「篠原さーーん! 待ってぇーーーー!!」
後ろからかかる声に、すばるは足を止めて振り返る。
煉瓦造りの校門から、左右も確認せず飛び出して細い道を渡り、こちらに走ってくる相手を待った。
この時間帯は下校をする生徒が多いので、それを知っている地元の人は、まずこの道を車で抜けようとは思わない。
道幅は軽自動車がぎりぎりすれ違えるほど。
その道のあちこちに傍若無人な高校生たちが散りばめられている。
おまけにそのことをご存知のマダムたちや、ご近所の住民までもがその先にある商店街に抜けようと行き来するので、この時間帯のこの道を車で通ろうとする挑戦者はなかなか現れない。
車よりよほど危険なのは自転車通学の在校生の方だ。
車か自転車にぶつかる心配よりも、蒼井が短いスカートを気にせず大股で走ってくることにすばるはハラハラとした。
「どうしたの蒼井さん」
追いついてきたクラスメイトに、すばるは愛想笑いをして返事を待つ。
さすがに運動部だけあって、蒼井は走って荒くなっていた息をさっさと通常運転に戻した。
「はぁあ!……篠原さん帰るの早くね?」
「……このあとバイトだから」
「マジか! 呼び止めてごめん……急いでるとこ悪いけど、今回もお願いしていいかな」
「あぁ、うん。千円ね」
「値上がりした!」
声を上げて楽しそうに笑う蒼井は、少し幼く見えてとてもかわいい。
すばるもつられてふと笑い返す。
無派閥、無所属で、目立たず地味に過ごしてきたすばるは、同じクラスのこの蒼井の存在は大変にありがたい。
蒼井はクラスどころか学年カーストの上位に入る。感情を素直に表に出し、かつ、すっきりとした性格をしている。男女問わず気さくに関わり、知り合いも多い。
これまで細々と商売をしていたすばるに、嬉々とした様子で話しかけてきたのは、学年が上がったばかりの4月初旬のことだった。
今はこの蒼井のおかげで販路はかなり拡大している。
値上がりして多少の客が減ろうが、充分に採算は合うとの見込みだ。
「今まではお試し価格だったってことで」
「稼ぐなぁ」
「不況なもんで」
「あーそれ……私も不況なんだよねぇ……?」
「7:3だからね」
「ううん、そこを6:4でお願いしますよぉ」
しののんと蒼井オリジナルのあだ名を口にしながら、横並びになり、すばるの肩に腕をかける。
ぐいぐい体重を乗せられて、すばるは少しよろけた。
「頼むよぅ……今月厳しいんだよぅ」
「蒼井さん、前にも言ったけど。それは私も一緒だからね」
ううんと悶えるような蒼井に、すばるは小さくため息を吐いた。
高校生のお財布事情はなんとなく理解している。蒼井ならお付き合いだけでもずいぶんと出費が多いだろう。
それでも、こちらも生活がかかっているので引くわけにはいかない。
「そこをなんとか! ね?! お願いします!!」
ぱちんと手のひらを打ち鳴らして、拝みだした蒼井は、可愛らしく上目遣いで、こちらをチラチラと伺っている。
そういうのは彼氏のために取っておけば良いのにと、すばるは苦笑いを浮かべた。
そういう性格なのか、これまでの積み重ねなのか、蒼井の声は大きく、周りによく響く。
そして、いちいちリアクションが大きい。
後ろめたいことは何もないが、目立ちたいわけでもない。
現に帰宅中の生徒だけではなく、通りすがりの人々も、蒼井の声に振り返り、なんなら立ち止まってこちらをじっと見ている人までいる。
落ち着いて欲しい気持ちを込めて、すばるはあえて静かに、ゆっくりと蒼井に話しかけた。
「私はね、蒼井さん。クソ眠たい授業に耐えて、嫌いな先生にも印象良くしようとかなり気を遣っています。コレのために、です。それ相応の対価を得る権利があると思うんだけど」
「そりゃ、もちろん! わかってるよ!!」
「だから、7:3で」
「前回の倍売るから! 6:4で!!」
「倍って……」
「大丈夫! イケるから! てか、いかす! 何なら先払いでもいいし!」
「あぁ……売れそうな人見つけた?」
「野球部だよ……赤点取ったらレギュラーから外されるとか、試合組んでもらえないとかって」
「そうなんだ?」
「一年生用のもあるでしょ?」
「あるけど……」
「おいさん姉さんにまかせなさーい!」
後輩に呼ばれる名で、蒼井はぐと拳を握り、すばるの肩を軽く押した。
実際にすばるの試験に関する予想の精度は高い。少々予想が外れようとも、応用が利くように簡潔に分かりやすくポイントが纏められてもいる。
こうやってお金に変えるため、割く時間もそこそこ必要だし、コピー防止の紙もそれなりの値段がする。
気苦労の分を上乗せで値上げしたいが、これ以上は、高校生のお小遣いでは難しいと判断しての価格設定だ。
蒼井に売る当てがあるのなら、のんでもいいかとざっくり計算した。
歩合が変わるのも仕方ないかと心中で舌打ちする。
「……用意しとく。明日までに教科と数の確認しといて」
「りょ! 6:4でね!」
「わかった……ほんと、今回だけだからね」
「……っし! もちろん! ありがと、しののん! マジ助かる!」
「すばる! 」
背後からした大きな声に、蒼井の方がびくりと肩を揺らした。
少し前から視線を感じていたが、蒼井を見ているものだと思っていたら、急にすばるの名を呼んでこちらに向かってくる。
その人物の駆け出しそうなスピードに、すばるは頭突きをくらうのではないかと、思わず両足を踏ん張って身構えた。
「すばる、なんだよ、こんなとこに居たのか!」
がっしりと両肩を掴まれて、いよいよかと覚悟して、ぎゅうと目をつぶる。同時に歯も食いしばった。
「……う……ん。えっと、その……元気そうで……良かった……」
急に勢いが衰えたと分かって、すばるは恐る恐る目を開けて、その人物を見上げた。
その人は無理に笑ったような表情を作ると、すすと後ろに下がり、そのままふあぁっと住宅の角を曲がって姿を消す。
「……わぁ。なに今の人……びっくりした……しののんにキスするのかと思った」
「いや、あれは完全にヘッドバットする気だったでしょ」
「いきなり路上でヘッドバットはないって」
「いやいや、いきなりキスもないってば」
「確かに!……知り合い?」
「……ぜんぜん知らない」
「……カッコいい人だったね」
「え……普通に怖くない?」
あの馴れ馴れしさと歳格好から、もしかしたら兄の知り合いだろうかと考えた。
すばるにはそれくらいしか思い当たるふしがないが、兄の友人関係には詳しくない。
バイト先のお客の中にいただろうかと記憶を探っても、そもそもすばるはお客の顔は覚える気がないので、思い返すのは無駄だとすぐにあきらめた。
いきなり肩を掴んで頭突きをかまそうとした人のどこが格好良く見えたのか、その辺を蒼井に是非とも問い詰めたいところだったが、あいにくアルバイトの時間が迫っていたことを思い出す。
適当に話を濁して、すばるは蒼井と別れて、いそいそとバイトに向かった。
すばるは土曜日を完全休業日と決めている。
学校のある平日は週三日でパン屋でのアルバイト、日曜日は一日中ファミリーレストランの厨房に入っている。
アルバイトの終わりに、その日で廃棄になるパンをしこたまもらって、土曜日に食べる。
日曜への英気を養う大事な栄養源だ。
普段はしみったれた節約料理しか食べないので、この廃棄のパンと、ファミレスの賄いで高カロリーを摂取しなくてはいけない。
薄く曇ってはいるが、雨の心配のない空の下。
暑くもなく寒くもない、土曜日の午後。
昼前までしっかり寝て、朝食兼昼食に出かける。
パンと牛乳の紙パックが入ったビニール袋をぶら下げて、近所の川沿いの遊歩道を歩いていた。
河川敷にはいくつかグラウンドが作られている。
そのグラウンドが見下ろせるように、少し離れた場所に、コンクリート製の階段のような見学席がある。
すばるはそこに腰を下ろすと、1リットルの紙パックを袋から取り出し、パンを食べたい順に並べていった。
この少し高い場所から、少年野球やサッカーを見ながら、パンを食べるのがお気に入りだ。
ルールは詳しく知らないが、元気な声を上げながら、小学生が右往左往している様を見下ろすのが気持ちが良い。
本日はサッカーで、すばるは少しだけ得した気分になる。
サッカーの方が勝ち負けが分かりやすいから楽しいし、何よりチームの中に女の子が混ざっているのが好ましい。
今まさにボールをキープして走っている子の後ろ頭で、ポニーテールの髪がぴょんぴょん跳ねている。
すばるは心の中で女の子に声援を贈りながら、高カロリーの代表格、クリームチーズデニッシュを口の中に入れた。