またいつか君と、笑顔で会える日まで。

「お母さんなら家にいますから」

「なんだよ、冷てぇなぁ。久しぶりに会ったのに」

「あたし、これからバイトなんで」

「おい、待てよ」

高橋の横を通り過ぎようとしたとき、高橋はあたしの右手首をギュッと掴んだ。

「痛っ、離してもらえます!?」

「なんだよ、その髪と化粧。中学の時は美少女だったのにもったいねぇなぁ」

高橋はあたしのことを上から下まで舐めるように見つめた後、吐き捨てるように言った。

「あなたにどうこう言われる筋合いないんで」

「黒髪に戻せよ。そのほうが可愛いぞ?」

「では、さようなら」

手を振りはらうと、高橋はぎろりとあたしを横目に睨み付けて右足を振り上げた。

右足はあたしの腰に当たり、突然のことに受け身を取れなかったあたしはその場に尻もちをついた。

「っ……」

反射的に手で支えようとしたせいで左手を擦りむいた。細かな砂利が手のひらに食い込み、わずかに血がにじむ。

「ナメた真似してんなよ、コラ」

座り込むあたしに凄み、右足で砂をかけると高橋は苛立った様子でアパートの階段を上がっていった。

「いたたっ……」

パンパンっと手についた砂利を払い落とし立ち上がる。

どうしてあんな男と母は4年間も付き合っているんだろう。

シラフでも自分の意にそぐわないことがあるとああやって暴力を振るってくる。

お酒が入ると暴言、暴力は酷くなる。

夜中に母と大喧嘩になり警察沙汰になったこともある。そのたびに母は「あんな男とはもう別れる!」と啖呵を切るくせに翌日には今までのことが嘘のように「たっくん」とあの男にすり寄ろうとする。

「あんな男とはもう別れて!!」

中二のときから何度も今のように暴力を振るわれ、あたしは必死に母に頼み込んだ。

彼氏を作るなとはいわない。でも、あの暴力男だけは話が別だった。

あの男は異質だ。何を考えているのかも分からないしいつか何かをしでかすような恐ろしさがあった。

でも、母はあたしの願いを受け入れてくれなかった。

それどころか「たっくんを怒らせたリリカが悪いのよ。ちゃんということを聞きなさい?」とたしなめられる。

握られた手首にはくっきりと高橋の親指のあざができている。

手のひらがヒリヒリと痛む。蹴られた腰はきっと青あざになりしばらく跡が残るだろう。

「マジ痛いんだけど……」

鼻の奥がツンっと痛んであたしは慌てて唇を噛んだ。

泣くな、リリカ。笑うんだ。こんなことぐらいで泣いて幸せを逃がしたりなんかしない。

目の前の歩道を2、3歳ぐらいの女の子と母親が手を繋いで歩いている。

歌を歌っているようだ。

その姿が楽しそうで、嬉しそうで、幸せそうで。

ああやって母と手を繋いで歩いた記憶のない人間なんてこの世にあたし以外存在するんだろうか。

手を繋ごうとして振り払われたりすることは普通の親子ではないんだろうか。

あたしは普通じゃないんだろうか。あたしの家族は普通じゃないんだろうか。

そもそも、普通っていったいなんだ?それすら分からないなんて本当に終わってる。

「バイト行かなきゃ」

小さく息を吐きだす。

仕事をしなければ、あたしはもちろん母だって生きていけない。

高橋にだけは絶対に頼りたくない。

幸せそうな親子から目を反らすと、あたしは自転車置き場に置いてあるいつ壊れてもおかしくないボロボロの自転車にまたがった。

6月になり衣替えも済み穏やかな日々が続いている。

まるで嵐の前触れのようだった。

前半は小論文の課題に取り組み後半には期末テストが控えている。

合格ラインぎりぎりで入学したこの学校の学力レベルは非常に高く、ついていくのもやっとだ。

この日の放課後、リリカちゃんの席の周りには嶋田さんと浅川さんが教科書をもって集まっていた。

リリカちゃんに勉強を教えてもらうためだ。

「あー、この問題わかんない。リリカ、教えてー!」

「ん~?これはほらっ、教科書のこの右の公式使えば解けるよ」

「あー、確かに。つーかなんでリリカってそんなに頭いいの?この学校でバイトしてるのってリリカぐらいじゃん?いつ勉強してんの?」

「いやいや、頭いいわけではないって。バイトから帰ってきてから家でメチャクチャ勉強してるんだもん。あたしぐらいやれば誰だってそこそこの点数取れますから。ってことで、もっと勉強しなさい!」

「えー、嫌だぁ~。やりたくないもん」

「やりたくなくても、やる!赤点とったら追試大変だぞ~!!ほら、頑張れ。あと1問!!」

リリカちゃんはいつもこんな調子だ。

家でこっそり勉強しておきながら「勉強していない」と言ったりせず抜け駆けはしない。

彼女は胸を張って「必死に勉強した!」と公言し、みんなも頑張る様にと励ましながら勉強に向かうように促す。

偉いなぁ。私も家に帰ってちゃんと勉強しなくちゃ。

私は机の横のバッグを手に取り、帰る準備を始めた。
こうやって友達同士でワイワイ勉強会をするなんて羨ましい。

そのとき、教室の扉付近から担任の先生が顔を出し「一橋さん」とリリカちゃんの名前を呼んだ。

リリカちゃんが顔を持ち上げて先生のいる方向に視線を向けると、先生は小さく手招きした。

「あー、ごめん。なんか呼ばれてるからちょっと行ってくるわ」

「えー、リリカいなくなったら勉強できないじゃん!」

「大丈夫だって。あとどの問題?」

「問4」

「えっと……その問題なら、萌奈できるよ。聞いてみたら」

その言葉と同時にリリカちゃんが振り返って顔の前でパチンっと手を合わせた。

「萌奈、お願い!問4だけ彼女らに教えてあげて~!」

「えっ、わ、私?」

「そっ。その問題、この前萌奈が先生にさされて答え黒板に書いてたやつ。よろしく~!」

リリカちゃんはそう言うと、そのまま教室を飛び出して行ってしまった。

その場に残されたリリカちゃんのグループの嶋田さんと浅川さんが困ったように目を見合わせる。

「あっ、教科書……見せてもらえる?」

恐る恐る震える右手を差し出してみたものの、いつまで経っても教科書を渡してもらえない。

それどころか重苦しい雰囲気が漂い、私は右手を引っ込めた。

『なんか、顔に似合わなくない?』

『萌奈って顔じゃないよね』

彼女たち二人の言葉が脳内でこだますると同時に、顔が徐々に強張っていく。

恐ろしかった。

この沈黙が。リリカちゃんの言葉を真に受けて調子に乗ってしまっていた。

手の小刻みな震えに気付かれないように机の下のスカートをきつく握り締めると嶋田さんが口を開いた。

「前から思ってたんだけどさ、なんで青木さんってリリカと仲良くしてんの?」

「え……?」

「もしかしてうちらのグループに入ろうとか思ってないよね?そういうの勘弁してよね」

「そ、そんなこと思ってな――」

「なんか暗いんだもん、青木さんって。うちらともリリカともノリ合わないでしょ?そういうタイプじゃないもんね?」

「ちょっと、面と向かってそんなこと言うのやめなって。さすがにそれは可哀想じゃん!その通りだけどさ~」

二人の悪意が私に向けられているとすぐに気付いた。
きっと二人は以前から私とリリカちゃんが言葉を交わしたりすることに嫌悪感を抱いていたに違いない。

スクールカーストの頂点に位置するリリカちゃんたちグループと最下部に位置する私が馴れ馴れしく彼女と言葉を交わしたりしてはいけなかったのかもしれない。

「ごめんなさい……」

どうして謝っているのか自分でもよく分からないけれど、きっと謝った方がいい。

そして、ここで宣言したほうがいい。

もうリリカちゃんとは気軽に言葉を交わさないと。

そうしないときっと――。

「でもさ、リリカもリリカじゃない?誰彼構わず声かけるし」

「分かる~!まあいい子なんだけど、時々ハァ?って思うことあるよね」

「あるある!」

二人の話題が徐々にリリカちゃんの悪口に舵を切ったことに気付いて、私は「ごめんなさい」ともう一度謝った。

リリカちゃんが私のせいで悪口を言われているなんて耐えられない。

震える指先を左手でぎゅっと握り締めた。

「ごめんなさい。だから……」

――だから、リリカちゃんの悪口をもう言わないでください。

リリカちゃんが私のような立場にならないように、辛い思いをしないように。

だって彼女は私のことを『友達』だと言ってくれる唯一の人だから。

「――ただいま~!!って、ちゃんと勉強してた~?」

リリカちゃんが戻ってきた。

私は弾かれたように立ち上がると、バッグを抱えたままリリカちゃんと目を合わせることなく後ろ側の扉に向かって歩き出した。

「あれ、萌奈帰っちゃうの~?また明日ねーー!」

リリカちゃんの声が背中にぶつかったのに、私はその声を無視した。

大股で歩いて教室から出て昇降口に向かう。

一日晴れだと朝のニュースでやっていたのに外れもいいところだ。

今日に限って家に折り畳み傘を置いてきてしまった。

外はいつの間に土砂降りで私は昇降口で立ちすくみ自分の運の悪さに愕然とした。

ザーッという雨の音が鼓膜を揺らす。雨の日は嫌いではない。むしろ好きだ。

傘をさせば、周りからの雑音も視線も気にならないから。

そのとき、スカートの中のスマホが震えた。

【リリカちゃん:傘、持ってきてる?なかったらあたしの傘使って!昇降口の傘立てにあるから。ちょっとボロボロのビニール傘!】

タイミングよくラインが届いた。

リリカちゃんは超能力でも使えるんだろうか。

どこかで私のことを見ている?キョロキョロと周りを見渡してもリリカちゃんの姿はどこにもない。

頭のいい彼女が先回りして気を利かせてくれただけ。超能力でもなんでもない。

傘立ての方に歩みを進めると、傘立てには確かにリリカちゃんの傘が残っていた。

ちょっとボロボロレベルではなく、相当ボロボロのビニール傘。

あちこち錆びている。

すぐに捨てられてもおかしくない傘を使い続けているのがリリカちゃんらしいと思った。

人の目を気にしない、自分の道をまっすぐ突き進む。

なんだかそういうところが彼女らしい。

「ありがとう、リリカちゃん」

その優しい気持ちだけもらっておくね。

だって、この傘を使ったらリリカちゃんが濡れてしまう。

それに、傘の貸し借りをしたことがあの二人に知られたら困るのは私ではない。

リリカちゃんだ。

親切心で言ってくれているって分かってる。でも、私と関わっても彼女には何のプラスにもならない。むしろマイナスでしかないのだ。

彼女は私とは関わるべきではない。

【リリカちゃん:あたしは折りたたみもありから!傘、貸すぞな!!】

焦って打っているんだろう。珍しくメッセージは誤字だらけだ。

私はスマホの画面をタップした。

またいつか君と、笑顔で会える日まで。

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