胸元まで伸びた艶のある黒髪は、彼女が歩くたびに天使の輪が揺れる。
目を伏せると長い睫毛が影を落とし、淡雪のような肌と儚げな雰囲気。
清楚を人の形として表すのなら、彼女のような姿をしているであろう。
誰もがそう疑わないほどの、穢れのしらない美少女。
————御上 綺梨は、高嶺の花。
どうやら私はいつのまにかこのように表現されているらしい。
常に持っている本には必ず、ブックカバーをつけているのだけれど、それすら周囲にとってはミステリアスに感じるのだそうだ。
それは好都合。誰も私に近づかず、本の中身を探ってこない。
だから今日も私は、放課後に教室の隅で読書をしながら優雅に過ごす。
……はずだった。
「御上さん、なんの本読んでるの?」
ここは私の放課後の聖域。だというのに、何故この人がいるのだろう。
脱色しているのか白っぽい髪はふわふわとしていて、甘ったるい微笑みを浮かべている春日井一樹。
彼は学年……いや、学校一のプレイボーイで女の子を取っ替え引っ替え。
遊びたければ、春日井に声をかけろ!と言われているくらい歩く危険人物。
「……私になにか用?」
小説の続きが読みたくてうずうずするので、話は手短に終わらせたい。
「仲良くなりたいから、声かけたんだ」
人懐っこい笑顔で言われて、疑いの眼差しを向ける。
女子に近づく常套手段なのかもしれない。油断できない気を抜かないようにしなくては。
「春日井くんになんのメリットがあるの?」
特定の女の子には執着しない。それが彼なのだ。
なのに私と仲良くなりたがる理由がわからない。
「俺と付き合ってほしいなって」
「どこへ?」
「俺の彼女になってほしいってこと」
メンタルが強いのか私の告白かわしには動じずに、すぐさま言い換えた。
……伊達に経験豊富ではないらしい。
それに初めて話したのにすぐに告白ってあまりにも軽薄すぎる。少女漫画でもこんな無理やり展開はなかなか存在しない。
どうせ本気じゃないのだろう。
「貴方とはお付き合いできません」
きっぱりと言うと、最初からわかっていたかのように薄く笑った。
そして彼は私の目の前の席に座り、机の上で頬杖をつく。上目遣いで私を見つめているのを見る限り、おそらく落とすスイッチが入ったらしい。
「やっぱり手強いなぁ、清楚な高嶺の花は」
「それ周囲が勝手に言ってるだけだから」
ため息まじりに告げると、春日井くんが目を細める。彼から放出されている雰囲気は糖分過多になりそうなほど甘ったるい。
「俺のどこがダメ?」
どこがなんて聞かれたことは初めてで、心底驚く。
小説にしおりを挟み、じっとりとした目で彼を見つめる。
派手だけど、外見はかっこいいのだと思う。
正直わりと好みだ。そして女遊びは激しいけれど、性格は優しいらしいとは聞く。
そんな彼と付き合えない理由なんて一つしかないに決まっている。
「私、誰とも付き合ったことない男の子が好きなの」
春日井くんは女遊びが激しい。
そのため私は彼とお付き合いはしたくないのだ。
私がお付き合いしたい理想の相手は、まだ誰とも付き合ったことがない女の子慣れしていないウブ男子。
「え? えーっと……俺が女の子と遊んでたからダメってこと?」
「春日井くん、今まで色んな女の子と遊んでいたんでしょ」
私じゃなくてもこの学校の人なら誰だって知っている。
春日井くんの周りには女の子がいることが多いし、付き合って別れてを繰り返すたびに噂になっていた。
「御上さん一筋になっても?」
「失った初めては返ってこないでしょう」
初めてを喪失した時点で、私は彼に興味がない。
けれど意味をわかってくれていないのか、春日井くんは「ちょっと待って」を繰り返す。
「……それは無理なんじゃないかな。誰だって」
戸惑ったように顔を引きつらせている春日井くんに更なる爆弾を投下する。
この際これを見せて、引き下がってもらおう。
「私がさっきなにを読んでいるのかって聞いたよね」
ブックカバーを外して、学生服姿の男女が描かれている表紙を彼に見せつける。
「これは初めて女の子と付き合う男子の初々しい恋愛小説。つまり、そういう初体験の話」
口をぽかんと開けて硬直している春日井くんには刺激が強かったらしい。
いや、そもそも遊び歩いている男がこの程度で刺激が強いなんてことがあるのか。
「そういう男子が好きなの?」
「好物です」
へぇ、そういう男子が好きなんだと呟いた春日井くんが口角を上げた。
「でも俺もそういう時期あったよ?」
「? それは確かに?」
確かに春日井くんにも初めてだったときがある。
私は遊び人の春日井一樹しか知らないので、それを思うと好奇心がむくむくと湧き上がってくる。聞きたい。春日井一樹の初めての話が聞きたい。
「春日井一樹くん」
「はい」
「初めて付き合ったのは、いつですか」
「んー……付き合う? どうだったかな、色々経験したのは中二の春かな」
ち、中学二年!?
私だって中学の頃に、周囲の片思いの話とか告白して付き合えたという話は聞いたことがある。
だけど春日井くんの言う〝色々経験〟はそれを明らかに超えている。
甘酸っぱさの最高潮期にどのようなアバンチュールがあれば、そういうことに繋がるの!?
ごくりと息を飲んで、顔を近づける。
「お相手は」
「ねえ、顔近いよ」
「どのようなシチュエーションで?」
「キスしていい?」
脳内で妄想が止まらない。中学二年生の春日井くんはさぞかし初々しくて可愛かっただろう。
そんな彼の初めてを奪ったのは、同級生……いや先輩。あるいは女教師!? 脳内で妄想が止まらなくなり、頭がショートしそうになる。
ああもう、知りたくてたまらない。だから私は交換条件を出すことにした。
「キスしたら教えてくれる?」
「は?」
私のキスで初めてのときの話が聞けるのなら、喜んで接吻しよう。
そういえば、キスってどんな感じなんだろう。
小説ではよく柔らかいとかそういう表現がされているけれど、味はあるのだろうか。ちょっと……いやぶっちゃけかなり気になる。
「初めてキスしたときの感想も知りたい!」
「……待って、俺どうして御上さんに恥ずかしい過去話をしなくちゃいけないの?」
「恥ずかしいの?」
「え、恥ずかしくないの!?」
これが価値観の違いというやつなのだろうか。
ハッ! それとも春日井くんもしや……
「実は照れ屋なの?」
「普通、そんなこと人に話さないでしょ」
普通、そうなのかな。
でも相手は春日井くんだからさらりと話してくれるのかと思った。
それに私にはあのチャラチャラとしていて、女の子慣れをしている春日井くんの初々しかった時期には、すごーく興味がある。まずはファーストキスから聞きたい。
「初めてのキスの感想なんて、自分が彼氏としてみればいい話じゃん」
「まあ、確かにそうだね。でも私彼氏いないから」
実体験なんて当分先の話になりそうだ。
「……俺じゃダメなの?」
「うーん、だって春日井くん本気で私に告白なんてしてないでしょ」
「遊びじゃないんだけどなぁ」
春日井くんはなにかを考えるように視線を落とす。
その仕草が綺麗で、中学生くらいの時はもっと美少年系だったのかなと想像して頬が緩む。
美少年時代の彼をひと目でいいから見てみたかった。
「俺のファーストキスは、女の先輩と話してたら気づいたら顔が近くて」
再現するように春日井くんが私に顔を近づけてくる。
「こんな感じで」
その距離、およそ数センチ。吐息がかかるくらい私たちは至近距離にいた。