新しい年が始まってひと月が経った。



その日、ベランダに置いてある椅子や卓には分厚く霜が降り、真っ白な天鵞絨を敷いたようだった。
朝日に照らされてきらきらと細かな光を跳ね返している。

空には雲が無く、天辺は水色。
地上に近くなる程、白を溶かしてぼやりと町を霞ませている。

湿り気のない空気はとても軽そうで、肌が切れそうなほど空気は鋭いのに、とてもよく晴れていた。

その日は本当に、とてもよく、晴れていた。





すばるが帰宅したのは朝方。

いつ現れるかタイミングの掴めない標的を、ただひたすら待って仕留める、という長時間の集中と、根気のいる仕事だった。

体は疲れてどうしようもないはずなのに、いつまでも気持ちが昂って寝付けない。
夜が明けるまで布団の中でうだうだし、明るくなってから寒さに我慢できず、こたつの中でもうだうだし、そのうちもう寝るのはあきらめることにして、熱いシャワーをがっつり浴びた。


キッチンに行って朝食の準備を始める。

冷蔵庫の中身を確かめて、和食でいこうと先ずお米を研いだ。

お味噌汁の具材を鍋に入れたところで、清水が起きてキッチンにやってきた。

「おはようございます」
「……んもー、すばるさん寝てなよ。おはようございます」
「なんかこう……目が冴えちゃって。ご飯食べたら眠くなるかなって」
「んまぁ、わかるけど」

起き抜けで加減がおかしい清水にむぎゅむぎゅ抱き付かれる。ほかほかで暖かいなと思っていると、清水から低い唸り声が漏れてくる。

「体が冷たいよ…………お腹空いてる?」
「めちゃくちゃ空いてますね」
「昨日ちゃんと食べたの?」
「あー…………お昼は」

またひとつ唸って、それ以上清水は何も言わなかった。

長時間に渡って集中力を保たせる為には、食事が邪魔だということはよく分かっている。
無理はして欲しくないけど、それをしなければ帰ってこられない、ということも重々承知している。

「この鮭は俺が焼きます」
「お願いします」
「お任せ下さい……卵焼きをお願いできますでしょうか」
「その予定でございます」
「中にソーセージ入れて巻いて下さい」
「は。かしこまりです」

清水は鮭の入ったトレイを持つ前に、すばるの頬を両手で挟んで自分の方に向けさせ、音だけが派手なキスをする。

その途中からすばるは吹き出して笑い始めた。

いつもなら怒りそうなものを、へらへら笑っている辺り、相当疲れているなと、清水もへにゃりと笑う。


朝食はこれまでそうしてきたように、みんなで揃って食べた。


この日は清水が朝から出かける予定なので、すばるは玄関まで見送りに出る。

靴を履いた清水は振り返ると少し両腕を広げた。

「さ、いつものやつお願いします」
「はい?」
「いってらっしゃいのちゅう!」
「……してましたっけ?」
「あ! 間違えた、いってきますのちゅうだ!」
「いや、それもないですって!」

がばりとすばるに抱きつくと、頬を擦り寄せて鼻先をくっ付ける。

「してもいいですか?」
「ぅ…………まぁ、ここまでくっ付いてイヤって言うのもなんかアレですし」
「なんかアレって……ふは」

軽く音を立てると清水はすぐにすばるを解放した。

「これ以上だと離れられなくなるからここら辺で」
「……それは助かりました」
「……帰る前に電話するね」
「はい、いってらっしゃい」
「いってきます。ちゃんと寝てね?」
「わかりました」

清水を見送って、さぁ寝ようと思っても、やっぱりなんだか神経がひりひりとする。
何かに逆撫られたような気がして、ひとつも眠気が訪れない。

どうしようか考えて、いつもは後回しにしそうな冷蔵庫の整頓を始める。

食材を冷凍保存してみたり、冷蔵庫の掃除をしてみたり、そんなことをしているうちにハウスキーパーさんがやって来たので、掃除の手伝いもする。

風呂掃除に夢中になっていると、莉乃が呼んでいる声が聞こえる。

声がしたのはダイニングの方、すばるがそちらに向かうと、美味しそうな匂いが辺りに漂っていた。

「すばるさん、出前がきたよ」
「出前?!」
「うん、中華。どれが良い?」
「すみません、お昼過ぎてたの気付かなくて」
「もう、良いんだよぅ……お掃除がんばってくれてたんでしょ!」
「ふふ! やったー、中華!どれにしよう!」
「すばるさんとカヨさんが先に選んでいいからね」
「わぁ……まようー。カヨさんどれにします?」

ハウスキーパーのカヨさんと、きゃっきゃとはしゃぎながら、すばるは海鮮塩焼きそばを選択した。

結局シェアしながら全種類を腹の中に収める。

「すばるさん、ハイテンションだけど、目の下すごいことになってるねぇ」
「一緒に昼寝しようぜ〜」

英里紗に誘われても、すばるはひとつも眠れる気がしない。

「……なんか、いつの間にか私、ヤバい薬物でも摂取したんですかね」
「セルフで脳内物質どばどば出てるんだねぇ、楽しそう!」
「お手軽だな! 安上がりでいいじゃん!」
「……あ、カヨさん冗談だからね? すばるさん徹夜で変なテンションなだけだよ?」

その後も掃除を続けたり、洗濯したり、もうこの際いつも寝る時間まで起きていることに決めたのが、日暮れの頃。

今まで完全なる徹夜をしたことがないすばるは、昨日から途切れることなく連続している記憶で、二、三日経過しているような、変な時間の感覚に襲われていた。


もうそろそろ清水が帰る時間だなと、時計を見上げて確認する。

今回の仕事は身辺警護だと言っていたので、依頼主を予定通りの場所まで送り届けたら終了。そこから直接帰ると聞いていた。

そろそろ終わったと連絡がありそうだなと、ポケットに入れたスマホをちらりと見て元に戻す。

すぐにぶると振動して、画面を見てみると表示されているのは『ハイジさん』だった。

「お疲れ様です、ハイジさん」
「……すばる、このあとすぐデータ送るから、今からすぐその場所に来い」
「な……んですか? お仕事ですか?」
「清水のGPSの位置情報だ」
「はい?」
「連絡が途切れた。すぐ来い、お前が探した方が早い」
「ハイジさん?」
「俺も今から向かう。すぐ来い、いいな」

返事も聞かずに通話は切れて、すぐにまたぶるりと振動する。

位置情報が送られて来て、それはそんなに遠くない場所だった。
すぐ近くを流れる川の上流の方、マンションから歩いて15分ほどの位置だった。

慌ててコートを着てマフラーをぐるぐる巻きにして、莉乃にはハイジに言われたことをそのまま伝えた。

「慌てないで、冷静にね。なにか分かったら連絡して」
「はい!」
「気を付けて」
「いってきます!」



マンションを飛び出して、まず空を見上げた。

もうほぼ日が暮れていることに驚いて、自然に目がそちらを向く。

夕暮れの赤色ではなく、紫と藍が混ざり合った空には、白く小さな粒々が瞬いていた。

胸の中が痛くなるほど冷たい空気を一気に吸い込んた。



それをぐと腹の底に溜めて、すばるは走り出す。