「辞任したぁぁぁぁぁあ!?」
グレダの酒場に悲鳴が響く。声の主はキュリオとニース。いつも賑やかな二人なだけに、慣れた常連客たちは一瞬そちらを見ただけで、すぐに銘々の会話に戻っていく。
顎が外れてしまいそうなほど大口を開けて固まる飲み仲間たちに、いつもとは異なりカウンターの反対側に立つエリアスは、あっさりと頷いた。
「はい! きれいさっぱり、辞表をしたため突きつけてやりました」
「はぁぁぁ……!?」
意味をなさない悲鳴とともに、キュリオが白目をむいて背もたれに倒れる。一方で、豪快な笑い声を上げたニースは、おおきな手をぐっと握って親指を立てた。
「いいじゃねえか! やったな、エリアス! お前もこれで、自由の身だ!」
「ありがとうございます……! いやあ、正直な話、せいせいしました!」
「だな! 祝い酒を飲まなきゃな。おおい、なんでお前カウンターのそっち側なんだよ。こっちにきて、一緒に乾杯しようぜ?」
「あー、すみません。飲みたいのはやまやまなんですが、今日は少々事情がありまして……」
「なぁぁぁに呑気なこと言ってんのよ!?!?」
ショックから戻ってきたキュリオが、椅子をガタンと鳴らし二人にかみつく。だが、盛り上がっていたエリアスとニースはきょとんと瞬きするだけだ。
「なにって」
「だって、めでたいことだろ??」
「そんな気楽な話じゃないでしょ!? 宰相よ!? 王様の右腕がいなくなっちゃったのよ!?!?」
声を裏返して猛抗議をするキュリオ。しかしながら、ニースの反応は鈍い。皿に乗ったジャーキーを一本取り上げると、口の端に咥えてゆらゆらと揺らす。
「だってよー。エリアスの代わりは、宰相経験者の親父さまがきっちり引き継いでくれるんだろー? なんも問題ないだろ??」
「そ、そうかもしれないけど……。でもでも、シャルツ陛下って、すっごくエリアスちゃんのことを買ってたんでしょ!? きっとすごく困っちゃうわよ!!」
「いいんですよ、あのひとは。むしろ、これまで甘やかし過ぎました。私がいなくなったことで、少しはひーひー言えばいいんです」
つんとそっぽを向いて、すげなくエリアスは答える。
「無茶苦茶よ……」と呟いて、キュリオは疲れたように肘を突いた。
「それで? 宰相やめてどうするの? ここで働くわけ?」
「ベクターさんに声を掛けていただいたのでそれも考えていますが、しばらくは職探しをするつもりです。お二人にお世話になりっぱなしとはいきませんし、大切なお嬢さんをいただく以上、しっかり手に職つけて働きたいですしね」
「うん、うん。いい心がけだ。フィアナも、宰相の嫁になるよりずっと気楽だろうし、色々とよかったじゃねえか!」
「それは、まあ、そう……。って、あら??」
頷いてみて初めて、キュリオは気づく。そういえば、フィアナの姿が見えない。裏で賄いを食べているタイミングかとも思ったが、それにしては時間が長すぎる。
「フィアナちゃんはどうしたの?」
尋ねた途端、エリアスがちょっぴりバツの悪そうな表情を浮かべたことに、キュリオは目敏く気づく。しばらくじぃーと睨みつけていると、ややあって観念したようにエリアスは白状した。
「少しびっくりさせてしまったようで、いまはお部屋で休んでいます」
それ即ち、驚きのあまり目を回して倒れてしまったということで。
「だからお前、エプロンつけてるのか……」
合点のいった顔でニースがつぶやくが、まったくもってその通り。休んでいるフィアナに代わり、ピンチヒッターとしてエリアスがホールに入っている。しかしながら、倒れた元凶がエリアスそのひとだということは、それでも埋め合わせは足りないくらいだ。
「エ〜リ〜ア〜ス〜ちゃ〜ん??」
地の底を這うような野太い響きに、カウンター向かいに立つエリアスの笑顔が引きつる。キュリオはこめかみをぴくぴくさせながら、身を乗り出してエリアスの首下のタイを掴んだ。
「今日という今日は反省なさいな、このど阿呆!!」
ぼーっと。まさしく、そうとしか表現しようのない惚けた様子で、フィアナはベッドの上で放心していた。
(あれ……? いつのまに寝ちゃった? いま何時?)
どんよりとした顔で、壁の時計を見る。頃合いでいえば、そろそろ店が空いてきて閉店の準備を始める頃だ。
(……寝たのに、寝た気がしない)
こてんと倒れこみ、フィアナはぐりぐりと布団に顔を埋めた。ごろごろと転がりながらアレコレ考えていたためだろう。寝落ちしてしまう前より、はっきり言って疲れが溜まっている気がする。
"宰相やめてきました!”
普段よりずっと早く店に現れたエリアスに、晴れやかに告げられたとき。フィアナは初め、冗談だと思った。
しかし話を聞いていくうちに、徐々によもやこれは本当のことなのでは……?と疑い始め。ついに彼が真実を話していると確信したとき、フィアナは泡を吹いて倒れた。
だって、そうだろう。どこの世界に、町娘との結婚を反対されたからと、潔く宰相をやめて城を飛び出してくるチャレンジャーがいるのだ。目の前にいた。本当に勘弁して欲しい。
(はぁぁあああぁぁあ……! 宰相やめてくるとか、宰相やめてくるとかー! これやっぱり一大事!? 王国きってのスキャンダル!? 反逆罪とか大丈夫!? だれか教えて、詳しい人―――!)
枕をぽふぽふと叩き、フィアナは悶えた。残念なことに、考えうる限りそうした事情に最も通じてそうな男が騒ぎの当事者であるので、何を聞いても安心できそうにないのだが。
そのとき、控えめにドアがノックされた。声をかけると、案の定顔を覗かせたのはエリアスだった。
「フィーアナさんっ。お加減いかがですか?」
「んげっっ」
思わず潰れたカエルのような声で応じると、エリアスがひどくショックを受けた様子で慄いた。
「フィアナさんが再び、ゴミ屑を見るような目で私を……!? 私たち、誰もが羨むラブラブカッポーですよね? 天上天下唯一無二の、ミラクルスーパーいちゃいちゃ馬鹿ップルですよね!?」
「エリアスさんの語彙力、どんどん残念な方向に進化してません? ていうか、誰のせいで倒れたと思ってるんですか。あーもう。エリアスさんの顔見てたら、また頭痛くなってきた」
「そ、そんな、私がフィアナさんを苦しめてしまうなんて……。う、うう。待っていてください。ちょっくら、自分が埋まるための穴を掘ってきます……うぅ……」
「だから墓に入るなと。ていうか懐かしいですね、この流れ!」
しくしくと嘘泣きをかますエリアスに、フィアナはぎゃーすと怒る。まったく。少しはしおらしく登場するかと思いきや、エリアスは呆れてしまうほど平常運行だ。むしろ普段よりテンションが高いと言っても過言ではない。
(ほんと、調子狂うんだから……)
首を振って、フィアナは盛大にため息を吐く。――おかげさまで、目覚めたときの陰鬱とした心地は大分晴れたのだが、フィアナ本人はそれに気付かない。エリアスだけが、気づかれないように少しだけ表情を緩めた。
「フィアナさん、フィアナさん」
ごそごそと肩で扉を開けて、エリアスが部屋の中に体を滑り込ませる。その手に持つ木製のトレーの上には、ほかほかと湯気の立つシチューが二人分と、丸いパンがいくつか載っている。
美味しそうな香りに、フィアナの意識は自然とそちらに引っ張られる。ちらちらとトレーを眺めていると、エリアスは笑顔で小首を傾げた。
「お腹がすいたでしょう。お夕飯を持ってきましたよ。一緒にごはんにいたしましょう?」