「ギルベール儀典長のお孫さん、ですか?」
その夜。いつものようにカウンターに座るエリアスは、フィアナの話を聞いてエールを飲む手を止めた。彼の前にチョリソーを置きながら、フィアナはこくりと頷いた。
「はい。サラさんっていう、私と同い年の女の子です。お知り合いですよね?」
「……ああ。そういえば、一度だけご挨拶したこともあったような」
「嘘おっしゃい。儀典長をしているおじい様と出席したパーティで、二三回挨拶したことあるって言ってましたよ」
「すみません、見栄張りました。全然思い出せません」
軽くつついてみれば、あっさりとエリアスは白状する。つくづく、フィアナ以外の娘に興味関心が低いエリアスである。開き直った彼は、無邪気に問いかけた。
「その、サラさんがどうしたのですか?」
「今度、おうちにお呼ばれしました」
「へ?」
さすがにそう来るとは思わなかったのだろう。エリアスはきょとんと瞬きをする。そんな彼に、フィアナは肩にかかる髪をくるりと指でもてあそび、照れくさそうに告げた。
「サラさんのお家で開くお茶会に、参加させてもらうことになったんです。ですので、さっそくダウスさんにマナー講義をお願いしたいのですが……、スケジュールを相談させてもらってもいいでしょうか?」
話は少々さかのぼる。
キュリオの店の控室に勢いよく飛び込んできたご令嬢、サラ。彼女はなんと、フィアナが以前、公園で偶然鉢合わせたことのあるギルベール儀典長のお孫さんだという。
くわえて彼女は、フィアナとエリアスをモデルにした恋愛小説『氷の宰相と春のエンジェル』の大・大・大ファンであった。
「なんとなんとなんとー! まさか本物のエンジェルに会えるなんて!!」
きらっきらの幸せオーラを放ち、サラは何度目かになる感嘆の悲鳴を上げる。その向かいでは、一冊の本を手にフィアナがふるふると震えている。
本の題名は、まさしく『氷の宰相と春のエンジェル』だ。
「こ、これは……っ」
「今、王都で最も売れている恋愛小説ですわ、フィアナ様!!」
顔を青ざめさせるフィアナを置き去りに、サラはくるりと回って歌うように続ける。
「舞台は架空の国・レイズ。若き宰相エリオノールは、天才すぎるがゆえに孤独を抱え、その心は冷たく凍えていました。そんなある日、彼は偶然に町娘フィリアを暴漢から救います。それをきっかけに二人の交流が始まり、いつしか氷の心は甘美な春の息吹に誘われ……!」
「わぁあああぁぁ!! もういいです!! なんかもう、大体わかりましたから!!」
本を返し、フィアナは後ろに飛び退る。サラは残念そうに「ここからがいいところなのに……」と呟きつつ、愛おしげに本を胸に抱いた。
「『氷の宰相と春のエンジェル』は、いまや街一番のベストセラー。いえ。乙女の聖典、バイブルと言っても過言ではありませんわ。その原典であるリアルエンジェル、フィアナ様にお会いできるなんて、まさに天界の祝福ですわ!!!!」
「うっ、無理……。心がしんどい……」
限界を迎えたフィアナは、ぺちょんとローテーブルの上に倒れこむ。その隣で、お腹を抱えてひとしきり笑い転げていたキュリオが、ひーひーと肩で息をしながら涙をぬぐった。
「あー、楽しい。サラ様、そのあたりで勘弁してあげて。フィアナちゃん、そろそろ目を回して倒れちゃいそうだわ」
「ひどいわ、マダム。私が『氷の宰相と春のエンジェル』の大ファンだってこと、この間話したのに。フィアナ様とお友達なら、もっと早く紹介してくれてもいいじゃない」
「こうなることがわかっていたからですわ! 大丈夫、フィアナちゃん? ほら、お水飲みましょ。すっきりして、頭も冷えるわよ」
「う、うう……。すみません……」
もらった水を一口飲んで、フィアナはもう一度ローテーブルに潰れる。その肩をぽんぽんと叩いて、キュリオはサラの隣に座った。
「ね? いいとこのお嬢さんっていっても中身はこんな感じ。構える必要、全然ないでしょ」
「ちょっとー? どういう意味? 失礼じゃない、マダム?」
「ごめんなさいねえ。ちょうど、フィアナちゃんとそんな話をしていたものだから」
そういって、キュリオはサラに事情を話して聞かせた。近々、フィアナとエリアスが結婚すること。それに伴い、マナーの特訓を行うこと。フィアナが結婚後の人付き合いに、少々不安を抱えていること。
すると、既に頂点を迎えていると思われたサラのテンションは、ますます上がりに上がった。
「結婚!? フィアナ様と、ルーヴェルト宰相が!?」
「は、はい」
ものすごい勢いで詰め寄られ、フィアナは顔を引きつらせながら、なんとか頷く。その隙に彼女は指輪の存在に気づいたらしく、キュリオとは比べ物にならない黄色い悲鳴を盛大に上げた。
「きゃぁぁあぁぁあ! 氷の宰相閣下とエンジェルが! 結! 婚! 公式が強い! 公式の供給が全力でぶん殴ってくるわ……!」
「キュリオさん? この子も、結構個性的な部類に入るんじゃないですか? いいとこのお嬢さんって、みんながみんな、こういう感じじゃないですよね?」
「あはは。まあ、みんな色々よ。色々」
「大雑把!」
まったく。エリアスといい、サラといい、上流階級に普通の人はいないのだろうか。そのようにフィアナが怪しみだしたとき、サラが勢いよくフィアナの手を掴んだ。
「水臭いですわ、フィアナ様! そうと決まったら、私に力にならせてください!」
「うわぁい。すごく不安しかないけど、力と言いますと……?」
怯えつつ、フィアナは一応先を促す。反してサラは、人形のように整った顔いっぱいに笑顔を浮かべ、ぐいと身を乗り出してこう言った。
「人付き合いが不安なら、今からお友達を作ってしまえばいいのだわ! どうぞ、フィアナ様! 私の主催するお茶会に、お友達としてご参加くださいな!」
「そんなわけでして。サラさんのお宅に、お邪魔することになったんです」
「お友達として?」
「はい。お友達として」
こくりと頷き、フィアナは答える。そわそわと髪をもてあそびつつ、フィアナは反応を窺うようにちろりとエリアスを見た。
「せっかく声を掛けてもらったから、出てみたいと思うんです。マナー講座を実践するいい機会ですし、お友達も、出来たら心強いなって……。エリアスさん、どう思います?」
「いいんじゃないですか?」
即座にエリアスは微笑む。そして、ほんの少し迷いの残るフィアナを安心させるように、カウンター越しにフィアナの顔を覗き込んだ。
「そういうことでしたら、すぐに手配いたします。ダウスもかなり張り切っていますので、スケジュールを詰めてマナー講座を始めましょう」
「っ! 本当ですか!」
「もちろんっ。フィアナさんを全力でサポートするのが、私の務めですから」
にっこりと麗しい笑みを浮かべ、エリアスが大きく頷く。だが、ほっとしたフィアナが顔を綻ばせたその時、彼はちょっぴり拗ねたように唇を尖らせつつ「ところで」と小首を傾げた。
「儀典長のお孫さんが主催するわけですし、信頼したいとは思うのですが……。サラさん、お茶会のメンバーのことは何か言っていました? どんな方をお呼びすると?」
「え? 聞いてないです。サラさんのお友達、としか」
「ふーん。……フィアナさんと、同い年くらいの男の子もいるんですかね?」
「はい?」
突然、何を言い出すんだ、この人は。
目を丸くしてエリアスを見れば、エリアスはぶつぶつと続けた。
「ほら。最近の子は進んでいると言いますし。お茶会も、平気で男女混合でやったりするそうじゃないですか」
「いや、知りませんけど」
「主催が儀典長のお孫さんなのです。当然、呼ばれるゲストも同年代の方。つまりは、どこぞのご子息と、ハイパーミラクルキューティーフィアナさんが出会ってしまう可能性もあるわけでして……」
「いいじゃないですか、別に。何も始まらないんですから。……まさか私、信用されていないんです?」
「してますよ、信用! でも、そういう問題ではなく、胸がもにょもにょするんです!」
くわっと目を見開いたエリアスは、何やら頭を抱えて、言葉通りもにょもにょと身じろぎしだした。
「お茶会に参加するときのフィアナさん、絶対かわいいじゃないですか。いえ、フィアナさんはいつでも天上の女神のごとく可憐ですけど。でも、当日はおめかしするわけじゃないですか。ちょっぴりお化粧なんかもしたりして」
「そりゃ、しますよ。お呼ばれなんですし」
「それが悔しいんです! だって私、そのフィアナさん見れないんですよ!? それだけでも身がよじれる想いなのに、どこぞのガキんちょがフィアナさんに見惚れて、事もあろうか手でも出そうものなら……! ダメです。考えただけで、血反吐を吐きそうです」
「なるわけないじゃないですか、そんな事態。エリアスさんじゃないんだから」
口を押えて顔を青ざめさせるエリアスに、フィアナは呆れて腰に手を当てる。けれども、フィアナの冷静な突っ込むも空しく、エリアスは思い切ったようにカウンター越しに身を乗り出した。
「こうしましょう。そのお茶会、私も参加します。サラさんに、エリアス・ルーヴェルトも同席したがっていると伝えていただけませんか?」
「はい!? だめ。だめだめだめ! 大騒ぎになりますって!」
自分を前にしたときのサラを思い出し、フィアナは慌てて首を振る。もしも『エンジェル』に続いて『氷の宰相』までもが現れたら、彼女は歓喜を通り越して失神してしまうだろう。
だが、エリアスはしつこかった。
「なぜダメなのですか! サラさん、私たちのファンなのでしょう? ファンサービスとして、めいっぱいイチャイチャしましょう。それで、不届きなお邪魔虫どもも蹴散らしてやるのです!」
「だから! そんなお邪魔虫、心配しなくても出てきませんから!」
「出てきますよ、フィアナさんは最高ミラクル可愛い天使なんですから! あー、いてもたってもいられません。フィアナさんがサラさんにお願いしてくれないなら、私、裏から手を回しますよ? ギルベール儀典長にお願いしちゃいますよ?」
「仕事関係の人に迷惑かけるのはやめましょうね!? 大人げないなあ、ほんとにもう!」
どうにか断りたいフィアナと、絶対にあきらめないエリアス。二人の無益な押し問答は、そのあとも、エリアスの迎えの馬車が到着するまで続いたのであった。