「ごちそうさまでしたっ」
ふたり分の声が重なり、ぱんっと手を合わせる乾いた音が響く。ふたりの膝の上には、それぞれ空になったシチュー皿とパンの器。それらをトレーにどけてから、エリアスは満足げに息を吐いた。
「あー、美味しかった。カーラさんのシチューは絶品ですね!」
「そうですね……」
弱々しく答えるフィアナは、どことなく疲れた様子。そんな彼女の顔を覗きこみ、エリアスは見えないしっぽをぶんぶんと振った。
「あれ? フィアナさん、やっぱり元気がありませんね? かくなる上は、私が甲斐甲斐しくお世話をしなくては……?」
「あー、もう! 誰のせいだと思って……!」
嬉しそうに手をワキワキとさせながらにじり寄るエリアスに、フィアナはぎゃーすと威嚇をする。尚、フィアナがくたびれている理由は、食事の間中「フィアナさん、あーん、です!」「自分で食べれます!」の攻防を繰り返し過ぎたためである。
フィアナが毛布を引き上げて睨む中、エリアスはしみじみと顎に手を当てた。
「涙目であーんに応えるフィアナさん、破壊的な可愛らしさでしたね。私の拙い語彙力で例えるならば、警戒心丸出しな子猫ちゃんが、食欲には抗えずに差し出されたスプーンを舐めてしまうような。なんだか私、新しい扉を開いてしまいそうです」
「具体的かつ若干Sっ気を感じて恐いです、エリアスさん」
「これから先、三食すべて私の手ずからフィアナさんに食べさせて差し上げたい。ああ、堪りません! 想像をしただけで、全身がぞくぞくと震えてしまう……!」
「前触れなく病むの止めてくれません!? その路線貫くなら婚約破棄しますからね!?」
「冗談ですよ。フィアナさんは本当、可愛い反応をしますねっ」
にこっと笑って、エリアスが小首をかしげる。そんな彼を、フィアナは疑わしげに睨む。どこまでが本気で、どこまでが冗談がわからない。いざ付き合ってみても、そのあたりはさっぱり不明なエリアスである。
と、そのように彼を見ていると、ふいにエリアスが手を伸ばす。ぽんとフィアナの頭に手を置いた彼は、さわさわと髪を撫でながら苦笑した。
「貴女を甘やかしたいのは本当ですよ。なにせ、フィアナさんが目を回してしまったのは私のせいですから」
「っ!」
アイスブルーの瞳に浮かぶ気遣わしげな色に気づき、フィアナは目を瞠った。頭を撫でる彼の手は、どこまでも優しい。ややあって、フィアナはついと目を逸らした。
「倒れたなんて大袈裟です。ちょっとびっくりしただけですよ」
「それだけじゃないでしょう? 貴女は気に病んでいる。自分のせいで、私が宰相をやめてしまったのだと」
「ね?」と顔を覗きこまれて、フィアナはどうにも答えられなかった。まさに図星、その通りであったからだ。
フィアナの心の内を見透かしたようにエリアスは小さく笑うと、椅子の上で座りなおした。
「ねえ、フィアナさん。私、いつかスカイリークの湖のほとりで、のんびり余生を過ごすのが夢だったんです」
「……え?」
「いつか宰相をやめて、王都も離れて。せっかく時間も出来るのです。料理を覚えて、簡単なカフェなんかを出してもいい。そうやって自然に囲まれて、地に足のついた生活をする。それが、私のささやかな目標でした」
もちろん、私の奥さんになる人が、それを許してくれるのか。それだけは不安でしたけど。そう言って、エリアスは楽しげに笑った。
「――宰相という立場に、何の思い入れもありません。次期宰相として育てられたから。友であるシャルツに求められたから。私が宰相になったのは、それだけのことです。自分の代わりを任せられる誰かが見つかったら、いつ降りても構わなかった」
「エリアスさん……」
「と、いうわけですから。今回のことはちょうどよかったと。正直なところ、そう思っています。ですから、フィアナさんが気に病む必要はこれっぽっちもありません。私は、私の意志でここにいるんです」
とんと胸を叩き、エリアスがきっぱりと言い切る。その顔はどこまでも晴れやかだ。
だが、次の瞬間、彼は表情を陰らせた。
「それはそれとして、貴女には謝らなくてはなりません。私の未来は、もはや私一人だけのものではありません。にも拘わらず、私は勢いに任せて城を飛び出してきてしまった。その行いは、貴女を大いに不安にさせたはずです」
「それは……」
「フィアナさん」
名を呼んで、エリアスはフィアナの手を握る。その手が微かに震えていることに、フィアナは気づく。切なげに目を細めて、乞うようにエリアスは続けた。
「宰相を辞めたことで、どんな未来が広がるのか。私自身、その見通しが立っていません。けれども、どんな未来であれ貴女の笑顔を守るから。ですから変わらず、私と一緒に生きていただけますか?」
言われて初めて、エリアスが何に怯えているのか――彼の不安の種に思い至り、フィアナはぱちくりと瞬きをした。
緊張に揺れる瞳に、引き結ばれた唇。まったく、「宰相を辞めてきました!」と宣言したときの晴れやかさはどこに行ったのやら。そう考えたらなんだか可笑しくなって、フィアナは小さく吹き出した。
「なんですか、それ。ていうか、ここで私が嫌ですっていったら、エリアスさん宰相やめる意味なくなっちゃうじゃないですか」
「……そのときはそのときで、いち庶民として改めてフィアナさんにアプローチします。めちゃくちゃします。しつっっっこくします」
「諦める気ゼロじゃないですか。ていうか、しつこい自覚あったんですね」
「ありますよ。ありますけど、改める気もゼロです」
「潔い!」
くすくすと笑って、フィアナは肩を揺らす。その間も緊張をのぞかせて答えを待つエリアスを、フィアナは悪戯っぽく覗き込んだ。
「い・や・だ」
「!?」
「――…………なーんて。言うわけないじゃないですか、馬鹿ですね」
笑い飛ばした途端、エリアスがその場で崩れ落ちた。ぜえはあと死に体の様相で呼吸を荒げ、手足を震わせながらエリアスはなんとか体を起こした。
「びぃー……っくりしました……! まだ心臓がドキドキいってます。死ぬかと思いました。いえ。むしろ一度死にました」
「オーバーですね。私との未来のために、長生きしようって気概はないんですか」
「ありますよ!! ありますけど、気概がどうとかと別に、フィアナさんに振られちゃったら私の弱っちいハートなんて簡単にぺちゃんこになっちゃうんです!」
涙目で抗議をするエリアス。そんな彼の手に、フィアナはそっと、自分の手を重ねる。首を傾げるエリアスのアイスブルーの瞳を、まっすぐに見つめた。
「私が好きになったのは、エリアスさんです。宰相さまでも、どこぞのお偉いさんでもない。ちょっと変わってて、面倒くさくて、本当はすっごく優しい、お人好しで不器用なエリアスさんなんです。あなたがどこで何をしようが、そこは変わりません」
エリアスが小さく息を呑む。もう一方の手も重ねてぎゅっと握り、フィアナは力強く微笑んだ。
「宰相辞任、上等です。せっかく未来の選択肢が広がったんです。一緒に楽しく、生きてやりましょう」
エリアスの切れ長の目が、大きく見開かれた。一拍後、エリアスはふいと顔を背ける。繋いでいない方の手で顔を隠す彼に、フィアナはきょとんと問いかけた。
「エリアスさん? どうしたんですか?」
「…………」
「エリアスさん??」
「…………ないて、ないです」
「それ、もはや自己申告ですから。というか、エリアスさん泣いてるんです?」
「ないでないでずっでば」
明らかに鼻声なエリアスは、どうやら本当に泣いている。驚いて身を乗り出せば、わずかに赤く染まった目と、長いまつ毛に浮かぶ涙の粒が目に飛び込んできた。
まさかそんなことになってると思わなかったフィアナは、本気で仰天した。
「え? え、ちょ、え!? めちゃくちゃ泣いてるじゃないですか!? なにがどうして、そんなことに??」
「~~~っ。大人を泣かせておいて、自覚無しなんですから貴女というひとは!」
「自覚なしってなんですか? 私、何かしちゃいました??」
悔しげにエリアスが怒るが、フィアナとしては何が何だがまったく訳がわからない。どうしたものかと慌てていると、ふいにエリアスに手を引かれる。そうして、ぎゅっとフィアナを抱きしめたまま、エリアスはしみじみ呻いた。
「本当に。……ほんっっっとうに! 私は世界一の幸せ者です」
「?? それはよかったですね……?」
「はい!」
「ぐぇっ」
これまでにないほど強く抱きしめられ、フィアナの口から乙女にあるまじき声が漏れた。目を白黒させていると、ぱっとエリアスが離れる。ほっとしたのもつかの間、エリアスは流れるようにフィアナの左手を取ると、婚約指輪の光る薬指に口付けを落とした。
そっと唇を離した彼は、びっくりして目を丸くするフィアナを、蕩けるような甘い笑みでのぞき込んだ。
「私も負けずに、貴女を幸せにします。世界で一番、誰よりも一番、幸せにしますからね」
「ふ、ふぇ?」
「愛してます、私の天使さまっ」
屈託のない満面の笑顔でそう告げられ、急速に頬に熱が集まる。にこにこと嬉しそうにほほ笑むエリアスに、最後は消え入りそうな声で「わたしもです……」と答えるのが精いっぱいな、フィアナなのであった。