「だからぁ、アタシは謝らないわよぉ~。ちょうどいい機会じゃないのぉ。海のこと知ってもらうにはさ」

 アトル様が珍しく怒っているものの、マルス様は素知らぬ顔。

 私が人魚になってしまったのは、どうやらマルス様が魔法の薬を飲ませたせいという。マルス様は海で魔法薬の最高権威らしく、その効果や安全性はお墨付きなのだとか。

「大丈夫だってぇ。現に、陸のお嬢様もピンピンしているじゃないのぉ~」

 いや、はちゃめちゃ痛かったし苦しかったですけどね? もう二度とごめんです。本当に死ぬかと思ったもの。

 それが顔に出ていたのだろう。マルス様がぐいっと私の顔を掴んでくる。人魚の姿だからか、珍しく素手だ。あ、爪が虹色に輝いてすごく綺麗。

「アンタねぇ……あのくらいでメゲて、実際に稚魚産む時どーするのよ。その痛みより軽くなるように、ちゃんと調整したんですけどぉ?」
「う……マルス様。その冗談は面白くないですよ?」
「まったくー、出産時に『マルス様ごめんなさぁーい』って謝っても、手加減してやらないんだからねっ」

 え、手加減ってなんですか? もしや出産時の取り上げをマルス様がする気じゃないですよね? そうですよね⁉

 だけど「こっちは人間の身体の勉強、頑張っているのにさぁ」とプリプリ怒るマルス様が、すいーっと泳いで行ってしまう。以前図書館で借りていた医学書の量からしても、その発言は本当なのかもしれない。で、でも出産時マルス様に色々見られるのは嫌なんですけど?

 マルス様の尾ひれは、私やアトル様の元のは違い、たくさんあるように見えた。ひらひらとまるでドレスの裾をはためかせているみたい。

 改めて、アトル様が私に謝罪する。

「本当にごめんなさい……魔法薬の効果は一日で切れるみたいだから。少しだけ我慢してもらえるかな?」

 しゅんとしたアトル様が可愛らしい……。まるで子犬のような少年に、どうして怒ることが出来ようか。

「なってしまったものは仕方ないですし……いい機会だから、海の案内お願いしてもいいですか? アトル様のこと、もっと知りたいです」

 私がにっこり微笑むと、アトル様の表情がぱあっと華やぐ。だけど、その花はすぐに萎れてしまった。

「……あまり面白いものじゃないと思うけど」





「ほら、いっちにー、いっちにー。アハハッ、本当にアンタ人魚になっても泳ぐセンスの欠片もないのねぇ」

 うるさいやい。
 足元には砂の地面があり、見渡せば草木の代わりに珊瑚という淡く光る枝が生えている。だけど、そこに着くべく足がない。

 アトル様にゆっくり手を引かれながら、私は懸命に足――尾ひれを動かそうとする。上半身は人間のままなのに、海の中でも呼吸は出来る。そして聞こえ方が違うけれど、話すことだって普通に出来る。だけど、どうしても思うように身体を動かすことが出来ない。

 初めての環境で懸命に頑張る私を、マルス様は容赦なく笑い飛ばしていた。人として最低よ。人魚だけど。

 そんなマルス様をジト目で見て――ふと気づく。

「歯抜け……」
「ん?」
「マルス様……いつものギザギザの歯はどうしたんですか?」

 マルス様も、アトル様も。いつも笑った時などには、獰猛な歯を覗かせていた。
 それが、ない。むしろ普通の歯すらない。

 マルス様がムッとした顔をした。対して、アトル様が苦笑する。

「僕ら、陸では入れ歯をはめてたんだよ」
「入れ歯?」

 初めて聞く単語。言葉の通りならば、口の中に入れる歯のこと。え、なにそれ。何のために?
 そんな私の疑問符を、アトル様は解説してくれた。

「海で僕らは小魚を丸呑みしていることが多いから、歯が必要ないんだ。でも、ニカたちと食事をするのに、それは良くないでしょう? 魔法薬で人間に姿変えていても、歯は生えなかったから。だから自分たちで石を削って、歯を作っていたの」

 魚を……丸呑み?

 私は奥歯を噛みしめる。人魚になった今も、きちんと歯があることに安心した。正直、歯抜けなんて老人みたいで嫌だわ。それに丸呑みしろと言われても、出来る気がしない……。

 私の内心を悟ったのか、アトル様が肩を竦める。

「ニカの食事は、あとで僕たちがちゃんと陸の食事に近い物を様子するから、大丈夫かな」
「あ、いえ……」

 本当なら、アトル様たちが普段を食べているものを、と言うべき所だろう。だけど、魚を丸呑み? 骨は? 内臓は? どんなサイズかわからないけど、飲み込めるものなの?

 その困惑を誤魔化すべく、私はずれた質問を返した。

「人間の歯を真似ているなら……どうしてあんなに尖っていたのですか?」
「あ、そうしようって言ったのアタシ~」

 私のまわりを厭味ったらしくスイスイ回るマルス様が、ニヤリと口角を上げる。

「平らな歯より、あの方がアンタたちビビるかなぁ~って」
「ビビるって……」
「第一印象で舐められたおしまいだからねぇ」

 ケタケタ笑っていたマルス様の視線が動いた。大きな岩の後ろから、こちらを覗いている顔が二つ。

「ギュールグルグル」
「グググギューゲゲグエル」

 何か言っているようだけど、正直気持ち悪い鳴き声にしか聞こえない。これが人魚たちの言葉なのかしら? 

 それに「はあ~⁉」とこめかみを引きつらせたマルス様が鳴いた。

「ギュギュグルグッゲグキュギュギジュレッ⁉」
「キャギョットギュギュギグキーキキイキ!」
「ギョギュギョッギレッ⁉」
「ギレッ⁉」

 えーと……喧嘩をして、いるのかしら……? 

 私が呆然としていると、アトル様が私の腰に手を回した。

「ごめんね。ちょっと場所を移動しようかな」
「え――」

 私に拒否権はなかった。私を抱きかかえたアトル様が、尾ひれを大きく動かして海の底をすいすいと泳いでいく。つまり私もそれに連れられるしかない。水の中を高速で進む肌の感触は嫌じゃなかった。

 大きな音がしたと思って振り返ってみれば、大岩が木っ端微塵に割れている。破片がふよふよと浮かんでいた。マルス様が、殴ったの? マルス様の横目と目があった。自慢げに親指を上げられる。褒める……ところなのかしら?

 そんなマルス様は、また他の人魚たちに何かを喚いて、今度は中指を立てていた。だんだんと距離が離れていく。私を抱きしめるアトル様の腕しか頼れない。その腕は、しっかりと男の人の腕だ。