「これって……」

「私たちの(あかし)です」

 そのように答えるエリアスの瞳の中で、何かのカギがつけられた茶色のハリネズミのキーホルダーが揺れた。

「パーティの間も、持っていてくれたんですね」

「はい。いついかなる、どんな時であろうと、肌身離さず身に着けています」

 貴女と私を繋ぐ、証ですので。そういってエリアスは、アイスブルーの瞳に愛おしげにフィアナを映し、安心したように微笑んだ。

「こんなことを言ったら、貴女は笑うかもしれませんが……私はあの場所で、ずっと貴女のことばかりを考えていました。考えて、焦がれて。ほかの何も、頭に入らないほどに」

 いまこの瞬間、貴女は何をしているだろう。誰と話し、何を思い、どんな笑顔を浮かべているんだろう。

 その瞳に映るのが、自分であったならよかったのに。

「それは……一緒にいた方に、失礼なのでは?」

「失礼ですね。無礼千万です。けれども、性分なので仕方ありません」

 そのとき、キーホルダーを持つフィアナの手を、エリアスの()()()()()()()()

「えっ……?」

 気が付くと、フィアナは後ろからエリアスに抱きかかえられ、彼の膝の上にちょこんと乗せられていた。

「――やっと、捕まえました。私の黒うさぎさん」

幸せそうに、嬉しそうに。背後からすっぽりフィアナを抱き込みながら、エリアスがそのように声を弾ませる。零れ落ちたエリアスの長い髪が頬に触れたとき、ようやく事態を理解したフィアナは、声を裏返らせた。

「な、なんで!? 縄は!?」

「言い忘れました。私、簡単な縄抜けは嗜んでいます。一応、この国の要人ですので」

「は、はいぃぃぃぃ!?」

 あっけらかんと答えるエリアスに、フィアナは思わず悲鳴を上げる。そんな彼女を満足そうに眺めながら、エリアスは「しかし」と意地悪く目を細めた。

「なるほど、なるほど。フィアナさんが不機嫌でいらしたのは、私がアリス嬢の誘惑に陥落していたと思われたからでしたか」

「そ、そんな、ちがっ」

「違うんですか?」

 フィアナの耳に唇を寄せて、触れるか触れないかの絶妙な距離を保ったまま、エリアスが囁く。肌をかすめる熱い吐息に、フィアナの背中はぞくりと震えた。だからフィアナは、どうにか首を振るのが精いっぱいだった。

「ちがく、ないです」

「そう」

 執拗に問い詰めたわりに、エリアスの返答はあっさりとしている。拍子抜けをしたフィアナが油断をした途端、エリアスはフィアナの膝裏にひょいと腕を回して抱き上げると、今度はしっかりと顔を覗きこめるように横抱きにして座らせた。

「本当に、貴女は可愛いひとだ。――いますぐここで、食べてしまいたいくらい」

「ちょ、エリアスさん、タンマです! これ以上、これ以上は……!」

 フィアナに覆いかぶさるように、エリアスが身を乗り出す。パニックに陥ったフィアナは、真っ赤になって彼の胸板を押す。そうやって慌てる姿を、愉快気に眺めていたエリアスだったが、――ふと動きを止めると、真剣な顔でフィアナを見つめた。

「……フィアナさん。おそらく貴女が知る以上に、私は貴女を愛し、溺れています」

 先ほどまでの戯れ交じりの迫り方とは違う、静かな声音。つられてフィアナが視線を上げれば、静かな一対のアイスブルーの瞳が彼女を射抜いた。

「貴女が何度私の腕をすり抜けようが、関係がありません。どれほど貴女が逃げても、――仮に、私を拒絶したとしても。私はこの、貴女を求める心を終わらせることができない。身勝手で、自己中心的で。そんな利己的な愛を、貴女に抱いています」

「それはまた……重い愛ですね」

「はい、重々(おもおも)です。自分でも引いてしまいます」

 困ったように、――まるでフィアナを気遣うように、エリアスが眉を八の字にして苦笑する。そうして言葉とは裏腹に、まるで拒絶されるのを恐れるように、細い指で慎重にフィアナの頬を撫でた。

 けれどもその手は、覚悟を固めたように強く、フィアナの肩に置かれる。そうやってまっすぐにフィアナを見据えて、緊張の滲む声で彼はつづけた。

「それでも、もし。ほんの一欠けら。ほんの心の一部を、貴女が私に向けてくださるなら。――私といる時間を好ましいと、ほかの誰かに奪われたくないと、心の片隅で願ってくださるのなら」

 からかいも誤魔化しもない、本当の言葉。まっすぐな愛が、フィアナを射抜く。

「私が貴女を、全力で幸せにします。貴女が抱える不安や、この先にあるかもしれない困難を丸ごと吹き飛ばすくらい、貴女の笑顔を守るから。だから……だから私を信じて、」

 一緒に飛び込んでくれませんか。

 その言葉が耳を打った瞬間、フィアナはエリアスの腕に飛び込んでいた。

「あ、あの。フィアナさん??」

 先ほどまでと打って変わって、どぎまぎした様子でエリアスが問いかける。だか、それに答える代わりに、フィアナは彼の首に回す腕の力をぎゅっと強めた。

 ――ずっと。ずっと、ふたりの間にまたがる境界線に怯えていた。

 立場と言う線。住む世界という線。様々な線引きをしたうえ、事あるごとに自分で溝を掘り進め、その深さに尻込みして。それなのに、そんな溝をモノとはせず身ひとつで飛び越えてきれてくれるエリアスに、自分は同じようにはできないと後ろめたさを抱いたりして。

 けれども二人で一緒なら。エリアスが隣で、手を掴んでくれるなら。

 ちゅっと。フィアナはその柔らかな唇で、触れるだけのキスをエリアスの頬にお見舞いした。

 びっくりして頬を押さえ、固まるエリアス。そんな彼に、フィアナははにかんだ。

「エリアスさんを信じます。……絶対に、手を離さないでくださいね」

 エリアスの切れ長の目が、みるみるうちに見開かれていく。彼はかぁっと顔を赤らめると、両手で顔を覆って、ソファの背もたれにぽすんと倒れこんだ。

「そんな……、ああ……、信じられません。ここが天国……、御父よ、我を迎えたまえ……」

「安直に天に召されるの、やめません?」

 呆れた顔で、フィアナはエリアスを見下ろす。また、このまま墓だなんだと騒ぎだすのだろうか。そう思って眺めていると、予想に反し、エリアスはわずかに手をずらしてフィアナを見つめると、蕩けるように笑み崩れた。

「そうですね。貴女を残して死んでしまうのは、あまりに惜しいですから」

「っ、!」

 その言葉に、フィアナはどきりと息を呑む。そして、差し出された手を頬に重ねて、どこまでも幸せそうに微笑み、頷いた。


「いい心意気です、エリアスさん! ひとりにしたら、容赦しませんからね」