「海鋒凪沙」
「へ」
「ここの家主、兼、お前の雇い主」
「ナギサちゃんね」
ピ、と。またしてもカードキーっぽいものが、眼前の隔てを解いた。
がちゃりとそれを開き、声をかけることなく靴を脱ぎながら悠真は情報を落としていく。それを拾い、反復する。ナギサちゃん。名前は可愛い。名前、は。
「あと一応、言っておくけど」
「ん?」
「手ぇ出すなよ」
「え」
「言ったろ、ダチの妹だって。本気なら俺は口出したりしねぇけど、お前の女関係も褒められたもんじゃねぇからな」
なんて、まだ見ぬ雇い主に対して失礼なことを考えていれば、前を歩く悠真が肩越しにこちらを見る。
「えー……俺、大学辺りから浮気も二股もすンのやめたぞ?」
いやいや、俺にだって選ぶ権利はあるんですよ。
とは、言わなかった俺を、俺は褒めたい。へらりと笑って冗談交じりのそれを吐き出せば、悠真は呆れたとばかりにため息を吐き出した。
「も、って言ったろ」
「へ」
「凪沙の男関係もあんま褒められたもんじゃねぇんだよ」
「あー……ね、」
ああ、なるほど。
そう納得したところで、またしても眼前に扉が現れた。
どうやら、ここが目的の場所らしい。
「凪沙、入るぞ」
一声かけて、しかし返事は待たず、悠真はそれを開けた。
「おい、凪沙」
瞬間、ばしゅん、ばしゅん、ばしゅん、と何やら物騒な音が鼓膜を抜けた。
「凪沙!」
声を荒げる悠真。その視線をたどれば、頭のてっぺんで結わえられたもさもさのお団子。若干丸まった背中に、胡座をかいているからだろう左右からのぞく膝。
見えているそれらの向こう側には、何インチか分からないくらいにデカイ液晶。そこに映し出されているのは、空を飛びながら火を吐いている赤い生物と、それを小脇に抱えた筒状のもので攻撃している人形の生物。
筒状のそれはおそらく銃とか、そんなカンジのものなのだろう。何か、ピュンピュン、ピュンピュン、赤い生物に向かってとんでいってるし。
「凪沙ッ!!」
仏の顔も何とやら。
わりと底辺を生きている自覚のある俺でさえ、こんな風に悠真に怒鳴られたことはない。
真後ろで、しかも大声で、語尾まで強められて呼ばれてンのに、微動だにしねぇとか逆にすげぇな。
なんてことを思ったのとほぼ同時に、クエストクリア、の文字が液晶に浮かぶ。
「そんな怒鳴らなくても聞こえてるよ、ユウにぃ」
「なら返事しろ!」
だから、だろう。
くるりと、その人が振り返った。
高くはない、けれど、低いわけでもない声。
白い肌。ほんのりと赤い頬。気だるげなタレ目と、その左側の泣きぼくろ。小さめの鼻。ツンと上を向いている、所謂アヒル唇。
「ごめんて。で? そちらの方は?」
「あ? ああ、こいつは、」
「門叶玄です! 家事すっげぇ得意です!」
正直に言おう、ドストライクだ。
絶世の美女というわけではない。もちろん、個々の造形は整っているし、総合的なバランスも絶妙なので美人であることに違いはないが、彼女よりも可愛い女も美人な女もそれなりに数は見てきた。
が、それを踏まえて言おう。ドストライクだ。泣きぼくろを舐めたい。
とはいえ、性癖に刺さる外見が恋愛感情に直結するかといえば、決してそんなことはない。肉欲には直結してしまうけれど。
「……おい、玄、」
そんな俺の思考をおそらく悠真は読んだのだろう。訝しげな視線をあからさまに寄越してきた。
「ゲンくん? でいい? あれでしょ? おにぃが言ってた住み込みのやつ」
「そうです好きに呼んでください!」
しかしそんなの関係ねぇ。
手を出すなよとは言われたが、妄想するなとは言われていない。
やべぇ、これはやべぇ。動くオカズだ。
金はある。しかしそれ以外がダメだと聞かされていたからどんな女かと思えばこれである。全く、人生とは何が起こるか分からないものだ。
「それはウチで働く、ってことでオーケー?」
「はい! よろしくお願いします!」
今まで養ってくれていた女達に好評だった「加護欲をくすぐられる」らしい笑顔を浮かべて、元気よく返事をする。しかしその笑顔に反応することなく、彼女の視線は俺から悠真へと移った。
何を言うでもなく、ぱちりと一度だけ瞬きをして、再び己の方へと戻ってきた視線。移動する前のものとは違い、戻ってきたそれは身体の内側を抉るような鋭いものになっていて、ひく、と口端が小さく動いた。
「明日からでも来れる?」
「え、あ、」
「凪沙、こいつ宿なし無一文。ついでに言うと携帯も」
「なるほど。手ぶらなのはそういうことね」
「……はは、」
「今日からでも平気か?」
「いいよ、別に」
見た目は超絶タイプだけど、中身は多分、相容れない。
単なる直感でしかないけれど、己の勘は割りと当たる。何より、あの、探るような、触れられたくないところを容赦なくつつくような、そんな視線を向ける人間が俺は苦手だ。
「じゃあ、ゲンくん」
「っ、は、はい」
「家ん中、一応、案内するね」
「あ、はい」
「ユウにぃはもう帰ってねうるさいから」
気付けば彼女の視線は、デカイ液晶へ。
かち、かちゃ、とコントローラを操作してゲーム画面を閉じようとしているその後ろ姿を見ながら、「へぇへぇ、帰りますよ」と宣う悠真に頼むから帰らないでくれと心の中で願った。
まぁそんなもの、叶うわけもなければ、そもそも悠真に届いてすらいない。
「これくらいかな。何か質問ある?」
ろくえるでぃけぇ。ひらがなで言うとすごくバカっぽいけれど、俺がお世話になるところの間取りはそれだった。ちなみに、トイレと風呂はふたつずつある。が、彼女は普段からリビングか仕事部屋でしか生活していないらしく、トイレもお風呂もその二部屋に近い方しか使っていないらしい。
「あー……じゃあ、ふたつ」
「ん。何?」
流れるように無駄な動きもなく靴を履いた悠真は「じゃあまた様子見にくっからな」と帰っていって、その背中を見送った彼女は俺に「敬語使わなくていいから」と微笑んだ。
もちろん、それが作り物なのは瞬時に理解した。だてに主夫はやってきていない。表情や視線から心情を読み取るのはそこそこ得意な方だと思う。しかし雇い主がそう言っているのであれば、雇われる側の俺はそれに従うだけ。名前も【ナギサちゃん】と呼ぶことで決定した。
「ひとつめは、俺、明日役所で住所変更してぇからここの住所教えて欲しい」
「分かった。メモしてリビングのテーブルに置いておく。もうひとつは?」
他人は連れ込まない。
仕事部屋には絶対に入らない。
雇用中は犯罪行為をしない。
この三ヶ条と、どの部屋がどこか、ということを端的に、しかし分かりやすく説明してくれた彼女はまた、作り物のあれを浮かべた。
「……ナギサちゃんてさ、」
「うん?」
「悠真のこと、好きなン?」
が、すぐにそれは剥がれた。
「あえて空気読まない系? 上っ面だけでもいいから当たり障りなくいこうと思ってたの、私だけだった?」
あからさまに吐き出された、ため息。呆れたと言わんばかりに眇められた、泣きぼくろのあるタレ目。これが本来の彼女なのだろう。何となく、あの抉るような視線を向けられたときから気付いてはいたけれど、目の当たりにすると何というか、ヤな女だ。
「あー……ごめん、我慢できなくなって口から出た」
「Curiosity killed the cat.」
「っえ、え?」
「ま。キミの言う通りだよ。で? それが何?」
ヤな、女だ。
飄々としたその態度にひくりと口端が動く。
イエス、もしくは、ノー。返答がどちらであれ、「そっかぁ~」で終わらせる気だったけれど、恋人だと思ってた女にペット扱いされたことや追い出されたこと、挙げ句の果てには悠真に彼女がいたことへの鬱憤が募り募って、喉をかけ上がってくる。
「別に? 悠真、先週彼女できたって言ってたな、って思っただけ」
子供じみてると自分でも思った。そのことを知らないであろう彼女にわざわざ言う必要なんてない、と。
でも、そうした。言葉にして、投げつけた。吐いた唾は呑めぬというのに、吐いて、そしてすぐに、後悔した。
「で?」
「え、」
「生きてりゃ人間溜まるもんは溜まるしそりゃ彼女のひとりやふたりぐらい作るでしょ、普通」
「は? や、妬いたり、しねぇの?」
「しないよ。生きてる人間には」
「は? え? いき……?」
「こっちの話」
「……え、えぇ……?」
どうやら彼女は、【生きてる人間】とは同じ土俵に立っていないらしい。
「明日、暇?」
なんやかんや、話は切り上げられて、住所のメモを渡されて、初日の夜は終わりを迎えた。
その翌日を二日目と数えて、七日目の夜に当たる今、風呂上がりのナギサちゃんの髪をドライヤーで乾かし終えたタイミングで、彼女は唐突にそんなことを聞いてきた。
「え、明日? 暇だけど、明日、定休日じゃねぇの?」
「出かける。暇ならついてきて」
「え」
なぜ俺がナギサちゃんの髪をドライヤーで乾かしているのか。
それは話せば長くなる。が、話そう。
遡ること今より三日ほど前、ここに住み始めて四日目の夜に、ふと俺は、気付いた。
あれ? ナギサちゃん側にある風呂を使用した形跡が全くねぇな、と。
初日はただ寝るだけで終わったけれど、給金が発生するのならばと炊事洗濯掃除を一切手を抜かず、俺は毎日している。食事を共に取ることはなかったけれど、リビングに置いていたらいつの間にかなくなっていて、お皿やグラスもきちんと水につけられていたので、食べてくれていることは確かだ。が、しかし。彼女の仕事部屋以外は全てくまなく掃除しているのだけれど、使用していない部屋同様に、彼女が「使っている」と言っていたはずの風呂も使用された形跡がなかった。
一度でもそれに気付いてしまえばもうダメで、彼女がトイレに入ったところを見計らい、出てきたところを捕まえて、風呂へと連行したのが、このドライヤータイムの始まりだ。
「えっ、と、時間外労働……?」
服を着たままシャワーを頭から浴びせ、「何なの!?」「やめて!」「服! 濡れてる!」などと吐き捨てられる文句は全て受け流して、わしゃわしゃとシャンプーをした。しかしかなしかな。全く泡立たず、三度目のシャンプーにしてようやく滑らかになった指通り。
それでも「髪乾かすのめんどい」だの何だのとぶーぶー文句を垂れる彼女に「汚物と暮らす気はねぇんだよ! 髪ぐれぇ俺が乾かしてやるわ!」とキレたのはまだ記憶に新しい。「一日に一回絶対風呂に入れ頭と身体を洗え匂い嗅ぐからな入ってなかったら俺が直々に洗ってやンよこの手でなァ!」と息継ぎなしで怒鳴ったことを今では後悔している。
「特別手当が欲しいなら出すよ。携帯とか」
「どこにでもお供します!」
いくら中身が相容れなくとも、外見はドストライク。そんな彼女の風呂上がり姿は腰にクる。
とはいえ、手は出さない。絶対に。
まぁ向こうが迫ってきたら、やぶさかではないけれど。据え膳はきっちり食うタイプなので。
「あら? やだ、玄じゃない」
「へ」
車を持っていること、免許を持っていること、運転ができること、それらに一頻り驚いたあとまず向かったのは、知る人ぞ知る、といった雰囲気の古民家カフェだった。コーヒーとホットサンドがこれまた絶品で、思わず「また行きてぇ」とこぼれ落ちたそれを、彼女は「そうだね」と笑った。
お、珍し。顔作ってねぇ。
少しは心を許してくれたのだろうかとニヤニヤしていたら、いつの間にか大型ショッピングモールについていて、「キモい顔してないでほら行くよ」と連行されたのは、スマートフォン、別名【特別手当て】が置いてある携帯ショップだった。
「もう新しい飼い主見つけたの? 早いわねぇ」
よもやそこで、元飼い主(恋人だと思ってた女)に出会すとは、誰が予想しただろうか。
見るからに俺よりも若そうな男引き連れてるお前が言えたセリフじゃねぇだろうがと思いながらも、顔面には笑みを張り付る。何かを言い返そうものなら、笑顔でヒスるのは目に見えていたから。
「家事をするくらいしか能のない底辺人間を養うのは大変でしょう? ねぇ、玄の新しい飼い主さん?」
だというのに、先月三十路を迎えたばかりの頬を必死に上げて、元飼い主は、あろうことか俺の隣にいるナギサちゃんへと視線と声を向けやがった。
おいくそマジふざけんなよ。
「そうなの?」
「え? だって、家事しかしないのよ?」
「ふぅん」
どうにかしてこの場を。
そう思ったのだが、俺がアクションを起こすよりも前にナギサちゃんが至極興味のなさそうな声を吐き出した。
「ふぅん、って、あなたね、」
「いやそもそも私、ゲンくんの飼い主でもなければ養ってもないからそういうの分からない。雇ってはいるけど」
「はあ? ちょっと冗談でしょう? この子、何にもできない子よ?」
「家事してくれてる」
「は?」
「私じゃ作れないようなすごく美味しいご飯作ってくれるし、後片付けも早くて丁寧。掃除だって、床を這いずり回る丸いやつに任せっきりだった私じゃ到底できないくらいピカピカにしてくれてる。あと、私のダメなとこ、ちゃんと叱ってくれた。腹立ったけど、言ってることは正しい。それと、わがまま聞いてくれる」
「な、何よ、それ、そんなの、」
「あなたにとっては普通だった? でも私にとってそれは普通じゃない。本来なら親とか、寧ろ女の私がしなきゃいけないって言われること。けど私はしたくないの。代わりにしてくれてるゲンくんに対価を払う。それが私の中の普通で、当たり前のことよ。だってそうでしょ? 私のご飯とか、掃除とかのために、ゲンくんは自分の時間を使ってくれてるんだもの」
「……っ」
「あなたがゲンくんをどう思ってるかはあなたの自由だけど、それを言葉にして他人に同意を求めるのはどうかと思う。少なくとも私はゲンくんを底辺人間とは思っていないから」
「……」
「あと、ここには携帯を見にきたの。話しかけてきた理由が未だによく分からないけれど、このあとも寄りたいところあるから、急用とかじゃないならもういい? 携帯、見たいんだけど」
「っ」
顔を歪めて、「行くわよ!」と怒鳴りながら去っていく元飼い主と、そのあとを付き従う男。それらふたつの後ろ姿を別に見たくなんてなかったけれど、見えなくなるまで俺は見つめていた。
「何か、ごめん。私、余計なこと言っちゃった?」
「……や、全然、」
彼女の言葉に泣きそうになったのを、悟られたくなかったから。