「――――こういうことを、しないためですよ」
そう言って、エリアスはフィアナを見下ろした。
麻袋の上に横たわるフィアナの細腕は、エリアスの大きな手により押さえつけられるように縫い止められている。そんな中、じっと見下す彼の瞳の中には、見たことのない光がゆらゆらと揺れている。
「…………え?」
間抜けな声を上げるフィアナに、エリアスが小さく呻いた。
「人がせっかく堪えているというのに……本当に貴女は無防備ですね。私はこういうことはしない、そう思っていましたか?」
掠れた声に混ざるのは、若干の非難の色。事実、彼は身を寄せ合うようにしてフィアナをより追い詰めると、咎めるような目で顔を覗き込み――それから首筋に顔を埋めた。
細い髪が肌をくすぐり、フィアナはびくりと体を硬直させる。そんな彼女に、啄むように3回、鎖骨から耳の下に掛けてエリアスが口付けを落とす。触れられた場所から今まで感じたことのない甘い熱が広がり、フィアナは悲鳴をあげそうになった。
「え、エリアスさん、待って……っ」
「待てると思いますか」
ぞくりと色気の籠る声で、エリアスが囁く。ダメ押しのようにフィアナの耳に口付けてから、エリアスはこつりと額を合わせた。
「――大人を煽った罰です。諦めて身を委ねてください」
どくんと鼓動が跳ねて、フィアナはぎゅっと目を瞑った。
すべてを彼に奪われる。そう思った。
そう、思ったのに。
「――………だあぁぁあああッッ!!」
ふいにエリアスが奇声を上げ、がばりと体を起こした。
「エリアスさん!?」
驚いたフィアナは目を丸くして起き上がる。だが、そんな彼女にぽいと毛布を放りつけると、エリアスは素早く部屋の隅に移動した。
「わかりましたか!? こういうことが起きてしまうから、離れているんです! わかったら、雨が止むまでそこで静かにしていてください。いいですね!?」
わあわあと叫ぶや否や、エリアスは完全に背を向けてしまう。その頑なな背中にかけるべき言葉が見当たらず、フィアナはしばし、困り果てて見つめることしかできなかった。
ややあって、フィアナはくるりと毛布を体に巻き付けなおした。それから、そろそろとエリアスに近づき、そっと背中に寄り添った。
振り向く代わりに、彼は嘆息交じりに答えた。
「近づいてはいけませんと言いましたよね。私、致しますよ。本気ですよ」
「たった今、踏みとどまってくれたじゃないですか。だから、エリアスさんを信じます」
「……まったく、貴女は。私がどれほど、血の涙を呑んで……」
「それに、」
恨みがましい声音を遮り、フィアナはエリアスの背中におでこを預ける。そうやって、緊張で飛び出てしまいそうな胸の鼓動をなんとか宥め、精一杯フィアナはつづけた。
「私たち、付き合ってるんです。仮に先に進んでしまったとして……それって何か、間違っているんでしょうか」
エリアスが息を呑む気配があった。それから、しばしの沈黙。ややあって彼は腹の底の底からすべての空気を吐き出すような、深く重い溜息を吐いた。
「また、そういう! 貴女は悪魔ですか。これは試練ですか、そうですか?」
「あ、悪魔って。私、これでも真剣に……っ」
「キスですら抵抗があるくせに。なんだってまた、そんな強気なんですか」
「へ?」
脈絡のない言葉に、フィアナはきょとんと首を傾げる。するとエリアスは、どこか拗ねたように自身の膝を抱えた。
「お弁当を食べているとき。よそのカップルがキスしているのを見て、固まっていたでしょう」
「な、気づいていたんですか!?」
「気づくも何も、わかりやすすぎます。野イチゴみたいに、顔を真っ赤にしていましたよ」
そんな表情も、愛らしかったですが。ほんの少し悔しそうに、そうエリアスは付け足した。
そういうことだったのかと、フィアナは納得をした。
そういえばあの時、エリアスはなんともいえない笑みを浮かべていた。あれは、キスだけで動揺しまくる初心なフィアナを気遣って浮かべた表情だったのだ。だからこそ彼は雨宿りが始まってからはずっとよそよそしかったし、万が一にもフィアナを怯えさせてしまわないよう、必死で距離を保っていたのだ。
ネタばらしをしてしまったからだろう。エリアスは罰が悪そうに押し黙っている。その沈黙が気恥ずかしく、一方でむず痒いほど嬉しく、フィアナはぎゅっとエリアスのシャツの裾を握った。
「エリアスさんって……、私のこと大好きですよね」
「大好きですよ。いけませんか」
ふてくされたように返すエリアスがおかしくて、フィアナはくすくすと笑う。そして、改めてエリアスのお腹に手をまわし、ぎゅっと後ろから抱き着いた。
「私もです」
エリアスが僅かに、こちらを窺う気配があった。そんな彼が逃げてしまう前に、フィアナは照れ笑いを交えて告げた。
「確かに、キスも、それ以上のことも、考えるだけで目を回してしまいそうです。けど、さっき押し倒されてわかっちゃいました。私、エリアスさんにされて嫌なことってないです。――ううん。緊張するし、恥ずかしいけど、エリアスさんが触れてくれるのは、その、嬉しい、です」
だんだんと恥ずかしくなって、言葉は尻すぼみとなってしまう。それでも、なんとか最後まで伝え終えたそのとき、我慢の限界と言わんばかりにエリアスがくるりと振り返る。
そして、甘く狂おしく、フィアナの唇を塞いだ。
初めての口付けに、フィアナの全身に甘い痺れが走った。呼吸がうまくできず、酔いが回ったようにくらりと体がかしぐ。そんなフィアナを支えるように、エリアスが深く彼女を抱きしめる。そうやって、永遠に思える時が流れた。
「今日はこれで我慢します」
はっ、と吐息を漏らし、ようやく唇を離したエリアスはそのようにほほ笑む。一方のフィアナはくたりと体の力が抜けてしまい、彼の胸に身を預けるしかない。そんな彼女を愛おしげに見下ろして、エリアスはそっと額の髪を撫でた。
だが、ふいにエリアスはいつもの調子に戻ると、にこにこと続けた。
「私、フィアナさんの初めてを頂戴するときは、白いベッドに真っ赤な薔薇を敷き詰めてと心に決めているんです。もちろん、薔薇のお風呂も用意しますよ。ああ、でも、いきなり一緒に入るのは恥ずかしいですか? どういう順で段取りを組むか、非常に迷うところですね」
「……それ聞いて、どんな顔しろっていうんですか」
「ちなみに白いシーツ一式は新調済みです」
「仕事が早い!」
顔を真っ赤にして睨むフィアナに、エリアスがくつくつと笑いを漏らす。そして、ふんわりと包み込むように、改めてフィアナを抱きしめた。
「だから今は、貴女で暖を取らせてください」
「きゃっ……」
「――もっと早く、こうしていればよかった。貴女は本当に、あったかいです」
幸せそうなエリアスの声が、じんわりとフィアナの胸を温める。どうしようもなく甘い心地に浮かされて、フィアナはエリアスの胸に頬を摺り寄せた。
「エリアスさんも、すごくあったかいですよ」
「だとしたら、フィアナさんのおかげです」
フィアナに応えるように、エリアスの腕が強くなる。そうやって瞼を閉じると、フィアナの髪に顔を埋めた。
「貴女の愛が、私を温めてくれるんです」
そうやって体温を分け合い、どちらともなく微睡みに落ちてしばらく経った頃。
――いつの間にか晴れ上がった空には、綺麗な虹がくっきりと浮かんでいたのであった。