「ギルベール儀典長」

 部下を連れて歩いていたギルベール儀典長は、背後から呼び止められて足を止めた。何気なく振り返った彼は、そこにいた人物を見て内心「げっ」と嫌な顔をした。

「何か御用でしょうか、閣下」

 わずかに警戒しつつ答えれば、エリアス・ルーヴェルトはいつもの感情の読めない笑顔のまま、ひらりと手を振った。

「少々、ギルベール儀典長にお聞きしたいことがございまして。時間がありましたら、私の部屋に来ていただけますか」

「それは構いませんが……。目下のところ、急ぎの案件は抱えていないがはずですが」

「いいんです。たまには、儀典長とゆっくりお話しでもできればと思いまして」

 ――事情を知らない儀典室の文官Aは、二人の会話に震え上がった。

いや、最近はもっぱら宰相側が丸くなったおかげで、以前ほど二人の間にギスギスした空気は流れなくなった。しかし、大した用もないというのに、わざわざ儀典長を部屋に呼びつける宰相というのも、それはそれで薄気味悪い。というか、何か悪いことが起きる前触れのようで、考えるだけでぞわぞわする。

きっと、宰相執務室から戻ったあとの儀典長は荒れるだろうなと。心の中で涙を流しながら、文官Aは去る。一方でなんとなく、自分が呼ばれた理由を察している儀典長はというと、エリアスに招かれるまま彼が用意した紅茶に口をつける。

 途端、ふわりと香った甘い香りに、ギルベール儀典長は表情を緩めた。

「ほお。これは、なかなか……」

「お気に召しましたか! 王立公園の北門を出てすぐにある紅茶屋さんで買ったフレーバーティーです。ほかにも興味深い香りがありましたので、儀典長にもおすすめですよ」

「サヨウデスカ」

 いきなりぶち込んできたなと。可愛らしい紅茶缶を手に、にっこりとほほ笑んだエリアスに、思わずギルベール儀典長も半目になる。

 すると、エリアスは美しい顔に意地悪い笑みを浮かべて、くすりと笑った。

「そんなに身構えないでください。お互い、楽しい休暇を過ごした仲じゃないですか」

「その仰り方には、甚だ語弊がありますが……。いえ、まあ、いいのです」

 ため息を吐いて、ギルベール儀典長はカップを受け皿に戻す。そして、相変わらず読めない笑顔を浮かべるエリアスを呆れて見つめた。

「閣下こそ何を身構えておいでか存じませんが、心配せずとも、昨日のことは他言いたしませんよ。子供の告げ口じゃあるまいし」

 その一言に、エリアスはきょとんと瞬きをする。そして、ようやく素の顔を見せる気になったのか、きまり悪そうに苦笑した。

「いやはや、面目ありません。お気遣い痛み入ります」

「しかし、意外ですな。閣下のことですから、何かしら口止めする目算を立てたうえで、あんな宣言をなさったのかと思いましたが」

「そんな余裕ありませんでしたよ。出たとこ勝負です。ただ、知られる相手が貴方なら大丈夫かと、そういう打算はありました」

 ますます意外に思って、ギルベール儀典長はまじまじとエリアスを眺めた。

 エリアス・ルーヴェルト。ギルベールが知る宰相としての彼は、合理的であり、理詰めであり、嫌味なほど隙がない。少し前までの感情に絆されない仕事ぶりは、「この男に人の心はあるのか」と疑わせるほどだった。

 そんな彼がなりふり構わず、目の前の少女の心を繋ぎとめることを優先するとは。

(人は変われば変わるものだ)

 感慨深く頷いてから、ギルベールは逆だと気が付いた。
 あの少女への恋心が、『氷の宰相』とまで呼ばれた、この男を変えたのだ。

 小さく笑みを漏らしてから、「ほっ、ほっ、ほっ」と改めて儀典長が朗らかに笑った。

「しかし、良いお嬢さんでしたな。可愛らしく、おそらく頭の回転も速い。閣下があのようなネタばらしをされなかったら、まんまとお嬢さんの嘘を信じてしまうところでしたぞ」

「……フラれてしまいました。彼女には」

「むふぅ!?」

 突然の告白に、ちょうど紅茶を飲もうとしていた儀典長は、あわや吹き出しかけた。慌てるギルベールをよそに、エリアスは寂しそうに微笑む。

「私のことは好ましいと。けれども、自分とは住む世界が違う以上、踏み込んだ関係となるのは不安だと。そのような趣旨のことを、言われてしまいまして」

「それはまた、随分……」

「はい。生殺しな、ひどいフラれ方です」

 内容のわりに、エリアスは軽い調子で苦笑する。

 ――確かに、少女の不安も分かる。

 メイス国には、身分による明確な区分けはなく、仮にふたりが交際や結婚をしたとして裁く法律はない。だが法律の有無と、世間一般で受け入れられるかはまた別問題だ。

 上流階級の者と庶民の恋といえば聞こえはいいが、一般的な受け止め方としては、愛人や火遊びが関の山。仮に真剣な想いだったとしても、互いの価値観や環境の違いがネックとなって、最終的には上手く行かなくなってしまう、というイメージがある。

 あくまでイメージだ。けれども、そのイメージが、感情にブレーキをかける。

なんと声を掛けるべきかギルベール儀典長が迷っていると、エリアスは胸元を――まるで、胸ポケットに入れてある大切な何かに触れるように、そこを押さえた。

「けれども、希望ももらいました。今すぐに私の気持ちにこたえることはできずとも、これが最後ではない。私と彼女のこれからを繋ぐ、証を彼女は残してくれました」

 目元を赤く染め、愛おしげに目を細めるエリアスの表情は、ユリの花のように穢れがなく美しい。一瞬、その美しさに目を奪われてから、儀典長ははっと気づいた。

「それはますます、生殺しなのでは?」

「はい。吐血するかと思いました」

 笑顔でさらりと言ってのけるエリアスに、ギルベールは慄いた。

 そうか、ルーヴェルト宰相はドМだったのか。そんな風に遠い目をする儀典長に、エリアスは「いいんです」と続けた。

「彼女が私に、可能性を残してくれただけで十分です。そもそも私は、こっぴどくフラれたところで、彼女を諦めるつもりゼロでしたから」

「それはまた、なんとも」

 晴れやかに言ってのけるエリアスに、儀典長はもはや、どちらに同情すればいいのかわからなくなった。……まあ、少女もこの男を憎からず思っているのなら、これもひとつの幸せの形なのだろう。そう無理やり納得する。

「閣下は随分、愉快なお人になられましたな」

 呆れ半分、称賛半分でそんなことを言うと、エリアスは楽しそうに笑った。

「私はもともとこういう男ですよ。皆さんにお見せする機会がなかっただけで」





 しばらくして、ふたりのティーカップが空になったころ、ギルベールは宰相の執務室をお暇することにした。去り際、彼は気になっていたことをエリアスに聞いた。

「ところで、閣下はなぜ、私を部屋に招いたのですか?」

 昨日の口止めだと、最初は思った。仮に悪意ある者が昨日の一場面を見ていたら、「宰相がいたいけな街娘をかどわかし、愛人として囲っている」と噂を流し、信用を貶める材料にする可能性がある。ギルベールにそのつもりがないか、探りに来たのだと。

けれどもギルベールが「他言するつもりはない」と言った途端、彼は警戒を解いた。そのあとも彼は、ギルベールなら知られても問題はないと思った、と話した。仮に、そこまで自分を信用するなら、わざわざ部屋まで呼び出す必要はなかったはずだ。

 そう首を傾げるギルベールに、エリアスはおかしそうに笑った。

「初めに言った通りですよ。たまには貴方と、ゆっくりお話ししてみたかっただけです」

 驚いて瞬きするギルベールに「それでは」と会釈して、エリアスが戸を閉める。

 残されたギルベールはしばしぽかんと扉を眺めたあと、やれやれと肩を落として廊下を歩き始めた。

 見せる機会がなかっただけで。宰相はそう話したが、少なくとも「素の自分を見せて構わない」と思えるほどに肩の力を抜けたのだとしたら、それはもう大きな変化だ。

 常にぴりりとした緊張感を纏い、時に冷酷と思わせるほど、情に流されない男。それがエリアス・ルーヴェルトという男かと思っていたが、彼は彼なりに、若くして背負った『宰相』という重責に、自分を殺し奮闘していたのかもしれない。

 少し前のギルベールだったら、こんな風には思わなかったろう。しかし、ここ最近の宰相の変化、そして昨日公園で見せた、少女への執着を目の当たりにしてしまったあとなら。

(あのお嬢さんには、ぜひ頑張っていただきたいものですなあ)

 そのように若いふたりに想いを馳せつつ、ギルベールは仕事に戻ったのだった。