「ここは……」
目が覚めたとき、自分が寝そべっていたのはなにもない真っ白な闇であった。
音もなく、風もなく、生き物の影すらない。ああ、私は死んだのだった、と両手を見る。見慣れた両手に両足があり、傷もなく血もついていなさそうだった。痛みもないが、それ以外の感情もどこかぼんやりしているような気がする。
それでも、彼女だけは、アリスタだけはどうなっただろうと唇を噛んだ。
私が彼女にあんな顔をさせたのだ。私が切られたところを見て、死に直面しながら私を案じたのだ。
『ルネ!』
彼女の声がした。聞き間違うはずも、聞きこぼすこともない。生涯でたった一人だけ愛していた人の声を。
「ああ、良かった。消えなかった」
「消えなかった、消えなかった」
「強い魂だ、よい魂」
「あなた、がたは」
大きな爬虫類。水をまとった女性。嘴を持った犬に、赤みがかった靄のようななにか。
見覚えがある。自国の神々の姿絵はたしかこんな感じだった、と思う。本当に神を見た人間がいたのかと驚いたが、深呼吸をして頭を落ち着かせる。
本当に見たか、自分のイメージに寄せてくれているのか、そんなのはどうでもいい。ただ目の前に神がいる。それだけの話だ。
「祖国を造り、民を造り、国を見守ってくださる神々よ。私の名はルネと申します」
「善人だ」
「ああ、善人だ」
善人、とは私のことだろうか。挨拶をし、頭を垂れただけで善人とは、神というのは存外人間に甘いのかもしれない。いやどうだろう、人の子など赤子くらいでしかないと思っているのだろうか。
どちらにしても相手に敵意がなさそうでほっとした。素手であっても訓練はしていたが、丸腰では少々心もとないと思っていたところだ。
「人の子よ、騎士よ、こたびの人生よくまっとうしてくれた」
「もったいないお言葉に感謝いたします。……ですが、騎士としては、まっとうできませんでした」
「人の女王の話か、たしかに死んだがお前のせいではないし、あの魂はまだ生きている」
「魂が、生きて?」
聞けばこうだ。
国民の間違いの代償が、我々の命だったこと。我々が死ぬことがあの国の最大の〈失敗〉と〈損失〉で、自分たちは死んだほうが幸せなのだそうだ。納得はいかないが、神がそういうのであればそうなのだろう。深く考えても得るものはあるまい。
アリスタは聖人なのだという。
たしかに昔から、彼女が間違ったところは一度も見たことがない。それはマナーやレッスンなどもそうだし、字を書き損じたところも、計算を間違えたところも、当たり前だが政治の数々も、なにもかもがそうだった。
一度も字を書き損じたことがないなんて人間としてありえないだろうと思いつつ、自分がしらないところではあるのかもしれない、自分が見たことがないだけかもしれないと思っていたが、生まれてから死ぬまで本当の意味で彼女は完璧だったそうなのだ。
「そんなことが、ありえるのですか」
「普通はない。だが普通ではないからこそ、あったのだ」
「魂の素養が聖人なのです」
「生まれながらに、決まっている」
魂の素養。ああ、やはり、私が仕えた女王は唯一無二にして最高の王であったのだ。
私の忠誠をささげられたことを誇りに思う。あの方を愛せたことを幸運に思う。私はそんな美しい人の人生に足どころか半身を踏み込んでいたのだ。害していたのではないかと不安になるほど近かった。それを許されたようにさえ思う。
愛しい君が、完璧でなくとも愛おしかったが、神に愛されているのだとわかればそれ以上に善いことなどそうそうあるまい。
「あの女王は聖人だったので神にしたかったが、断られた。もう一度人間をやりたいそうだ」
「お前は善人だが聖人ではないので、神にはなれないが、天へ行くか、もう一度人の子になるかは選んでよい」
「人になったら、今度はアリスタの魂と必ず結ばれる」
「ただし、お前はアリスタの魂に出会っても、自分のことを一切伝えられない」
「それでもいいのなら、次の世で、あの女王の魂と必ず出会い、必ず結ばれる運命を与えよう。必ず幸せに生きて、必ず愛し合う未来を約束しよう。そういう未来を語っていただろう」
神はなんでも知っているようだと頭を抱えた。あんな妄想のような、二人きりの語りを聞いていたとはどうにも趣味が悪い。勘弁してくれと告げれば神々は愉快そうに声を出して笑っていた。
ああ、神も笑うのか。そういう世界があるのだな。そして私たちはその神に祝福を約束していただいているのだ。祖国が、これ以上ないほどの苦しみを与えられるのと比例するように。
「慈悲深き神々よ、我々の父よ、どうか私を、また私の女王にお巡り合わせください。最期に見せたあの顔を、あの感情を、私は再度人生をかけて償わねばなりません」
「本当にそなたは善人である。来世もまた、善く生きよ。そして次は天に来るといい」
「祝福を」
「善人騎士に祝福を」
すうっと消えていく白い闇の向こうに、父たちの笑い声が響いている。
意識が遠のく。ああ、私はこれから「だれか」になり「わたし」として生きていくのだ。
主よ、うつし世を離れて天翔けた日に身許に行き、御顔を仰ぎ見んとした私を、また主の身許に舞い戻るために善きことをして生きるよう祝福してくださり感謝いたします。
女王よ、今一度、あなたの身許に舞い戻る私を、どうかどうか、受け入れてくださいますように。
目が覚めたとき、自分が寝そべっていたのはなにもない真っ白な闇であった。
音もなく、風もなく、生き物の影すらない。ああ、私は死んだのだった、と両手を見る。見慣れた両手に両足があり、傷もなく血もついていなさそうだった。痛みもないが、それ以外の感情もどこかぼんやりしているような気がする。
それでも、彼女だけは、アリスタだけはどうなっただろうと唇を噛んだ。
私が彼女にあんな顔をさせたのだ。私が切られたところを見て、死に直面しながら私を案じたのだ。
『ルネ!』
彼女の声がした。聞き間違うはずも、聞きこぼすこともない。生涯でたった一人だけ愛していた人の声を。
「ああ、良かった。消えなかった」
「消えなかった、消えなかった」
「強い魂だ、よい魂」
「あなた、がたは」
大きな爬虫類。水をまとった女性。嘴を持った犬に、赤みがかった靄のようななにか。
見覚えがある。自国の神々の姿絵はたしかこんな感じだった、と思う。本当に神を見た人間がいたのかと驚いたが、深呼吸をして頭を落ち着かせる。
本当に見たか、自分のイメージに寄せてくれているのか、そんなのはどうでもいい。ただ目の前に神がいる。それだけの話だ。
「祖国を造り、民を造り、国を見守ってくださる神々よ。私の名はルネと申します」
「善人だ」
「ああ、善人だ」
善人、とは私のことだろうか。挨拶をし、頭を垂れただけで善人とは、神というのは存外人間に甘いのかもしれない。いやどうだろう、人の子など赤子くらいでしかないと思っているのだろうか。
どちらにしても相手に敵意がなさそうでほっとした。素手であっても訓練はしていたが、丸腰では少々心もとないと思っていたところだ。
「人の子よ、騎士よ、こたびの人生よくまっとうしてくれた」
「もったいないお言葉に感謝いたします。……ですが、騎士としては、まっとうできませんでした」
「人の女王の話か、たしかに死んだがお前のせいではないし、あの魂はまだ生きている」
「魂が、生きて?」
聞けばこうだ。
国民の間違いの代償が、我々の命だったこと。我々が死ぬことがあの国の最大の〈失敗〉と〈損失〉で、自分たちは死んだほうが幸せなのだそうだ。納得はいかないが、神がそういうのであればそうなのだろう。深く考えても得るものはあるまい。
アリスタは聖人なのだという。
たしかに昔から、彼女が間違ったところは一度も見たことがない。それはマナーやレッスンなどもそうだし、字を書き損じたところも、計算を間違えたところも、当たり前だが政治の数々も、なにもかもがそうだった。
一度も字を書き損じたことがないなんて人間としてありえないだろうと思いつつ、自分がしらないところではあるのかもしれない、自分が見たことがないだけかもしれないと思っていたが、生まれてから死ぬまで本当の意味で彼女は完璧だったそうなのだ。
「そんなことが、ありえるのですか」
「普通はない。だが普通ではないからこそ、あったのだ」
「魂の素養が聖人なのです」
「生まれながらに、決まっている」
魂の素養。ああ、やはり、私が仕えた女王は唯一無二にして最高の王であったのだ。
私の忠誠をささげられたことを誇りに思う。あの方を愛せたことを幸運に思う。私はそんな美しい人の人生に足どころか半身を踏み込んでいたのだ。害していたのではないかと不安になるほど近かった。それを許されたようにさえ思う。
愛しい君が、完璧でなくとも愛おしかったが、神に愛されているのだとわかればそれ以上に善いことなどそうそうあるまい。
「あの女王は聖人だったので神にしたかったが、断られた。もう一度人間をやりたいそうだ」
「お前は善人だが聖人ではないので、神にはなれないが、天へ行くか、もう一度人の子になるかは選んでよい」
「人になったら、今度はアリスタの魂と必ず結ばれる」
「ただし、お前はアリスタの魂に出会っても、自分のことを一切伝えられない」
「それでもいいのなら、次の世で、あの女王の魂と必ず出会い、必ず結ばれる運命を与えよう。必ず幸せに生きて、必ず愛し合う未来を約束しよう。そういう未来を語っていただろう」
神はなんでも知っているようだと頭を抱えた。あんな妄想のような、二人きりの語りを聞いていたとはどうにも趣味が悪い。勘弁してくれと告げれば神々は愉快そうに声を出して笑っていた。
ああ、神も笑うのか。そういう世界があるのだな。そして私たちはその神に祝福を約束していただいているのだ。祖国が、これ以上ないほどの苦しみを与えられるのと比例するように。
「慈悲深き神々よ、我々の父よ、どうか私を、また私の女王にお巡り合わせください。最期に見せたあの顔を、あの感情を、私は再度人生をかけて償わねばなりません」
「本当にそなたは善人である。来世もまた、善く生きよ。そして次は天に来るといい」
「祝福を」
「善人騎士に祝福を」
すうっと消えていく白い闇の向こうに、父たちの笑い声が響いている。
意識が遠のく。ああ、私はこれから「だれか」になり「わたし」として生きていくのだ。
主よ、うつし世を離れて天翔けた日に身許に行き、御顔を仰ぎ見んとした私を、また主の身許に舞い戻るために善きことをして生きるよう祝福してくださり感謝いたします。
女王よ、今一度、あなたの身許に舞い戻る私を、どうかどうか、受け入れてくださいますように。