ルーナ・フィリアスがその場に居合わせたのは、偶然だった。
「よーし、今日は第四金曜日! 今夜は街に食べに行こう!」
グレダの酒場に行ったのは、父の号令があったから。儀典室付の文官として働くルーナの父は、毎月の月末に、必ず家族を連れて食事に行く。行く先はレストランだったり大衆食堂だったりと様々だが、その月選ばれたのがたまたまグレダの酒場だった。
「儀典長が、この間ぽろっとここの名前を出したんだ。ギルベール様が興味を持たれるくらいだ。きっと料理も美味しいんだろうよ」
母と弟たちを連れて店を訪れた父は、メニューを開きながらウキウキと声を弾ませた。
常連が多いのか、店内の雰囲気はアットホームだ。酒場と銘打っているだけあって酒の種類も豊富だが、フードメニューも潤沢で、趣としては大衆食堂に近い。そのためか、ルーナたちのような家族連れも散見される。
料理を持ってきてくれたのは、自分と同い年くらいの女の子だった。小柄で童顔だが、働きものな印象の女の子。くりっとした丸い目が、どことなく猫を思い出させる。
「おまちどうさま! 楽しんで!」
そう言って、にこっと笑った顔はとてもかわいかった。引っ込み思案な自分と違って、てきぱきと働く姿も格好いい。ルーナはひとめでその子を好きになった。
料理はどれも美味しかった。途中、ちょうど今日が誕生日だったらしく、さっきの女の子が常連客からサプライズでお祝いされるのを手を叩いて盛り上げるなどもして、楽しい時間はあっという間に過ぎた。
そろそろデザートでも食べようか。メニューを弟とわくわくと覗き込んでいたとき、なにげなく顔を上げた父が目を丸くした。
「え? どうしてあの方が……?」
父の小さな呟きに、つられてルーナもそちらを見る。入口の扉の所で、奥のカウンターに向けて背の高い男が頭を下げている。
銀髪が揺れ、男が顔を上げたとき、ルーナはあっと声をあげた。白い細面に、涼やかに整った美しい眼差し。女たちに絶大な人気を誇る美麗の宰相、エリアス・ルーヴェルトだ。
その彼に親しげに腕を絡めているのは。
(ひぅっ。あ、アリス・クウィニーさん!?)
庇護欲を誘う上目遣いで、甘えるようにルーヴェルト宰相にすり寄る女。間違いない。純真な見た目に反して色々と噂の絶えない社交界の問題児、アリス・クウィニー嬢だ。
ルーナは彼女が苦手だ。男性の前では無害でか弱い娘を演じるアリスだが、同性を前にすると彼女は豹変する。特に、彼女の狙う男に手を出そうものなら大変だ。ルーナは一度、アリスの取り巻きの気を惹こうとしていると勘違いされて、えらい目にあった。
(そ、そうでした。アリスさん、今はルーヴェルト様狙いでした……)
ほかの客に隠れるように身を縮めながら、ルーナは恐る恐る二人を窺う。知り合いでもいたのか、二人はまっすぐにカウンター席へと向かい、そこに座る。
ルーナは不思議に思った。ルーヴェルト宰相はどうかしらないが、アリスはこういう店にくるようなタイプではない。宰相に誘われて、仕方なくついてきたのだろうか。だとすると、デートに誘ったのはルーヴェルト宰相から……?
(ルーヴェルト様、アリスさんのことは避けているんだと思ってましたけど……)
これまでパーティ等で、何度もアリスにアプローチをされながら悉く受け流してきた宰相の姿を思い出し、ルーナは首を傾げる。
なんにせよ、彼女に見つかるのはごめんだ。ようやく宰相とのデートが叶って、アリスは相当気合をいれてきているはず。万が一ふたりの邪魔をしてしまえば、前回の比ではないくらい後々まで嫌がらせをされるに違いない。
デザートを食べられないのは残念だが、背に腹は代えられない。早く店を出よう。そう家族に頼み込もうと思ったルーナだが、不意に、柄の悪い男たちが店を訪れた。
それからの出来事は、ルーナの心に深く刻み込まれた。
柄の悪い男たちが店を追い出されてすぐ、アリスが悲壮感たっぷりに喚き出し。と思いきや、不意にルーヴェルト宰相が彼女の手を振り払い、直後警備隊が店に乗り込んできて。あれよあれよという間に、アリスの悪事がルーヴェルト宰相の手により明らかとなって。
そして、あの衝撃の一幕だ。
「私には、どうしても譲れない優先順位があります。まずは彼女に、時間を使うことをお許しください。……行きましょう、フィアナさん。私の天使さま」
愛おしげに店の女の子を腕に抱き、颯爽と店を飛び出していったエリアス・ルーヴェルト。物語のワンシーンのような展開に、ルーナの中の乙女センサーが何度も悲鳴を上げた。
(え!? え、ええっ!? つ、つまり、あの子がエリアス様の想い人で、アリスさんを連れてここに来たのは、あの子を守るためで!?)
詳しい事情はわからなかった。だが、残った常連客たちが興奮してあれこれと話す内容に夢中で聞き耳をたて、二人が特別な関係にあることや、少女を庇って怪我を負った宰相が記憶を失っていたことなどを知った。
そこから、孤高の宰相と町娘を巡る一大恋愛譚が、頭の中でぶわりと花開いた。
数日たっても、その熱は冷めなかった。あの日の光景――切なさと狂おしさの入り混じる瞳で少女を見つめるルーヴェルト宰相と、困惑しながらも信頼して身を任せる少女の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
もはや、その熱を自分のなかで納めておくのは困難だった。二人の間にこれまでどんな物語があったのか。聞きかじった話を核に幾千幾万もの妄想を膨らませ、気が付けば憑りつかれたようにそれらを紙に書きなぐっていた。
そうやって出来上がった物語こそ、『氷の宰相と春のエンジェル』であった。