い日に運んで貰ったのが申し訳なくて、眉を寄せてそう告げれば、彼はどこか嬉しそうな顔で大丈夫だよと口にした。

「沢村は優しいな…。」

「え?」

「あ!ごめん、注文。」

はっと私の手元を見つめて、彼は思い出したかのようにエプロンのポケットから紙とペンを取り出した。

私も急いでメニューを広げて、その中にあったオムライスに目が止まってそれを指差す。

「じゃあ…これと…飲み物はウーロン茶下さい…。」

「かしこまりました。少々お待ちください。」

また優しい笑みを浮かべて、店員モードに入った西川くんは奥の方へと行ってしまった。

その姿をぼんやりと見つめて、先程彼が口にした優しいという言葉を思い出して胸が熱くなった。

自分が優しいとは到底思えないが、そう言ってくれたのがただ嬉しかった。

優しいのは、西川くんの方だ…。

思い起こせば、彼は私が過去に戻った日も優しく声を掛けてくれた。
席替えをしてから今日まで、脳裏に浮かぶのはやっぱりあの優しい笑顔で。
気さくに話し掛けてくれて、困っていたら助けてくれて。
どこまでも優しい彼に、なんだか胸が熱くなるのを感じた。

「はい、ウーロン茶と、今さらだけどお冷やどうぞ。」

気がつけば思い浮かべていた優しい笑みが目の前にあって、思わず肩を震わせる。

「あ、ごめん!いきなり…。」

「あ…いや…。えと…いただきます。」

目の前に置かれたウーロン茶とお冷やを見つめて、小さなコップに入った水をひとくち口にしてカラカラな喉を潤していく。

「喉乾いてた?」

私の飲みっぷりに、西川くんはくすくすと笑っていた。
空に入ったコップを見つめながら、自分の顔が徐々に熱くなっていくのを感じた。

恥ずかしい…。

そう思いながらも、私は俯いたまま頷いた。

「そっか。おかわりあるからいっぱい飲んで。」

そう言ってカウンターにあった水を手に取ると、私のコップへ注いで机の上に置いた。

「あ、ありがとう…。」

そんなやり取りをしていれば、カウンターの方からいらっしゃい!という何ともこの喫茶店の雰囲気には似つかわしくない声が聞こえて、そちらに目を向ければ、大柄な男性が笑みを浮かべて立っていた。

「お?なんだ?陸の知り合いか?」

どこか見覚えのあるその人に、どこかであったっけと考えるが、思い出すことは出来なかった。

「あ、マスター。同級生ですよ。」

マスターと呼ばれたその人は嬉しそうに笑うと、そうかそうかと口にしてこちらに近付いてきた。

「あ、もしかして陸の彼女だろう?可愛い子捕まえたなぁ。」

「え。」

「ち、違いますよ!」

思わず声を漏らしてしまった私の横で、西川くんは慌ててそう口にした。

「なんだ違うのか。残念。」

ガハハッと、マスターと呼ばれたその人は大口を開けて笑っていた。
そんな姿に唖然としていれば、マスターははっとなってやべっと声を漏らすと、また厨房へと消えてしまった。

「ごめんな…騒がしくて。」

顔を西川くんの方へ向ければ、彼は頬を染めながら申し訳なさそうに眉を寄せていた。

「あ…大丈夫だよ…。少しびっくりしたけど…。」

「この店の雰囲気には似つかわしくないだろ?」

その問いかけに、思わず辺りを見渡してから曖昧に笑った。
確かにお店だけ見れば、物静かそうな人がマスターなのだろうと思ってしまう。

「俺も…初めて来たときはびっくりしたよ…。でも気さくに話し掛けてくれるから、親近感があって、なんか通いたくなっちゃうんだよな。」

親近感。
その言葉に確かにと頷く。

親近感があるから、どこかで会ったような気になってしまっていたのか。

「あ、あとご飯とコーヒーが美味しいから、密かに人気があるんだよ、ここ。」

「そうなんだ…。」

「意外だろ?でもほんと、期待してて良いから。」

ちょっとうるさいけど、と小声で言う西川くんに笑みが溢れる。
そんな話をしているうちに、厨房の方からできた!という声が聞こえて思わず肩が揺れる。

「ねーちゃんできたぞ!マスター特製スペシャルオムライスだ!!」

勢いよく出てきたかと思えば、マスターは机にオムライスを置いた。

美味しそう。そう思ったのも束の間。オムライスの横にサラダ、オニオンスープ、チョコレートケーキにコーヒーと、次々とお皿が並べられていき目を見開く。

「さ!いっっっぱい食ってくれ!」

ニカッと笑うマスターを、私は何とも言えない表情で見つめる。

あれ…?私セット頼んだっけ…?

呆然とする私に、西川くんが申し訳なさそうに謝ってきた。

「ごめん!…マスターが勝手に出してるんだ…。」

「すまん、ねーちゃん!つい食べて欲しくて出しちまった…。」

しゅんと肩を落とすマスターに慌てて大丈夫ですよと口にすれば、すぐに笑顔になってそうか?と言った。

「あ、陸!お前の分もあるぞ!飯は1人より2人の方が美味しいだろ?ちょっと待ってろ!」

そう言うと、マスターは風のようにまた厨房へと消えてしまった。
そしてすぐに戻ってくると、手に私と同じメニューを持っていて、それを机に並べる。

「マスター…。」

「お前もう上がりだろ?まかないだと思って食ってけ。」

ガハハッと笑って、マスターはまた厨房の方へ姿を消してしまった。

そんなマスターに、西川くんは肩を落としたが、すぐに私の方へ視線を向けて笑った。

「食べるか。」

その言葉に頷いて、彼が席に着くのを待ってから手を合わせた。

「いただきます…。」

「いただきます。」

2人で向かい合いながらオムライスを口にした。

「あ、美味しい。」

ふわとろな卵の上にデミグラスソースがかけられ、中のケチャップライスと絶妙なバランスを取りながら口の中に広がる。
どこか懐かしいその味に、思わず笑みが溢れた。

「…良かった。」

同じように笑みを溢す西川くんもオムライスをひとくち口にいれるとうまい!と声をあげた。

回りに置かれたサラダもオニオンスープも平らげて、デザートにチョコレートケーキとコーヒーも頂いた。

「…お腹いっぱい…。」

「ははっ。全部食べたもんな。」

「うん…。でもすごく美味しかった。」

「だろ?俺の作るものは全部天下一品なんだよ!」

どこからわいて出たのか。気がつけばマスターはカウンターところで仁王立ちになって腕を組んでいた。

「いやぁ全部食べてくれてありがとな!ねーちゃん!名前なんてんだ?」

「え、あ…沢村です。沢村幸乃…。」

「お!良い名前だなぁ。ゆきのってのはどう書くんだ?」

こちらに近づきながら、マスターはそんなことを聞いてきた。

「幸せに…のは、こういう字です…。」

「へぇ。幸せか。じゃあ、幸乃の人生はきっと、幸せでいっぱいになるぞ!」

言われた言葉に、思わず顔を歪ませてしまった。

幸せでいっぱい…。その言葉があまりにも自分にはしっくりこなかった。

「そうですかね…。」

発した声はどこか震えていて、あまりにも小さいように思えた。

「そうだよ!顔を上げれば、案外幸せはすぐそこにあるもんだよ。」

思わず顔を上げてマスターを見つめれば、マスターは優しい笑みを浮かべていた。

「立ち止まってるだけじゃ、何も起こらんよ。」

先程よりも優しい声音で、マスターはそう言った。その言葉が何故だか心に突き刺さって、鈍い痛みが走った。

「前に進むことは必ずしも幸せに繋がる訳じゃない。この世に不幸なことなんて山ほどある。でも、塞ぎ込んで立ち止まってるだけじゃ、幸せなんて一生感じられない。」

私を見据えるマスターの瞳は、どこか儚げに感じられた。

「辛いこと悲しいことはいっぱいあるさ。でもそれを乗り越えていかなくちゃ幸せになんかなれやしない。その乗り越える力が必要なんだ。でも一番大事なのは、その力を1人でつくろうとしてはいけないことだ。」

「え…。」

マスターを見れば、今度はニカッと笑った。

「その為に、友達って言うもんがいるんだよ。」

「……。」

とも…だち…。

ふと浮かんだのは聡美と優奈の顔で。
けれど彼女たちを友達と呼んで良いのかが、私には分からなかった。

「ねーちゃんは色んなもん抱えすぎてるよ。」

言われた言葉に目を見開いた。
その瞳が何もかもを見透かしてるようで、怖くなった私はマスターから目を反らした。

抱えすぎてる。
それは単に、私がずっと過去を引きずっているだけ。
乗り越えることも、忘れることもできなくて、その方法も分からない。

それでも傷付くのはもう嫌で。
私はそれにただ蓋をしただけだ。

結局出口の見えない暗闇をずっとさ迷っている。
それも、自ら出口を見付けようとせずに独りになって、ずっとうずくまって過去に浸っているだけだ。

じんわり瞳に涙が滲み始めて、それを堪えるために唇をぎゅっと噛み締める。

「俺はさ…沢村の力になりたいよ…。」

「え…」

マスターではないその声に、私は顔をあげた。
声の主の西川くんは優しい笑みを浮かべていて、そんな彼の姿を呆然と見つめてしまう。

「1人で悩まないで。」

「っ…。」

初めて言われたその言葉が、痛む胸にしみていくのを感じた。
彼の優しい言葉が、声音が、私の心にすっと馴染むように入ってきて、胸が熱くなっていく感覚がした。

けれどその優しさに、私は恐怖を感じた。

分からない。
どうしたらいいのか分からない。

咄嗟に立ち上がって、自分の拳を強く握り締める。
私を呼ぶ西川くんとマスターの声が聞こえたような気がしたけれど、私は返事もすることなく俯いた。

ここに、居たくない。

そう思ったら私の行動は早かった。

どこか冷静になった頭で鞄からお財布を取り出して、千円札を2枚置いて逃げるように扉の方へ向かった。

ここから、早く逃げたい。

ごめんなさい。

その言葉が音となって発せられたのかは分からなかった。

「沢村!!」

西川くんの声が耳に突き刺さっても尚、私は振り返ることなくカフェを飛び出した。