「ただいまー……っと」

 マルスと別れたあと、グレダの酒場に戻ったフィアナはそーっと慎重に扉を開けた。「フィアナさぁぁぁん!」と半泣きのエリアスがとびかかってくるか、うじうじといじけた彼の姿を目にすることになるか、どちらかだと思ったのである。

 だが。

「え? エリアスさん、寝ちゃったの?」

「お父さんとエールを飲みきったらね。よほど、うちの店のことを心配してくれてたんだろうね。よかった、よかったーなんて。繰り返しているうちに、このとおり」

「そっか……」

 テーブルの上で、腕枕をしてすやすや眠るエリアスを、フィアナは拍子抜けして見下ろす。……というか。

(エリアスさんって、結構寝顔かわいいんだよね)

 うっかりトキめいてしまったのを誤魔化すように、フィアナはこほんと咳払い。とはいえ、外見だけで言えば美しく気品のある彼が、子供のように無防備な寝顔をさらしている姿は、普段とのギャップも相まってついつい見惚れてしまうというものだ。

「お父さんは?」

「上に着替えにいったわよ。私も、二階にいって、空き部屋を軽く片付けてくるわね。もしかしたら、エリアスさんが泊まるかもしれないし」

「エリアスさん、泊まってくれないと思うよ」

「でもねえ。お疲れの中、帰すのもねえ」

 そんなことを言いながら、カーラはとんとんと階段を上って行った。

 残されたフィアナは、少し迷ってからエリアスの向かいに座り、頬杖を突いた。

(……へんなひと)

 瞼を縁取る長いまつげを観察しながら、フィアナは苦笑した。

 ある日突然に目の前に現れた、この国の宰相閣下。見目麗しくて、頭が良くて、仕事が出来て。およそ人がうらやむもののすべてを持っているのに、はじめて会ったときはボロボロで。そのくせ、「貴女が好きだ」などと言いだしてからは、すっかり元気になって。

 どうして私なんだろう。エリアスの向かいで、同じように腕枕をしつつ、フィアナはそんなことを思う。

 飛び抜けて容姿がいいかと問われれば、そんな自信はない。当たり前ながら、良家のお嬢さんでもない。ただただ、偶然、家の前で伸びていたから拾った。それ以上でもそれ以下でもないきっかけで始まった、不思議な関係。

(ほんとは、こんなことしている場合じゃないくらい、忙しいくせにさ)

 それでも。

 歴史に大きいも小さいもない。以前、彼はそのように言い切った。そんな彼だから、おそらくフィアナのことがなくたって、馴染みの店が危機に陥っていると知ったら今回と同じことをしたと思う。いや、彼は必ずしただろう。そういう人物だと、いまのフィアナは知っている。

 戸惑いはある。エリアスが自分を好きだと言ってくれるのは一時的な夢物語のようなもので、いつかこの夢から覚めて、現実に戻らなければならない日が来るのだと感じている。

 だとしても。困っている者に寄り添い、手を差し伸べる優しさを知ってしまったら。

(……カッコいいなって。そんな風に、思っちゃうじゃん)

 半分顔を腕のなかに埋めて、フィアナはじっとエリアスを見つめる。と思ったら、唐突に腕を伸ばすと、つん、とエリアスの頬をつついた。

「…………」
「…………」

 反応はない。

 むっ、とフィアナは唇を尖らせる。そして、つんつんつんつんつんと、頬や腕、見えているありとあらゆる場所を攻撃し始めた。

 途中から、エリアスの肩がふるふると震え始める。限界を迎えたのか、ぷはっと彼は笑い出した。

「ちょ、まっ、フィアナさん! タンマ、タンマでお願いします!」

「やっぱり起きてましたね! この狸寝入りめ!」

「ほ、ほんとに、待って……こ、こら、くすぐった、くすぐったいですって!」

 攻撃の手を緩めないフィアナに、エリアスは笑い転げる。

 ようやくフィアナが許してやったとき、彼は深く長く息を吐き出しつつ、ぽっと頬を染めた。

「またひとつ、私の弱点を知られてしまいました……。けど、フィアナさんに知られるのは心地よいと、喜んでしまうのは何故でしょう……?」

「知りませんし、知りたくありません」

「しかし、よく私が起きていると気づきましたね? はっ。これが、愛の力……!?」

「寝息してないんですもん、わかりますよ。寝てるフリ下手すぎですか。ていうか、目が覚めてたんなら普通に起きてくださいよ」

「途中まで本当に寝ていたんですよ。フィアナさんが出て行ってしまったのが寂しくてふて寝をしていたら、本当に眠ってしまいました」

「そんなことでふて寝しないでください。子供ですか」

「大人だってふて寝します。盛大にしてやりますとも」

 変なことで威張るエリアスに、フィアナは呆れた目を向ける。そんななか、腕に身を預けたまま、エリアスは蕩けるように甘く微笑んだ。

「けど、目が覚めたらフィアナさんがいました。だから今は、幸せです」

「っ!」

 息を呑んで、フィアナは顔をそらした。頬が、熱くほてる心地がした。

「……いちいち大袈裟です、エリアスさんは」

「本心ですから、仕方ありません」

 にこっとほほ笑んでから、エリアスは立ち上がる。そして盛大に伸びをした。

 ちょっぴり慌てて、フィアナはエリアスを見上げた。

「帰っちゃうんですか?」

「帰ります。ベクターさんとカーラさんに、ご挨拶だけしてきますね」

「この時間じゃ乗合馬車もいませんよ」

「歩いて帰りますよ。昨日もそうしましたし」

 では、と足を踏み出しかけたエリアス。その服の裾を、フィアナはとっさに掴んでいた。

「ま、待って……っ」

 立ち去りかけた体勢のまま振り返って首を傾げるエリアスと、緊張と期待を綯い交ぜに、それでもまっすぐに彼を見上げるフィアナ。普段とはほんの少し違う、そわそわと浮き立つような空気がふたりに流れる。

 一拍置いて、大真面目な顔でエリアスが言った。

「告白ですか? もちろんOKです」

「違いますし結論が早いです」

 エリアスとフィアナ、ふたりの視線が交差する。カラカラと喉が渇いて、声が枯れそうだ。

「ずっと、……ずっと、どうやったら感謝の気持ちを伝えられるか、たくさん考えてみました」

 ぎゅっと、服の袖を掴む指に、力がこもった。

 言葉で伝えるだけじゃ物足りない。モノを買って渡すだけは、何か違う気がする。

 エリアスがくれたのは、彼の時間と気持ちだから。

「こんなのがお礼になるのか……エリアスさんのしてくれたことに見合うのか、自分でも自信がありません。けどっ」

受け取って欲しいと、そう思ったから。

「私の1日、もらってくれませんか……っ!?」