私がファンサをしたら、アトル様が倒れました。
ひとまず応接間を借り、控えの間でいつもどおりの姿のマルス様に一連のことを報告したら、
「……そこまでアンタたちが馬鹿だとは予想外だったわ」
と、呆れた様子でどこかへ去って行ってしまいました。
怒られる覚悟はしていたけど……その価値もないほど、失望させてしまったということ? しかも『アンタたち』って、私も含まれているのよね……。
「はぁ……ニカ素敵……大好き……本当にきみは最高だ……」
客間のソファの上で横になるアトル様は、今もぼんやりとうわ言を呟いている。
そんな彼を一人にしておけない。私はアトル様に膝を貸しながら、彼の未だ血を垂らす鼻をハンカチで抑えてやる。
もうめちゃくちゃだわ。今も当然、披露宴は進んでいる。きっとあちらこちらで挨拶が飛び交っているのだろう。私は義務を果たせなかったとして、お父様や国王陛下にも失望されてしまうのでしょうね。
でも、それでもいいや。なんかそんな気分だった。
だって皆を披露宴に泥を塗ったとはいえ……とても清々しい気分なんだもの。ちゃんとリカ様には喜んでもらえたし。結婚式の主役は花嫁よ。その花嫁に喜んでもらえたなら……彼女の友達として及第点のはず。
だけど……ハァハァと赤い顔で興奮を続けるアトル様のだらしのない顔を見下ろす。いつも隣にいるマルス様にまで失望されたと知ったら、アトル様も悲しむのかしら?
私が支えてあげなくちゃ。彼だって、あの舞があの場に相応しくないものだって、わかっていたはず。それでも、怖気づいていた私を励ますために頑張ってくれたのだ。彼が起きたら、ありがとうと伝えなきゃ。そして、愛していると言ってしまおう。
喜んでくれるかな? 喜んでくれると……嬉しいな。
かすかに披露宴の音楽が聞こえてくる。ぼんやりとそれに耳を傾けている時だった。
「お待たせしました、お嬢様」
突如開かれた扉に、私はぽかんとしてしまった。
「えーと……どうなさいましたか?」
見たことのない執事風の男だった。城で新しく雇った方かしら?
とても背が高い美丈夫。ブラックスーツ越しでもわかる胸板の厚さに、思わず胸がときめいた。大きく力強い眼差し。線の綺麗な鼻梁。前髪をオールバックでしっかりと上げ、長い髪を低い位置で結いている。
私がじろじろ見ていると、彼はタイを少しだけ緩めて、ハッと笑った。
「なぁ~に見惚れてるのよぉ、この浮気者♡」
額を指先で弾いてくる彼の口元から、ギザギザの歯が覗く。今日はおでこが容赦なく痛い。
え、その口調……まさか……。
「マルス、様……?」
「やぁね~。こんな美丈夫、他に誰がいるっていうのよぉ?」
そう笑いながら、彼はスーツの裏から簡易的な化粧道具を取り出した。そして有無を言わさず、私の化粧を直していく。特に念入りに額を直していた。いや、直すのが必要なほどデコピンしないでほしいのですが……。
しかし間近で見るマルス様の化粧っ気のない顔は、本当に凛々しく精悍だった。彫りの深い顔に色気がだだ漏れている。しかも、いつもより野性的な匂いまで。
私がろくに息もできないでいると、マルス様は化粧道具をしまう。
「さぁて、さっさとご挨拶とやらを済ませに行くわよ」
「え? あの、アトル様は⁉」
容赦なく手を引かれ、アトル様の頭がソファに弾む。それでも夢心地でムニャムニャしているアトル様を見下ろして、マルス様は嘆息した。
「この子はほっといて大丈夫でしょ。こんな体たらくでも、自分の身くらい自分で守れるわ」
そして、マルス様は嫌味なく私の腰に手を回してくる。
「ダメな主の代わりも、従者の務めだからね。しっかりアンタをエスコートしてあげるわ」
片目を閉じてくる色男の姿に、私は「はい……」としか応えられなかった。
披露宴会場に戻ると、視線を一身に感じた。
それはそうだろう。あんだけ大騒ぎした令嬢がのうのうと戻ってきたのだ。しかも隣に他の男を侍らせて。
「とりあえず……ジェクトル=ルビィ公爵――あのマンボウみたいな男かしらね」
微笑を携えつつ小声で確認してくるマルス様に、私も小さく尋ね返す。
その名前が、きちんとお父様と敵対している公爵のものだったからだ。当然、お二人は大臣と顔を合わせたことがないはず。
「よく覚えていらっしゃいますね」
そういえば、以前図書館でアトル様も私に野次を飛ばしてきた令嬢の名前を言い当てていたな――そのことを思い出していると、マルス様が「当たり前でしょ」と鼻で笑った。
「アンタの周りの人物くらい、全員調査してきてるっつーの」
そして腰を押され、私たちはルビィ公爵の元へ。
さも当然、と社交の場で堂々と顔を上げているマルス様を見上げて。
改めて、無知な私が恥ずかしい。私は、海のことも、アトル様たちのことも、何にも知らなかった。それなのに、彼らは陸のこと、私のまわりのことも、当然のように全部把握している。意識の違いが、やる気の違いが、申し訳なくて。
思わず顔を下げていると、バンッと背中を叩かれた。
「これからでしょう、アンタたちは。まだ若いんだから」
「……もう肌もたるんでますけど」
「アンタの取り柄はその性格の悪さよ」
待ってなさい、と一足はやく、マルス様はルビィ公爵に挨拶に向かう。声の掛け方、引き継ぎ方、一礼の仕方。その全ての所作が一流で、普段の傲慢なオネエはどこへやら。
まわりの女性方も、横目で彼に注視しているみたい。そりゃあ、これだけ美しい執事、欲しいわよね。観賞用でもいいし、愛人にしたいご婦人も多いんじゃないかしら? 負け犬行き遅れ令嬢が侍らせるにはもったいないものね?
「ふふ」
思わず緩む口元を手で隠す。気分がいいわ。
「お嬢様、ルビィ公爵がお時間くださると」
「ご苦労さま」
慰労の言葉をそれらしく掛けてから、私はルビィ公爵に近づく。さて、ここからが本番。だけど腹の膨れた丸みを帯びた公爵のことを、マルス様はマンボウと言っていたっけ? その魚はこんなにつぶらな目をしているのかしら?
そんなことを考えると、少し気が緩んでしまうけど、
「スーフェン嬢、先程は斬新な挨拶だったね」
ピリッと嫌味を言われてしまうと、思わずこめかみが動きそうになる。まぁ、身から出た錆だけど。
「驚かせてしまい申し訳ございません」
「まったくだ。先程、君のお父さんも謝罪してくれたけど……彼も苦労しているねぇ。娘が王太子と結婚して将来も安泰のはずだったのに婚約破棄。それでも地位にしがみつくべく、今度は不出来な娘を未知の外交に使って。有能な候補は他にいるのだから、大人しく後任に任せればいいのにね」
そうですね、この晴れの場に相応しくない嫌味を話すような後任に任させられないお父様はとても苦労なさっていると思います――と口が滑りそうになるのを「ふふふ」と流す。
実際、お父様に苦労掛けさせていますしね。
だけど、そんな私に公爵は気を良くしたのだろう。口元が緩まり、黄色い歯が見えた。
「ところで、君の婚約者はどうしたんだい? あんな派手な余興をしたあとに行方をくらませてしまったけど……恥だけ晒して、海に帰ったのかな?」
「彼なら急病のため応接間で休ませていただいております。回復しだい、改めてご挨拶させてくださいまし」
「いや、結構だよ。磯の臭いがうつったら後が面倒だしね」
そう言いながらも、気づいていないとお思いで? チラチラとマルス様のことを見ていらっしゃいますよね。この後、彼を紹介させようという魂胆でしょうか? あらぁ、そういうご趣味があるというお噂は聞いておりましたが、本当でしたか。
しかしマルス様は今も私の後ろで完璧な微笑を携えているも、これ以上嫌な思いをさせるのも忍びないわ。そろそろ話を切り上げようとした時だった。
「ヴェロニカさまあああああ!」
私の腕に飛び込んでくるのは、純白のドレスを身にまとった聖女様。ぱっちりとした黒目をキラキラさせていた。