「フィーアナさんっ。ただいまです!」

「むぎゅっ」

夜、宣告通りグレタの酒場に戻ってきたエリアスは、間髪入れずに大型犬よろしくフィアナに抱きつく。けれども彼は、何かに気づいたように首をかしげた。

「あれ。フィアナさん、何か心配事ですか?」

「へ? は、はい。あることにはありますが、なんで?」

「いえ。なんといえか、抱き心地がそんな感じでして」

「…………はい? なにそれ怖い」

唐突に披露されたエリアスの新たなスキルに、フィアナは顔を引き攣らせる。なんだ、そんな感じの抱き心地って。怖すぎる。

フィアナがドン引きしているのが伝わったのだろう。「やだなあ、フィアナさん。冗談ですよ」とエリアスは目を泳がせた。

「冗談はさておき、どうされたんですか? 私が力になります。できたら、お話ししていただけませんか?」

ね?と顔を覗き込まれ、フィアナは逡巡する。ひとりでは解決できないどころか、まさにエリアス側の問題だからだ。しかし、既に新しい人生を送り始めている彼に、伝えてしまってもいいのだろうか。

いくらか迷ってから、結局フィアナはすべてを彼に打ち明けた。

「だぁぁああぁ……っ、あの人たちは本当に……っ。人がちょっと目を離すと、自分たちに都合よく好き勝手するんですから」

すべてを聞き終えたエリアスは、頭を抱えて机の上に倒れこんだ。

尚、客足が伸びる時間帯はもう少しあとなので、二人は店の2階のリビングに移って話をすることにした。

頭を抱えて「いつもいつも……、どうしてくれましょうか……」と呪詛の言葉を吐き続けるエリアスに、フィアナはしょんぼりと項垂れる。

「ギルベールさん、言っていました。このままじゃ、エリアスさんがこれまで準備してきたことが、全部無駄になっちゃうかもしれないって」

「私の努力がどうとかは、一向に構わないのですけど。……まったく。確かにこれまでも散々ぐちぐち言ってましたが、一応は納得させたんですよ。なのに、私がいなくなった途端この様とは。本当に、ここまで手に負えない人たちだなんて」

 はぁ~っと。うんざりしたように、エリアスが息を吐く。完全に突っ伏してしまった彼を、フィアナはそっと覗き込んだ。

「どうするんですか? ……宰相、戻りますか?」

 エリアスの肩が、一瞬ぴくりと揺れる。ややあって、彼はぶんぶんと首を振った。

「いいえ、戻りません。私は宰相を辞任したんです」

「けど」

「大丈夫ですよ。――そうです。父は現役時代、かなりのやり手だったんです。あの人なら、これしきの苦境どうにでも出来るはずなんです」

 言葉とは裏腹に、彼の声は大分不満そうだ。じっとフィアナが見つめていると、やがて観念したようにエリアスは体を起こした。

「――……なーんて。放置するわけにもいきませんね。今この瞬間にも、困っているひとがいるんですから」

 顔を上げて苦笑して見せたエリアスに、フィアナは息を呑む。少しして、フィアナはほっと表情を緩めた。

「エリアスさんならそう言う気がしてました」

「すみません。私はフィアナさんを、振り回してばかりですね」

「謝らないでください。人生まだまだ長いんですから。第二の人生はまた然るべきときに一緒に楽しむとして、今は目の前のことを全力でやりましょう」
 
「……ええ!」

 眩しそうに目を細めるエリアスに笑顔で頷いてから、フィアナはぱっと立ち上がった。

「そうと決まれば、作戦会議です。宰相復活作戦、さっそく立てましょう!」





 アレックス・ルーヴェルトは首を傾げていた。

(おかしい。何もかもが、おかしすぎる)

 シャルツの父、シュバルツ王を長年支えた敏腕宰相。そんな彼がここまで首をひねるなど、いったい何があったのだろうか。アレックスを少しでも知る人物なら、そのように戦々恐々としたはずだ。

 しかしながら、ここ数日ほどの動きを考えれば無理もないことだ。なにせ、宰相に復帰してからというもののアレックスの悩みの種であった問題――スラム地区の救済政策が、ここにきて急にスムーズに動き始めたのである。

(ありえない……。あれほどのらくら逃げ回っていた大臣たちが急に協力的になるなんて、何か裏があるに絶対決まっている……)

 城からの帰り道、馬車の中でひとり、アレックスは盛大に顔をしかめる。

 なにせスラム政策の件でアレックスが話をしに行くたびに、「さて、どうでしたかな?」「いやはや、この頃は記憶があいまいで……」などとのたまってきた連中だ。

挙句の果てには顔を見るだけで「腰がー」「天気がー」と逃げ出していたくせに、今度は「ぜひ力にならせてくれ」と言わんばかりに我先に手を貸してくる。これが、気味悪く思わずにいられるだろうか。

 ――思い当たる節は、あることにはある。

 最近、良家の奥方たちの間で、貧しいひとたちへの慈善活動が流行っているのである。

 こういう「慈善活動ブーム」は、上流階級の間では度々発生する。特に、今のように気候が安定していて、戦争もなく、余裕のある時代。彼らは時として「上流階級の嗜み」として苦しんでいるひとたちを救いたがる。

 とまあ、根本的な解決になっているかどうかはさておいて、そうした慈善活動ブームがいままさに、この王都で起きているのだ。

大臣たちが手のひらを返したように協力的になったのも、このあたりが関係しているのだろう。

(貧しい人々の救済に目が向いているときに、その最たる政策であるスラム政策から逃げていることが知られたら外聞が悪い……。どこまでいっても自分本位で打算まみれな判断だが、間違っちゃいない。おかげで、こちらとしても助かったしな)

 問題は、誰がこの状況を仕掛けたかだ。

 偶然にしては出来すぎている。誰か――それも、スラムの救済政策を迅速に前に進めたがっている誰かが、手を回したとしか考えられない。

 シャルツ陛下だろうか。いや、陛下が仕掛け人なら自分が知らないということはあり得ない。ならば、部下の文官たちはどうか。やはり可能性は薄そうだ。

 だとすると、考えられるのはひとりくらいしか――。

「おかえりなさいませ、旦那様」

「ああ」

 屋敷に着いたアレックスは、ダウスに上着を預けて中へと入る。数年ぶりに袖を通す宰相服は、やはり重く堅苦しい。さっさと着替えて楽になりたい。そのように自室のある二階へ上ろうとしたときだった。

「おかえりなさい、アレックス」

 階段の下から呼びかけられ、アレックスは足を止めて振り返る。そこからは、妻のメリルが窺うようにこちらを見上げていた。

 宰相に復帰した途端、仕事に忙殺されている夫を、彼女は心配していた。妻を安心させるために、アレックスはわずかに笑ってみせた。

「ただいま、メリル。見ての通り、今日も早く帰れたんだ。着替えてすぐに降りるよ。まだだったら一緒に夕食を食べよう」

「早く戻ってくるのはわかっていたわ。あの子たちから、しばらくは城での仕事も落ち着くはずだって聞いたから」

「あの子たち?」

 気になるフレーズに、再び階段を上りかけていた足をアレックスは止める。そして、居間へと続く廊下の奥から、静かに姿を見せた二人の姿に目を瞠った。

「お前は……!」

「ご無沙汰しています、父上」

 頭を下げた長身の男。それは紛れもなく、即行で書きなぐった辞表を陛下につきつけて以来、忽然と城から姿を消した息子、エリアス・ルーヴェルトそのひとである。

 では、その隣で少しも怯むことなくこちらを見上げる、凛とした眼差しを持つ小柄な少女は。

「はじめまして、エリアスさんのお父さん。エリアスさんとお付き合いさせていただいています、フィアナといいます」

 ダウスに教わったことを、ちゃんと自分のものにしたのだろう。流れるような所作で、少女はきちんとレディとしての挨拶をしてみせる。

 呆気にとられるアレックスを、少女は猫を思わせる大きな瞳でまっすぐに射抜いた。



「突然に失礼します。――今日はお願いがあって、二人でまいりました」