「脅迫……、拘束……? そんな、ウソですよね……?」
心底戸惑っているのだろう。青ざめた顔で、それでも縋るように微笑みながら、アリスは首を振る。だが、エリアスから返ってくるのは凍えた失望だった。
「これ以上、一分一秒でもあなたに時間を割くのは惜しいのですが。……往生際が悪く、残念です」
「っ!」
ゾッとするほどの冷気を漂わせた声に、アリスだけではなく、置いてけぼりで見守るしかないフィアナの背中にも、ヒヤリとするものが駆け抜ける。へにゃりとアリスが椅子に座り込む傍、エリアスは自身の鞄から書類の束を取り出すと、警備隊に拘束されてゾロゾロと入店するならず者たちを順に見やった。
「あなた方のこと、調べさせていただきました。カイン。リーズ。コルク。ドゥーロ。ケネス。シーク。……これが、あなた方の『メディック』でのコードネーム。そうですね?」
「な、なんだ? メディックって?」
「違法薬物を密売する、闇組織の名です」
ニースに応えて、エリアスが頷く。するとカインと呼ばれた男――リーダー格の男が、諦めたように肩を竦めた。
「近年、スラムを中心に違法薬物の被害が、警備隊に報告されていました。違法薬物のほとんどは、強い中毒性を引き起こし、服用した人を長きにわたって苦しめるもの。貧しい人々を狙った、許しがたい犯罪です」
「それをやってるのが、こいつらってことかい?」
「ええ。しかし、罰するべきはメディックだけではない。なぜなら、メディックは仲介にすぎません。彼らに違法薬物を融通し、販売させ、不当に利益を得ている者がいる。それこそ、真に裁かれるべき王国の膿です。……そうは思いませんか、アリス・クウィニーさん?」
名を呼ばれて、アリスはびくりと肩を震わせる。動揺のあまり、普段の演技力が飛んで行ってしまったのだろう。しきりに目を泳がせるアリスは、カインたちのことをちらちらと眺めてしまっている。これでは、自分から彼らに関係があると白状するようなものだ。
それでもアリスは、必死に首を振って否定をした。
「な、何を言ってらっしゃるの? 私、そんな人たちのこと知りません……っ!」
「いいえ。知っています。なぜなら、あなたはこの二週間に、三度もカインと接触している。一度はご自宅で。二度はスラムの一角で。これが、あなたを尾行させていた警備隊の記録です。ご覧になりますか?」
「尾行!? 尾行ですって!?」
「ええ。捜査の一環として、やむを得ず」
目を剥いて声を裏返らせるアリスに頷くエリアスには、少しも悪びれる様子がない。それどころか彼は、うっすらと悪魔のような笑みすら浮かべていた。
「あなたが底抜けにお馬鹿さんで助かりました」
淡々と、彼は続ける。
「父君――チャールズさん率いるクウィニー商会が、違法薬物をメディックに斡旋しているのではないか。警備隊は、随分前からそう睨んでいました。けれども、父君はああ見えて慎重な方で、なかなか尻尾を出してくれない。
けれども、あなたは違いました。クウィニー商会に疑惑の目が向いていることに微塵も気づかないあなたは、無邪気にメディックを呼び出し、接触してくれました。おかげで、どれほど容易に捜査が進んだことか……。いっそのこと、あなたには感謝の念すら浮かびます」
困惑しつつ、フィアナは必死に考える。
つまりこういうことだろうか。アリスの父は、違法薬物の流通に手を染めており、その実行犯がメディックの男たち。その伝手を利用して、アリスは彼らにグレダの酒場を襲わせ、嫌がらせをしていた。
一方で、エリアスと警備隊はアリスを自由に動き回らせることで、アリスとメディック――さらにはメディックとチャールズ・クウィニーの関係まで、暴いてみせたと。
「ひどい……」
俯いたアリスの声に、初めて怒りが混じる。事実、大きな瞳にありったけの敵意を乗せて、彼女はひとが変わったようにエリアスをなじった。
「ひどい、ひどいわ! 私を騙すだなんて、こんなこと!」
「ひどいのは、あなたです。私を手に入れる。そんな下らないことのために、私の愛するひとを、時間を、場所を、あなたは傷つけた。何があろうと、私の心がフィアナさんから動くことなどありえないと言うのに」
「嘘よ! エリアスさま、どうしてわかってくださらないの? あんな子より、私の方が絶対にエリアスさまにふさわしい! 私はただ、エリアスさまに振り向いてほしかった、それだけなのに!」
叫びながら、アリスがフィアナをまっすぐに指さす。その指は怒りのために小刻みに震え、瞳にははっきりと侮蔑と屈辱の色が滲んでいる。
それでも、フィアナはこれっぽっちもアリスを恐ろしいとは思わなかった。……向かいに、彼女よりもよほど恐ろしいオーラを纏った男がいたからだ。
「あんな子、と来ましたか」
呟いてから、エリアスは膝をかがめる。そして、まるで出来の悪い生徒に言い聞かせるように、アリスの顔を覗き込んだ。
「良い事を教えてあげましょう。今日、私があなたの誘いに乗った理由はふたつあります。一つ目は、あなたとメディックを同時に捕えるため。わざわざ私を誘ったということは、何かしらの仕込みをしていることは明白でした。そこを押さえたほうが、話が早いので」
そして、二つ目。言いながら、エリアスはいっそのこと憐れむように、切れ長の目をすっと細めた。
「……ねえ、アリスさん? ひとは、どういうときに油断すると思います? たとえば愛娘が、宰相とデートに出かけた夜。これで自分の身も安泰だと、うっかり気が抜けるとは思いませんか?」
一瞬、何を言われたのかわからなかったのだろう。アリスはぱちくりと瞬きをする。けれども、その目はみるみるうちに大きく見開かれていった。
「まさか……パパ……?」
「ご報告申し上げます!」
ちょうど、別の警備隊が店に飛び込んできた。彼は一瞬で荒い息を整えると、ぴしりと敬礼をしてエリアスに告げる。
「クウィニー邸の家宅調査、終了いたしました。薬物密輸の証拠を多数発見。クウィニーもその場で自供をし、警備隊の詰所へと連行済です」
「ご苦労様です」
ほっと息を吐いたエリアスとは対照的に、アリスは茫然自失の状態で動けずにいる。その隙に警備隊が、彼女の腕を拘束した。我に返ったとき、アリスは悲鳴を上げて身をよじった。
「やめて! 乱暴しないで! 私は関係ない。パパが誰と何していたかなんて、何にも知らないんだから!」
「今更知らんふりを決め込んでも無駄ですよ。証拠は集めたと言ったでしょう」
すげなく言って、アリスを連れて行くようにエリアスは警備隊に手で合図する。彼女が引きずられていく刹那、エリアスは刺すような視線をアリスに向けた。
「覚悟をしていてください。いずれ、このような茶番を演じなければならないと腹は括っていました。ですが、今日という日をその決行日に選んだこと。……これはもう、万死に値する罪ですよ」
エリアスのその言葉を最後に、アリスは連れていかれた。その後ろを、メディックの男たちもぞろぞろと続く。そうやって警備隊が撤収していく傍ら、いまだにグレダの酒場の面々は混乱の中にあった。
「つまり、あの連中は、アリスって子に雇われていたってことかい?」
「狙いはエリアスさんで? フィアナのことも妬んでいて?」
「親父さん、おばさん、落ち着いて。たぶん、そういうことで合っているから」
しきりに首を傾げるベクターとカーラを、なぜかひとりだけ落ち着いた様子のマルスが一生懸命宥めている。だが、その隣では同じく困惑状態にあるニースとキュリオが、次々にエリアスに詰め寄った。
「おいおい、あの嬢ちゃんを泳がせていたって、どういうことだ?」
「なんでそんなことできたのよ。待って、エリアスちゃん、記憶はどうなってんの!?」
「すみません、皆さん!」
がばりと、勢いよくエリアスが頭を下げる。先ほどまで見せていた容赦のない顔はどこかに吹き飛び、グレダの酒場を愛するひとりの常連として、ただただ真摯に彼は詫びた。
「色々と、説明すべきことがあります。皆さんには知る権利がある。とくにベクターさんとカーラさん。お二人には、私の側の事情にお嬢さんとお店を巻き込んでしまったこと、深くお詫びしなくてはなりません。……ですが」
言葉を区切って、エリアスは決意を込めた瞳でフィアナを見た。
あっ、と思ったときには遅かった。彼はさっとフィアナの手を引くと、軽々と抱き上げて宣言した。
「私には、どうしても譲れない優先順位があります。まずは彼女に、時間を使うことをお許しください。……行きましょう、フィアナさん。私の天使さま」
フィアナが抵抗する隙も、赤面する間もなかった。彼は皆にそれだけ言うと、フィアナを腕に抱いたまま、長い足で素早く夜の街へと歩みだしたのであった。