〝答えは急ぎません〟
フィアナの手を取り、エリアスはそう微笑んだ。
〝ただ貴女には、どういうつもりで私がお付き合いをしているのか、きちんと知っていて欲しいのです。――迷いもあるでしょう。不安もあるでしょう。ひとつひとつ一緒に解決していきましょう。そのうえで心が決まったのなら、誓いの薔薇を指に咲かせてほしいのです〟
喜びと、戸惑いと。両方を瞳に浮かべるフィアナに優しく告げた、しばらくあと。
エリアスは後悔していた。盛大に、ひとり反省会を行っていた。
(あぁぁぁぁぁ……。私は何で、なんだってこう、最後のキメが弱いんですか……!)
すっかり静まり返った夜の居間で、エリアスは両手で顔を覆い、ソファに横になってゴロゴロと悶えていた。
もっとこう、あったはずだ。手を取って、強引に引き寄せて。自分のペースに持ちこめば、きっとあの人は頷いてくれただろう。戸惑いながらも、それぐらいの想いは寄せてくれているはずだから。
そうしなかったのは、彼のプライドであり、願望のためだ。
顔を隠していた手をほんの少しずらし、エリアスは憂いを込めて嘆息をした。
彼女はいわば、エリアスの聖域だ。宰相としての仮面を被り、自らを押し殺して生きていた彼が、自分に戻れる場所。人としての穏やかさ、温かさを取り戻させてくれる場所。天使であり、女神。その言葉に、少しの嘘偽りもない。
だからこそ。――だからこそ、だ。
(……フィアナさん。私は貴女に、ふさわしいパートナーでありたい)
彼女のあっけらかんとした優しさと、まっすぐな誠実さ。何度となく、それらに救われてきた。だからこそ自分も、愚直に、真摯に、彼女に向き合いたい。向き合ったうえで、彼女が自分の意志で答えを掴むまで見守りたい。
そういう関係こそが、エリアスの願うフィアナとの在り方の理想でもあるから。
けれども、そんな崇高な理想とは裏腹に。
(あぁぁぁぁぁあ! 私のバカ、バカ! このカッコつけ!)
理想は理想。現実とはかくも無慈悲である。エリアスはひしひしと打ちひしがれつつ、ソファの上で身をよじらせた。
何が愚直だ。何が真摯だ。おかげで答えが出るまでの間、こちらの胃はキリキリだ。期待と不安、緊張と切望がぐちゃぐちゃに乱れて、今にもディナーを吐き出してしまいそうだ。
(断られたらどうしましょう……。いえ、何度断られようが諦めるつもりはありませんが、フィアナさんに『ごめんなさい』と言われることを想像しただけで、ショックで心臓が止まってしまいそうです……っ)
うっかり想像をしてしまったエリアスは、年甲斐もなく半泣きになって胸を押さえた。
……いや。年の差なんて関係ない。大人の余裕を気取れる相手であれば、そもそもプロポーズなんかしていない。
なりふり構わず、貴女が欲しい。今にも叫びだしたくなる衝動が、熱い血潮となって体を駆け巡る。――それでもエリアスは己の矜持に従い、体を折り曲げぐっと堪えていた。
その、ちょうど同じ頃。
フィアナもまた、ベッドの上でひとり放心していた。ふわふわの髪を白いシーツにふわりと散らし、呆然と天井を眺めて過ごしていた。
(プロポーズ、されたんだ)
どこか他人事のように思ってから、すぐにフィアナは、ああ、これは自分のことだったなと首を振った。それくらい、『結婚』という単語にどこか現実味を欠いたような――自分にはまだ縁遠いような印象を抱いていた。
だからといって、まったくの驚天動地かというと、そういうわけでもない。
(ま、まあ、これまでも散々『嫁』発言飛び出してきてたし……?)
改めて振り返ったフィアナは、盛大に呆れつつ赤面した。嫁だのスウィートハニーだの、人目をはばからず好き好きアピールをしてきたエリアス相手に、今更何を驚くことがあろうか。
それだけじゃない。本気とも冗談ともつかないセリフのオンパレードに反して、フィアナに対するエリアスの向き合い方はいつだって真剣だった。そんな彼を信じたからこそフィアナも手を取ったわけで、いつかは交際以上の関係に進むのだろうとは思っていた。
しかし、今日か、と。まさかこんなに早く、というのが正直な感想だ。
(エリアスさんも、答えは急がないー、なんて言ってたけど)
よっと足で勢いをつけて、フィアナはベッドの上で起き上がる。そして、改めて胸元で煌めく指輪を掌にのせ、まじまじと観察をする。
「結婚するって、どんな感じなんだろ」
気づけば、そんな言葉が口をついて零れていた。
大好きな両親と離れて、グレダの酒場を出る。そんな日がくるのは、もっとずっと先だと思っていた。
おまけに相手は宰相閣下。その妻となった暁に、どんな生活が待っているのか想像もつかない。――もちろん、そういった不安も込みで、エリアスの手を取ったのだ。今更に覚悟が揺らぐことはない。とはいえ、いざ目前に迫るとやはり尻込みしてしまう。
両親とは滅多に会えなくなってしまうのだろうか? マルスやキュリオたちといった友人たちとは? まったく違う環境で、人付き合いは上手くできるのだろうか? 何より、エリアスの家族はフィアナを歓迎してくれるだろうか……。
ぱちん、とフィアナは頬を叩いた。一人で考えていてはダメだ。特に夜はいけない。悪い想像ばかりがぐるぐるとめぐって、抜け出せなくなってしまう。
するりとベッドを抜け出して、フィアナは窓辺に立った。きぃと窓を開ければ、ひやりとした夜風が頬を撫でる。うんと伸びをしてから、ほっと息を吐いて窓枠にもたれる。
そうやって夜の湖を見下ろしながら、エリアスは今何をしているだろうかと、そんなことを考えた。
もう寝てしまっただろうか。いいや、さすがに寝るにはまだ早い。では、お酒でも飲んでいるのだろうか。それならあり得る。エリアスはまだまだ飲めるはずだ。けれども、晩酌をするならフィアナを誘いそうだ。彼は誰かと酒を飲む、時間そのものを愛する人だから。
では、何を――。そこまで考えたところで、フィアナはふと笑ってしまった。こんなこと、考えるまでもないじゃないか。彼は今、同じ屋根の下。知りたいならば、会いに行けばいい。部屋を出て、階段を下りて、彼がいるだろう部屋を訪ねて。
こんなにすぐ近くにいるのに。
くすりと笑ってすぐ、フィアナは何かに気づいたように唇に手を当てた――。
(……寝ますか)
体を引き摺るようにして、エリアスは重い体を起こした。気分としては満身創痍、アレコレといらない想像を巡らせたおかげで、エリアスはすっかり意気消沈していた。
けれども、いつまでも重く淀んだ空気を背負っているわけにもいかない。なにせ、愛しいフィアナとのせっかくの初旅行なのだ。明日の朝までには、もと通りの自分にならなければ。そうでないと、彼女まで不安にさせてしまう。
といって、このままベッドに入ったところで碌に眠れそうもない。仮に眠れたとしても、とんでもない悪夢を見てしまいそうだ。
酒でも飲もう。ガツンとくる強い酒を、ロックでシンプルに。目覚めたときの気分はあまりよくないだろうが、夢うつつを彷徨いながら鬱々とした夜を過ごすよりはマシだ。
そう、エリアスが立ち上がりかけたときだった。
ばたんと勢いよく扉が開く。驚いて顔を上げれば、扉を跳ね開けた姿勢のまま、誰かを探すように首を巡らすフィアナが目に飛び込む。エリアスを瞳でとらえた途端、フィアナはぱっと笑顔になって駆けだした。
「エリアスさん!!」
「フィアナさん!? どうしたんですか? こんな夜更けに……うわっ!?」
とん、とフィアナが胸に飛び込んだ。思いもよらないフィアナの行動に、エリアスは受け止めきれずくらりとよろめく。そのまま彼は、フィアナに抱き着かれたままソファに倒れこんだ。
「ふぃ、フィアナさん、これは……、っ」
我に返ってフィアナを見たエリアスだったが、すぐに慌てて目を逸らした。自分の上にかぶさるようにして、フィアナが胸にしがみついている。このまま抱きしめたら、うっかり理性を飛ばしてしまいそうだ。
だが、そんなエリアスの動揺をよそに、フィアナは勢いよく顔を上げる。そして、エリアスの上にちょこんと座ったまま、胸に下げた指輪を手にぐいと前に身を乗り出した。
「私、決めました。この指輪を、私の指にはめてください!」
「はい!?」
仰天したエリアスは、照れも動揺も一切捨ててまじまじとフィアナを見た。
「いきなりどうしたんですか!? ああ、いえ、もちろん嬉しくはあるのですが……。一日やそこらで、答えが出る話でもないでしょう? 先ほども言いましたが、私は決して答えを急ぐつもりは……!」
「私も同じですよ、エリアスさん」
エリアスを遮るように、フィアナが被せる。はっとして改めて彼女を見れば、フィアナはいつもと変わらずまっすぐに――エリアスの大好きな、どこまでも真摯な瞳で彼を見つめ、夜空に輝く月のように凛と澄んだ笑みを浮かべていた。
「もっとエリアスさんを知りたい。もっと長く、エリアスさんと一緒にいたい。明日も明後日も、ずっとその先の未来まで、一緒にいたいと思うのは私も同じ。なのに、アレコレ悩んで尻込みしているなんてバカみたいじゃないですか」
「それは……」
「一緒に飛び込みましょう、エリアスさん」
ぎゅっとエリアスの服を掴み、フィアナは力強く頷いた。
「悩むのも考えるのも二人で一緒に。その一歩を、まずは踏み出させてください」
鈴の音のような声が、耳を打つ。その声に吸い寄せられるように、エリアスは気が付けば、体を起こしてフィアナを抱きしめていた。
本当に、この人は。吐息を漏らして、エリアスは強くフィアナを抱きしめる。ドキドキと高鳴る鼓動が自分と彼女どちらのものか、それすらもわからない。心の奥からあふれる熱に浮かされて、エリアスは縋るようにフィアナの顔を覗き込んだ。
「良いのですか?」
壊れものを扱うように、そろりと彼女の頬に触れる。自分はこんなに臆病者だっただろうか。頭の片隅でそんな風に自嘲しつつ、エリアスは掠れた声で囁いた。
「その指輪をはめれば、私たちは正式に婚約者となります。――そうなれば、もう、私は我慢をいたしませんよ」
エリアスの手に、フィアナの手が重なる。ゆっくりと目を閉じて呼吸を整えた彼女は、月明かりの差す薄闇の中、ほのかに頬を染めて微笑んだ。
「答えは決まっています。……喜んで、ですよ」
その言葉を最後に、エリアスとフィアナは自然と唇を重ねた。
二人分の想いを乗せて、静かに夜は更けていったのであった。