─星空の彼方に神を求めよ
星々の上に神は必ず住みたもう

ベートーベン最後の交響曲、第九番。
この曲を作ったとき、ベートーベンはすでに聴力を失っていたと言われる。それでもこんなふうに希望にあふれた曲を作れるなんて、ベートーベンはやはり神様に愛されていたのではないだろうか。だからこそ世界中の人に愛される名曲を残せたのかもしれない。

由香にとっては、博樹と別れた12月、研修医2年目の冬の思い出にすぎない。
どこかの合唱団が歌っていた歓喜の歌は少しも喜びではなかった。
もしも神様なんてのがいるなら、二人の恋が終わらなければならなかった意味を教えて欲しいと、別れて五年以上がたった今でも由香は思う。


朝はだいたいエルガーの「愛の挨拶」のヴァイオリンの音色で起こされる。
早朝六時からたいして遠慮もせずに母親がクラシック音楽を流すからだ。そのBGMは彼女のお気に入りの曲を組み合わせて作られた朝のためのメドレーで、爽やかで心地よい曲ばかりが揃ってはいるが、それなりのボリュームで家中に響くので由香はたいていこの2曲目の「愛の挨拶」で目を覚ます。

大学を卒業して再び実家で暮らすようになってもう数年が経つ。働き盛りの由香には一人で暮らす選択肢もないわけでなかったが、高齢に差し掛かった両親のことや、一人娘の立場、もちろん自分にとってのメリットも考慮して(掃除、洗濯、食事付きの暮らしの楽なことといったら)、両親と娘一人が同居するという家族形態はここのところずっと変化する兆しがない。
変わり映えしない毎日だが、穏やかな日常というものまたいいものである。

リビングに顔を出すと父はすでにおらず、片道30分の道を散歩しがてら職場である病院に向かったとのことだった。過ごしやすい季節はよくこういうことをしている。昨年病気をした彼は健康のために歩く時間を意識して作っているようだ。すばらしい。

大正時代から続いている実家の産婦人科医院は地元に根付いた病院で、母娘そろってお世話になった、と言われることも多い。由香は平日は市内にある総合病院で勤務しているが土曜日は父と同じ産婦人科で仕事をしている。総合病院から学ぶことも、個人病院で父から学ぶこともたくさんあった。

五月の連休明けの土曜日の少しだけ穏やかな雰囲気の朝、母親の用意したハムエッグとトーストの食事を口に入れながら、由香は優美に響くバッハのヴァイオリン曲を聴いていた。バッハの音楽はやはり祈りに近い。そんなことを思いながら、‘食べなさい’と言われるように食事の最後に目の前に出されたイチゴを口に入れたときだった。

「来週の日曜日、空けておいてね」
デロンギのエスプレッソマシンで自分と由香の分のコーヒーを入れながら母親は言った。「なんで?」
そのまっすぐな姿勢をじろりと眺めて、イチゴを口に入れられないままの由香が言った。
「お見合いよ。」
義務です、とでも言うように彼女は言い放つ。こういうやりとりをするのは初めてではない。
「本気?無理よ。私が納得する男なんてそうそういないわ。ましてお見合いでなんか現れるわけがないって言ってるでしょ。」
「その考えをまず捨てなさい」
いつになく母は厳しい口調で言い放った。渡されたコーヒーを手にもったまま由香は思わずたじろぐ。こういうとき母はまるで女帝のようだ。
でも実際、結婚相談所にも入ったし、今までもお見合いを何度もしたが、結局、何かが違うのだ。そもそも目の前に現れた人といきなり結婚を考えなさいというほうが無謀な話に思える。動物だってそれなりに好きと嫌いを使い分けてパートナーを選んでいるじゃないか。

「大学病院の整形外科の先生なんですって。叔父さんの部下で、一番優秀ってお話よ。由美子さんもお会いしたことがあるらしいんだけど、好青年だっておっしゃってたわ。三十三歳、ぴったりだと思ったの」

母はコーヒーカップを並べて満足そうに微笑んだ。
由美子さん、というのは父の妹、由香にとって叔母にあたる。その叔父は県内の大学病院に長年勤めている、やはり医者だった。

「医者は嫌。博樹と比べちゃうから」

博樹、と名前を出してみて、少しだけ胸が締め付けられる。お互いに病院の跡取りで、別れてもう五年以上過ぎて、彼はもう結婚してしまって、今はもうどうすることもできないことはわかりきっているのに。その名前だけでもこの胸は落ち着かない。
押し込むようにイチゴの最後の一粒を口に入れて、黙り込んだ由香に、あきれたような顔をして母が言った。

「いつまでそんなこと言ってるの。医者じゃなかったら自分より稼ぎの少ない男はダメとか頭の悪い男は嫌って言うくせに。結局医者のあなたと対等なんていうのは、この辺だったらお医者さんくらいしかいないわよ。我儘もいい加減にしてちょうだい。」

その言葉を聞き流すようにだまって苦いだけでそれほどおいしくもない黒い液体を啜った。コーヒーは苦く濃くあまり味わえなかった。

「仕事に行くわ。続きは今度にして」
「来週日曜日あけておきなさいね」

私もお父さんもいつまでも生きていないんだから、と付け足された母の言葉に返事はしないままリビングを出た。そんなことわかっている、と心の中で思いながら。