「も……むり」
春日井くんの手をぎゅっと握ると、少々名残惜しそうに離れていく。
息を整えながら俯くと、髪が耳にかけられた。
なんだろうと顔を上げようとした時だった。影が落ちて、耳元に吐息が吹きかかる。
そして、先ほどまで私の口内にいた彼の舌が今度は耳を這うようにして迫ってくる。
「待って……っ」
「俺のファーストキス、聞いたんだから。これは対価でしょ」
そういえば、自分で教えてもらう代わりにキスをしてもいいと言ったんだった。
それに……どうしよう。
想像以上に興奮してる。私ってやっぱり変態らしいと再認識してしまう。
耳の中に春日井くんの舌が入り込み、音がこもって聞こえてくる。
甘ったるい声が自分の唇の隙間から漏れて、縋るように春日井くんの手を握りしめた。
キスはいいって言ったけど、耳まで虐められるなんて聞いてない。
でも突き放せないのは、多分〝もっと〟って自分の中で求めてしまっているからだ。
ようやく春日井くんが私から離れると、彼はしれっとした顔で目を細める。
「どうだった?」
弄ばれたような気がして、ちょっと悔しくなる。
だけど——
「めちゃくちゃドキドキした」
「予想に反して素直」
「……だって本当のことだし。それにキスって甘いんだなぁって思って」
「甘い? あー……さっき飴舐めてたからかな」
飴で、キスの味、変わる? なにそれ、美味しい。どなたか小説のネタとして飴キスシリーズを書いて私に読ませてください。
「俺と付き合う気になってくれた?」
「春日井くんは初めてじゃないから無理かな」
「初めてってことにして付き合おう?」
なんでそこまでして真実を捻じ曲げるんだ。春日井一樹。
「キス上手いのにそんなわけない」
「初めてでも、キスが上手いやつもいるよ」
「ええ……うーん、どうだろ」
小説の中では大抵初めてのキスは、ちょっとだけ失敗して「えへへ」と彼女とほのぼのしているのが多い。
キスが上手いのはこなれている男だけ。そもそもどうして彼は私に拘るのだろう。女の子なんて選り取り見取りのはず。
「春日井くんは、私のどこがいいの?」
「予想外でおもしろいところ」
「どういうこと?」
「内緒」
どうやら話してくれる気はないらしく、強引に聞くのはやめておいた。
キスは確かに、その……ドキドキしたけど、でも付き合うとは話が別だ。
「まあ、今日のところは出直すね」
立ち上がった春日井くんは、なにか思い出したようにして動きを止めた。
そして、意地悪く微笑みを浮かべる。
「飴」
「え?」
「今度は違う味にするよ」
その言葉に、ごくりと息を飲む。
期待なんてしていない。次こそは拒む。
それなのに私はなにも答えられなかった。
夕暮れの公園のブランコで、私は一つ年下のまほこちゃんとよくお喋りをしている。
彼女とは年齢は違っていても気の合う友達で、こうしてよく学校の後に会っている。
まほこちゃんは学校が違っていて、ここの公園で一年前に出会った。
そして私に大事なことを教えてくれた友達。
夕焼けに照らされて淡く光る金髪をクリップで一つに束ねると、まほこちゃんが勢いよくブランコを漕ぎ出した。見ているだけで目が回りそう。
「てかさー、好きだねーそのシリーズ」
私が先ほど購入した新刊のことだろう。初々シリーズで、作中には女の子と初めて付き合う男の子たちが登場する。
この本は、元々まほこちゃんが一巻を持っていて面白いから読む?とすすめてくれた。それから私の方がどっぷりとハマって今に至る。
「ウブ男子という扉をノックしてくれたまほこちゃんには感謝してる」
「やめて、そんな変態の扉誰もノックしてないから」
まほこちゃんがこの本を教えてくれなかったら私は男の子に関心を持たずに人生を終えていた。
だからこそ、この本と出会わせてくれて世界を広げてくれた彼女に感謝しているのだ。
新刊の裏表紙に書いてあるあらすじを読んでみると、『いよいよ、ふたりは初めてのキス!?』という言葉が目にとまった。
初めての……キス。
つい先日経験したことを思い出して、心臓が騒がしくなる。これがキスの力。
「ねえ、まほこちゃん」
「んー?」
「キスってしたことある?」
「は、はあ?」
私の質問にまほこちゃんがブランコを漕ぐのをとめて、怪訝そうに見つめてくる。
「初めてなのにキスが上手い人なんていないよね?」
「まあ、それぞれなんじゃない?」
「え、いるの!? 初めてなのにキスが上手い人!」
そんな人が実在している!?
食いつく私にまほこちゃんは冷ややかな視線を向けて、右手の平を見せてくる。
「ストップ。ここ外だし夜の公園だし、声のトーン落として」
まほこちゃんは破天荒なのに案外そういうことは気にするのだ。
ここには私たちしかいないのだから心置きなく話に花を咲かせたいのに蕾を毟られた。
「……なんかあった? それともいつもの理想と妄想?」
そうだ。私の好みを彼女は知っているので、この際打ち明けてしまおう。
ひとりで悶々と悩んでいても仕方ない。
「私ね、キスしたの」
指の腹で唇をなぞる。思い出すと、ちょっとくすぐったい。
「まじ? ついに彼氏できたんだ。おめでとう」
「彼氏はできてないよ」
「え!?」
「でも重要なのはそこじゃないの」
祝福してくれたまほこちゃんの表情が強張る。衝撃を受けるのはまだ早い。
「聞いて驚かないで」
胸の中に抱え込んでいた悩みを、紐解くように唇をわずかに動かして打ち明ける。
「相手はプレイボーイなの」
かつてウブだったという学校一のナンパ男であり、私の理想のウブ男子とは程遠い存在。
「は? それって遊ばれたってこと?」
「違うの、最も重要な点が間違ってる!」
「え、なにが最も重要なの」
「私の理想は、ぎこちないキスで顔が真っ赤になっちゃう初々しい男の子なの!!」
だというのに、春日井くんはキスが上手いし! 余裕な表情!
あれはあれでよかったけども!!
「それはどうでもいい」
「よくないよ! 理想大事だよ!」
「てかさぁ、気になるのは付き合ってもないのになんでキスしたの?」
まほこちゃんからじっとりとした目を向けられる。
「なんというか、こう……勢いで?」
「一番最悪なパターンじゃん」
「? 最悪ではなかったよ」
キスの感覚が知れたし、美味しかったし、ドキドキした。
キスってこんな感じか〜と学べたので、初々シリーズのキャラの初キスのシーンをもう一度読み返したほどだ。
「そいつのこと、好きなの?」
「好き? うーん……相手は手練れだし……」
「手練れって……つまり女遊びが激しいってことなんだよね? それやめといた方がいいと思うけど」
一見不良っぽく見えるけれど、まほこちゃんは真っ直ぐでいい加減なことが嫌いな女の子だ。
だからこそ春日井くんのようなチャラい男はあまり合わなさそう。
「学校一のプレイボーイみたいなんだよね」
「が、学校一!? はぁ……なにやってるんだか」
「私は悲観的になってないよ。むしろ相手のファーストキスの話も聞けたの。美味しかった!」
私を心配そうに見ていたまほこちゃんの瞳にすっと影が落ちる。あ、これは呆れ始めている。
「……ちゃんと言いたいこと言って、けじめつけた方がいいんじゃない?」
言いたいこと、けじめ……。
確かにまほこちゃんの言う通りだ。
あのあと私は春日井くんに対して悶々とした複雑な感情を抱いている。
本人に直接こういうことは話した方がいい。
「ありがとう。まほこちゃん! 私、言うよ!」
決意を胸に、勢いよくブランコから落ちた。
*
翌日、春日井くんとちゃんと話そうと思ったものの、話しかけるタイミングが掴めない。
そもそも私たちは日常生活で話したこともなかった。
共通の友人と呼べるような存在もいない。
窓側の一番後ろの席の私は、春日井くんのクラスの男子たちが体育着で校庭にいること気づき、ぼんやりと眺める。
女の子と遊んでばかりかと思ったけれど、案外男友達もいるらしい。楽しげに笑ってサッカーをしている。
春日井くんを見ていると、頭にキスという単語が浮かぶ。
キスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキスキス。
消しても消しても、キスが浮かぶ。ブロックのように脳内に積み上げられて、キスのゲシュタルト崩壊が起こりそうだった。
生まれて初めてのキスを、昨日彼と教室でしたんだ。
妄想や物語の中ではなくて、本物のキス。
春日井くんのことを噂でしか知らなかった。
女遊びが激しいから友達からは近づかない方がいいとも聞いていたし、絶対関わることのない相手だと思っていたのに。
でも、あのキスは不思議と嫌ではなかった。
むしろもう一度……あのドキドキを味わってみたい。私の思考は妙な方向へと転がっていった。
不意に春日井くんが上を向いて、視線が交わる。
少し目を丸くしてから、嬉しそうに笑って手を振ってくれた。
春日井くんが口パクで「御上さん」と言っている。
それが少し可愛くって、私の頬も緩む。先生にバレないように、小さく手を振った。
*
授業が終わると、後ろの席の村井さんに「ねえねえ」と声をかけられた。
ちょっとだけ興奮したように頬を染めながら、小声で言葉を続けてくる。
「御上さんって、春日井くんと付き合ってるの?」
「え?」
「さっき、手振り合ってたでしょ?」
後ろの席の村井さんには見えてしまっていたらしい。
「付き合ってないよ」
……キスはしたけど。
またキスのことを思い出してしまい、キスという言葉が頭の中で積み上がっていく。まずい。煩悩滅却しないと。
「そっかぁ……まあでも御上さんと春日井くんだとなんか違うもんね」
「違う……?」
「春日井くんって派手目な女の子たちと一緒にいるし、御上さんは爽やかな男の子と似合いそう」
私と春日井くんは系統が異なるらしい。
あまりそういうことへの意識をしたことがなかったけれど、周囲からはそう見えるんだ。
「あ……ごめん、もしかして御上さん春日井くんのこと好きだったりするの?」
控えめに申し訳なさそうな表情で聞かれて、首を横に振る。
不純な気持ちで気になってしまっているだけだ。春日井くんのことは意識なんてしていない。
「ただ目が合ったから手を振っただけだよ」
たったそれだけ。私たちの関係なんて、大したことじゃない。
きっと経験豊富な春日井くんは私のことなんてすぐに忘れて、別の子と付き合うはずだ。
廊下に出てお手洗いへ向かおうと歩いていると、床を踏みつけるような足音が聞こえてくる。
誰かが急いでいるんだな。そんなことを考えて振り返る。
「御上さん……っ!」
すると春日井くんが息を切らしながら私の目の前で足を止めた。
体育が終わったあとでまだ着替えていないのか、ジャージ姿のままだ。
「どうしたの?」
「さっき、その……手振ってくれたよね?」
「え、うん」
頷くと春日井くんが顔をくしゃりとさせて笑う。
「よかったー。勘違いだったらどうしようかと思った」
「……なんで?」
「だって、嬉しかったから。勘違いじゃ悲しいじゃん」
手を振った。それだけなのにすごく喜んでくれている春日井くんを見ていると、胸が締めつけられる感覚になる。
たぶん、春日井くんのことがちょっと可愛いとか思えてしまうからだ。