さて、ダメージを乗り越えたフィアナが正気に戻った頃。新しい紅茶をフィアナのカップに注ぎながら、キュリオが感慨深そうに溜息をついた。

「フィアナちゃんが結婚ねえ。ついこの間まで、こーんな小っちゃかった気がするのに」

「ありませんよ、そんな時期。それじゃ私、手のひらサイズじゃないですか」

「気持ちの問題よ、気持ちの! まあ、エリアスちゃんがお相手だし、これからもたくさん会えそうな気がするけど。でも、フィアナちゃんにお酒やお料理を持ってきてもらうのも後少しだけだと思うと、ちょっぴり寂しくなるわね」

「ああ、いえ! グレダの酒場には、ちょくちょく顔を出すつもりです。だから、これからもお店で会えますよ」

「そうなの??」

 声を弾ませつつ、キュリオは不思議そうに首を傾げる。それに頷いてから、フィアナはそろりと指輪を撫でながらほほ笑んだ。

「エリアスさんが言ってくれたんです。色々と環境が変わるから、変わらないものも残したほうがいいって。両親にも話して、週2で働くことになりました」

〝どうか、私の妻として気を張らないでください。そう言いたいのはやまやまですが、言ったところで、どうしたった貴女は緊張してしまうでしょう〟

 フィアナの髪を撫でながら、エリアスはそう話した。

〝グレダの酒場で働いているときの貴女は、生き生きと輝いています。あそこで働く時間が貴女を元気にしてくれるなら、私は喜んで貴女を送り出しますよ〟

「まあ、まあまあまあ!」

 エリアスに言われたことをかいつまんで説明すると、キュリオは感嘆した。

「エリアスちゃんってば、いい男。ほんっと、フィアナちゃんのことをよく考えているのね。愛だわ。愛が深いわ~」

「というわけですので、これからもよろしくお願いします。ちなみに、結婚するまでの間も週4に減らします。エリアスさんのおうちで、マナーやら教養やら教わることになりまして」

「あら、大変そうね」

「私からお願いしたんです。エリアスさんは、気にしなくて大丈夫、って言ってくれたんですけど。エリアスさんのお嫁さんとして、最低限のラインは越えておきたくて」

「やあね。愛が深いのは旦那だけじゃないわ。熱々だわ、このバカップル」

「いかんせん、私はしがない町娘で、エリアスさんは宰相様ですから。たくさんの人に応援してもらおうが、その差は努力しないと埋められないわけです」

 あっけらかんと、フィアナは言う。そこに悲観の色はない。事実は事実として受け止め、前を向く。それが、フィアナの出した答えだ。

 やる気満々に両手を握りしめたフィアナに、キュリオも微笑みを返した。

「いいわね。好きよ、そういう思い切り。まあ、そんなに心配する必要ない気もするけど。フィアナちゃん、もともと行儀いいじゃない。言葉遣いも荒れてないし、客商売やってるおかげで聞き上手だし。対人マナーに関しちゃ、すぐにサマになると思うわ」

「いやいやいや、そんなわけないですって。蝶よ花よと育てられた深窓のご令嬢や、優雅で知的なマダムたちを相手にするんですよ? 付け焼刃の技じゃ、すぐに化けの皮がはがれてエリアスさんに恥かかせちゃいますよ」

「あのねえ。ご令嬢やマダムに夢見すぎ! 見てくれは優雅だけど、中身は私たちとそんな変わらないわよ。ていうか王様と会ったでしょ? 陛下ですら、あんな感じなのよ」

「シャルツ陛下は、ちょっと例外すぎません……?」

 気のいい警備兵風に店にひょっこりと顔を出す、型破りな王様の顔を思い浮かべ、フィアナは眉根を寄せた。ちなみにシャルツはつい先日――アリス・クウィニー嬢の騒動が終わったすぐ後にも、『ひょっこり』と店に遊びに来ていた。

 疑わしげな目を向けるフィアナに、キュリオも考え込んだ。

「まあ、あの方はちょっとはっちゃけすぎだけど……。あーん。アリス・クウィニーも例外中の例外だし。誰かいなかったかしら。こういう時、ちょうどいい例えになりそうな子!」

 ――そんな話をしていた最中、表のベルが鳴った。つられて壁の時計を見れば、時刻はちょうど昼の三時。何か思い当たる節があるのか、キュリオは慌てて立ち上がった。

「あらやだ、お客さんとの約束の時間だわ。ごめんね、フィアナちゃん。話の途中なのに」

「いえいえ、ごちそうさまでした。カップ、奥に持ってきましょうか?」

「いいのよ! 後で弟子に片付けてもらうから」

 またお店で。そう手を振って、キュリオは足早に部屋を出ていく。それを見送ってから、フィアナはさてと考えた。

 表から出れば、キュリオの客と鉢合わせてしまう。きっとキュリオは気にするなと笑うだろうが、仕事中の横を堂々と出ていくのは気が引ける。奥にいる弟子に声を掛けて、裏から出してもらおうか。そう思って、足を踏み出した時だった。

「エンジェルが来てるの!?!?」

 表から、悲鳴のような声がした。思わず足を止めたフィアナの耳に、止めようとするキュリオと、ぱたぱたと何者かの足音とが飛び込んできた。

 足音の主はまっすぐにフィアナのいる奥の休憩室にたどり着くと、少しの躊躇もなく思い切り扉を跳ね開けた。

「エンジェル!!!!」

「きゃあ!!」

 びっくりしたフィアナは、立ち上がったばかりのソファに転げ落ちた。

 部屋に飛び込んできた乱入者は、フィアナと同い年ほどの少女だった。くるんくるんの縦ロールの髪。色白の綺麗な肌。レースや刺繍がふんだんについた、贅沢な装い。絵にかいたような『お嬢様』を、フィアナは呆気にとられて見上げる。

 お嬢様もまた、嬉々としてフィアナを覗き込んだ。

「あ、あの! マダムに聞いたんですけど、あなたが『氷の宰相と春のエンジェル』のモデルの……?」

「あの、なにがなんですって??」

 とっさに、フィアナは真顔で答えた。今、彼女の口から、あまり深掘りしたくないワードが飛び出した気がする。だが、話を切り上げてしまいたいフィアナをよそに、彼女はきらきらと目を輝かせて追及した。

「ですから! あなたがルーヴェルト宰相の運命のお相手、スウィートエンジェル・フィアナ様なのですか!?」

「でた! 違うと言いたいけど、否定も出来ないこの感じ! そうですけど、何ですか!」

「きゃあああああ!!!!」

 突然の悲鳴に、フィアナはびくりと体を震わせる。頬に手を当て、いやいやをするようにお嬢様は身もだえをする。ひとしきりそうしてから、ハートを瞳に浮かべたまま、彼女はちょこんと膝を折った。

「申し遅れました。(わたくし)、サラ・ギルベールと申します。お会いできて幸せですわ! 春のエンジェル、フィアナ様!!」