いきなり家にやって来た聖女リカ=タチバナ=ダイアモンド様は、簡素な白いワンピースを着ていた。艷やかな黒い髪が映えて、とても似合っていると思う。だけど彼女の表情は、その清楚で慎ましい格好と似つかず、とても険しい。
後ろに頭を抱えた旦那様がいるにも関わらず。
「ヴェロニカ様! あのお手紙はどういうことですかっ⁉」
「あの……リカ様。ご訪問は誠に嬉しいのですが……ずいぶんとお早いのですね?」
今は、朝の五時。あまりに突然の訪問に、私はネグリジェから着替える暇すらなかった。髪を梳かし、大手のカーディガンを羽織っているだけの状態だ。
その非常識を代わりに謝るのは、後ろに控えている王太子殿下。
「本当にすまない……夜中に飛び出そうとするのを留めるので精一杯だった」
「そうですよっ! 寝る前の楽しみにヴェロニカ様のお手紙読んだらビックリですよっ!」
きっと一睡もしていないのだろう。ミハエル様の目の下には疲れが見えている。リカ様はとても元気そうだけど……玄関で立ち話をするのは寒いししんどい。ただでさえ、私も最近眠れていないんだから。
「と、とりあえず応接間にどうぞ? 濃い紅茶でも淹れさせますわ」
「お気遣いなくっ!」
いえ、リカ様。まったく私は気遣ってません。私が部屋に入りたいんです。目覚めのお茶を飲みたいんです。ほら、ミハエル様が頭痛そうにしてますよ?
だけど、リカ様の覇気は留まるところを知らない。
「てか、何なんですかあの手紙は! 納得できませんっ‼」
「何っておっしゃられても……やっぱり異種族間の結婚は難しいのかなって……」
「どーしてですか⁉ こないだ海に現れた竜が二号さんなんでしょう?」
「二号さん……?」
「ヴェロニカ様ファンクラブ会員の二号に決まっているじゃないですか!」
もちろん一号はわたしです、と胸を張るリカ様の後ろで、ミハエル様は「すまない」と嘆息する。それに「大丈夫です」と大丈夫じゃないけど応じて、私は話を続けた。
「それはアトル様のことで合ってます?」
「そーですよ! ずっとラブラブだったじゃないですか。それなのに急にどうしてですか? あの竜の姿が怖かったですか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、どういうわけですか⁉」
言い淀んだ私に、リカ様は容赦なく切り込んでくる。
怖かった? そうじゃない。いや、そうなのかもしれない――
「不釣り合いだと、思ったんです……」
「二号さんが?」
「いえ、私が」
アトル様の姿は、とても神々しいと思った。闇夜の中でも光るお姿は、畏怖を覚えるほど綺麗だった。その感想は、あの水槽で初めてみた人魚と変わらない。近づいてみたくなった。手を伸ばしてみたかった。
だけど、私は溺れてしまうから。
一人で泳ぐこともできない私は、足を滑らせて海で溺れるだけ。彼の手を借りて、彼を傷つけなければ、私は彼に触れることもできないの。
私と彼は、遠い存在。本来は触れ合うことが許されないほど、彼は綺麗で、優しい存在。
それを目の当たりにして、怖くなった。怖気づいた。
彼らが私のためにしてくれている努力と、同じだけ私も頑張ることができるの?
別に、私じゃなくてもいいじゃない。きっと、ゆっくりと陸と海の親交を深めていった先、何年、何十年か後に、もっと彼に相応しい女性がいるはずよ。こんな行き遅れの年増じゃない、若くて綺麗な女の子が。彼にぴったりの素敵な女性が。
だって、彼は長命なんだもの。髪を切って少し寿命が短くなってしまったらしいけど……また髪を伸ばせば、老化はゆっくりになると図鑑にも書いてあったわ。ならば、その長命を生かして、もっとゆっくり探せばいい。今、急ぐ必要なんてないじゃない。
きっと私より相応しい相手が――
「馬鹿ですか」
そうグダグダ語る私を、リカ様は真顔で一蹴する。
「馬鹿ですか! 本当に馬鹿ですか、ヴェロニカ様っ‼」
私が三回貶された時、私の後ろからお父様が顔を出す。多分ずっと様子を見ていたのね。
「これはこれはミハエル殿下、リカ様。ずっと立ち話もなんですので、温かい部屋でお茶でも」
しびれを切らした常識的な気遣いに、
「お気遣いなく! この後すぐにヴェロニカ様と行く所がありますので!」
リカ様はさらに突拍子もないことを言い出す。無論、この後の約束なんてした覚えないわ。
その後ろで、とうとう「頭が痛い」とミハエル様が弱音を吐き出していた。
貴族社会は権力社会。
だからしがない宰相令嬢の私は、世界を救った聖女様の命令に背くわけにはいきません。
馬車の中で、ずっとリカ様はぷんすかしていた。隣に座るミハエル様は本当に頭が痛いのだろう。ずっとこめかみを押さえながら「すまない」と謝罪を口にしている。
なんか……すっかり尻に敷かれているみたいね。その情けなさが唯一の救い。私と二人では見せなかった、可愛らしいお姿。それを伝えたら、きっと嫌な顔をされるのでしょうけど。
だけど目的地に到着早々、もっと嫌な顔をするお方が玄関ホールで歓迎してくれました。
「ちょ~っと来るの早くない?」
ズーンっと漢らしい素のお顔は、パーティで拝見した以来。その凛々しい顔立ちでいつものド派手なコート等を身に付けているマルス様。そのちぐはぐと機嫌の悪さが相まって、顔面明度が低いにも関わらず凄まじい圧が放たれている。
「まぁ、郷に入れば郷に従えと言いいますし。こんな早朝にアポ無し訪問するのが陸の礼儀なら、今度からアタシたちもそれに倣ってあげるわ」
うぅ……ごめんなさいマルス様。睨まないで。完全に私の責任にされてますが……このメンツならそうですよね。二人とはほとんど面識ないですものね。
「アトクルィタイならまた水槽に引きこもってるわ。アタシは化粧してくる」
そう言い残し、マルス様がコートの裾をはためさせる。
その背中を見届けてから、両手を腰に当てたリカ様はふんすっと鼻から息を吐き出した。
「アポ無しじゃないですよー。治療の依頼したのはそっちじゃないですかぁー!」
「治療?」
眉根を寄せた私に、ミハエル様が説明してくれる。
「あのマルスコーイという海の使者から、リカに正式に依頼があってね。王子が大怪我を負ってしまったから、聖女の力で癒やしてくれないか、と。でも、正式に日程の決定はしてなかったから、アポ無しには違いない」
非はこちらにある、と言うミハエル様に、リカ様は口を尖らせた。
「オネエのくせに器が小さいー」
「リカ」
「……わかりましたよー。でも遠慮なくお邪魔しまーす」
ずんずんと突き進むリカ様の小さくともたくましい背中に、ミハエル様はまた嘆息。そして渋々、その後に続いて行く。
だけど、私は動けなかった。
治療。大怪我。それは間違いなく――私が負わせた額の火傷だから。
やっぱり、私はアトル様にとって……。
「ヴェロニカ様―。水槽ってどこですかー?」
呼ばれて、私はようやく顔を上げる。
姿見で見た自分の顔が、とても情けなかった。
「うわぁ、本物の人魚だぁー!」
地下の水槽に着たのは、あれ以来だった。相変わらず暗くて、尾ひれを丸めているアトル様だけ黄金に発光しているように見える。彼はやっぱり、私たちを見て奥に逃げていってしまったけれど。
懐かしい。そして同時に安堵して、同時に合わせる顔がなかった。
すいすい泳ぐお姿から、体調はかなり回復したのだろう。だけど、その額には焦げ付いたような跡がくっきりと残っていた。
私のせいだ。私が何も知らなかったから。私のせいで――
「大丈夫ですよ」
気が付けば、リカ様が私の顔を覗き込んでいた。にこっと満面の笑みを向けてくる。
「あんな火傷? ぱぱっと聖女が治してきちゃいますからね」
そして「どうすればあの水槽に中に入れるんですか?」と聞かれ、「上の階に……」とだけ答える。するとリカ様は大股で駆け出して行き。
この暗い部屋から出ていくと、ミハエル様が苦笑した。
「今日は『はしたない!』て怒らないのか?」
「え?」
「昔はよく怒っていたじゃないか。淑女たるもの、挙動の一つ一つに慎みを持つべきだと」
あぁ、そんなこともあったわね。ふとあの頃を思い出して、私は視線を落とした。
「次期王妃に……私ごときが指図できませんよ」
「そんなこと言わないでくれ。母上も彼女の教育には頭を抱えているんだ」
「でしょうね」
リカ様は、昔から無邪気だった。よく笑い、よく怒り。とても聖女や淑女として立派とは言えないけれど……それでも心優しい、素直な子。
だから、何も言えないのよ。今も彼女が無茶を通し走っているのは、私のためなんだから。
「……こうして二人で話すの、久しぶりですね」
「そうだな」
「リカ様は、何も思わないのでしょうか?」
元婚約者が、自らの夫と二人きり。新婚間もないのだ。嫉妬したり、不安に思ったりしても何もおかしくないだろう。私だったから、下手な邪推をしてしまうかもしれない。
それなのに、ミハエル様は吹き出した。
「まったく気にしてないだろう。今は君のことしか頭にないさ」
むしろ私が嫉妬してる、と口元を隠したミハエル様は笑う。
それに私が「なぜ――」と言葉を返そうとした時だった。
目の前の大きな水槽に、ドボンッと飛び込んでくる聖女様。白いスカートが捲れるのも気にせず、思いっきり頬を膨らませた顔でキョロキョロと辺りを見渡している。
「リカ様⁉」
「リカっ‼」
私とミハエル様が同時に声をあげても、リカ様は意図ともしない。聞こえていないのだろう。むしろ、奥に隠せているアトル様を見つけて、手で掻き、足をばたつかせて泳いで行ってしまう。下着がばっちり見えて、ミハエル様が再び頭を抱えていた。
「あらぁ、可愛いピンク。あれ、アンタの趣味?」
と、ミハエル様の肩に手を置くのは、化粧ばっちりのマルス様。
反応に困っているミハエル様を押しのけて、私はマルス様に詰め寄る。
「マルス様! リカ様が! 水槽の中に‼」
「そんな慌てないで大丈夫よぉ。あの子、アンタと違って溺れないから」
「そんなのどうして――」
「だってあの子、魔法で自分のまわりに酸素張っているし。一見ただの馬鹿な子かと思って不安だったけど……聖女ってだてじゃないのねぇ」
飄々と褒めるマルス様に、私は目を丸くするしかできないけれど。
「ほらぁ、なんか意気投合したみたいよ」
指差すマルス様に促され、私は再び水槽を見やる。
薄暗い水の中で、聖女と人魚の少年が楽しそうに談笑していた。