日課の午前中修行に、屋上にやって来たのはいいものの、いつまでたっても清水から本日のメニューの発表がない。

いつもなら軽く準備運動した後は、さあさあと楽しい修行が始まる。

清水は屋上の縁に立ち、腰に手を置き、映画に出てくるヒーローもかくやの様子で町を見下ろしていた。
哀愁を孕んだ目をして、心を遠くへ飛ばしている。

何かあるのだろうかとすばるもそちらの方を見てみる。
午前特有の、湿り気のある乳白色の空気が下側に、からっと晴れわたった水色が頭上高くにあって、それはいつもの『良い天気の朝』と変わりない。

髪が少し揺れる程度の、少し冷んやりした微風が心地良い。

「…………清水さん?」
「うん」
「とりあえず……ボール磨きとか、素振りから始めたらいいですか?」
「何の部活なの?」

ふふと笑った清水は、やっとすばるの方に顔を向けた。

穏やかな笑顔を見て、少し前のお説教の言葉がキツかったのかなと、すばるはその内容を思い返した。
思い当たるフシに、少し心が痛む。

「すばるさん……修行に出てきたけど、ちょっとその前にいいかな」
「…………はい」
「どうぞお座り下さい」
「…………はい」

屋上の滑り止めが効いた、ざらざらした床面に靴を履いたまま一旦正座をした清水は、あんまりの座りにくさから足を崩してあぐらに切り替えた。

すばるも向かい合って正座をしたが、ハーフパンツで正座はキツいので、すぐに膝を抱えて座り直す。

座りにくい、痛い、と同じような言葉を同じタイミングでこぼして、ふたりは顔を見合わせて小さく笑った。

「すばるさん……んー。俺、ゆうべ色々考えて。……考えたんだけど、どんなふうに言えば、すばるさんにきちんと伝わるか、結局これだって答えは見つからなかった」
「…………はい」
「だからもう、ごちゃごちゃ言わずに聞いていい?」
「何でしょうか」
「すばるさんは、覚悟はあるの?」
「……はい?」
「俺や……ハイジのように、人を殺せるの?」

すばるは真っ直ぐ清水の目を見たまま、震えたように細かく瞬きを繰り返した。
しばらくして思い出したようにすうと息を吸い込む。

すばるも考えなかった訳ではない。

初めて本物の銃弾をこの目で見たとき。

モデルガンを撃ったとき。

本物のライフルを持たせてもらったとき。

これは、人を殺す道具なのだと。
そしていつか、自分は誰かを殺すのかもしれないと。

「……誰かを、殺す……覚悟」
「…………うん」
「出来るか出来ないかで言われたら……多分、出来ます…………うー……えっと、引き金を引いて、弾を当てることは、出来ます」
「…………うん」
「それで、その結果に、人が死んでしまうことも、分かります」
「…………うん」
「覚悟……ってなんでしょう…………覚悟が無いと、やるべきではないんでしょうか」
「…………ごめん、確かに。覚悟って言い方が曖昧過ぎるよね」
「たっつんさんが、私がこの仕事に向いてるって言った意味も、倫理観が無いって言った意味も…………最初は何言ってんだろうと思ってましたけど」
「うん」
「何となく分かったんですよね、こう言うことかって」
「……どんなこと?」
「私、初めてライフルの弾を見た時『キレイだな』と思いました。初めてライフルを触った時も同じです……人を殺す道具だって分かってるのに」
「うん」
「嫌なものだとか、ダメなものだとか、少しも思わなかった」
「……そっか」
「人を殺すのはいけないことだって、分かってるし、してはいけないって知っているのに」
「うん」
「人に向けて撃ったこともないし、誰かを殺すこととか考えても、その時、私がどうにかなっちゃうのかとかも何も、想像すら付きませんでした」
「……うん」
「……でも、やってみて『やっぱりダメでした』って言うもの、なんか違うのかなとも考えました」
「そう?」
「私、ハイジさんにライフルを渡されて、持ってみて、構えた時に……よしって」
「よし?」
「はい……よしって」
「…………そういうの、たぶん、覚悟って言うんだよ」
「ああ、こういうの……か」
「すばるさんが色々考えたのは分かった」
「ああ、まぁ、そうですね、色々」
「で、多分、これから何度だって、想像もしてなかったことが起きると思う」
「そうですよね」
「それを忘れないで。そこで竦んだり、立ち止まったり、考えられなくなっちゃったら。その時はすばるさんの方が死んじゃうって、覚えておいて」
「…………はい」
「始めても、やめたくなったら、やめていいっていうのも」
「……そうなんですか?」
「そうなんです。……無理してやることないんだよ」
「逃げ道作るみたいでアレなんですけど」
「……逃げたらいいの。すばるさんは逃げられるの……俺が居る……ひとりで何でもかんでもしようとし過ぎ」
「ええ? だって……」
「ちょっと待って、俺の評価低くない?」
「じゃなくて」
「じゃなくて?」
「……今まで」
「もう今までと違うよ? いい加減気が付いて」
「だって、ひとりで」
「だからもう、ひとりじゃないってば」
「何でもしなきゃって」
「もう違うよ。言ったでしょ? ずっとそばに居るって。それって、俺が力になるよってことだよ」
「……だって」

ああもう、と清水はぐいぐい近寄って、そのまま正面から抱きしめる。

「なんでこんなに近くに居るのに、存在感薄いかな」
「……じゃなくて」
「……頼りがいが無い?」
「……じゃなくて」
「……信用できない?」
「……じゃなくて」
「……俺のこと嫌いなの?」
「……じゃなくて」
「ふふーん……じゃあ好き?」
「ぅ…………えっと……」
「うん?」
「誰かに……寄りかかるのは、ちょっと」
「それってやっぱり、俺が頼りないってことじゃない?」
「……負担になるのが」
「すばるさん、よくそれ言うけど」
「え?」
「お世話になるのは、とか、迷惑になるから、とか」
「……だって」
「面倒だと思ったらこんなことになって無いって……嫌なら最初から相手しないよ。逆はどう?」
「ぎゃく?」
「すばるさんは迷惑だって思いながら俺の相手してんの?」
「いいえ?!」
「ここに居ること、面倒だなって?」
「そんなこと無いです!」
「嫌だなって?」
「思ってません!」
「俺も、全然思ってないよ?」
「……でも」
「なに、でもって。でもなんて無いよ」

すばるを抱えたまま、ごろりと床に転がって、清水は高いところの青を見る。
その上にきれいに乗って居るすばるは、胸に耳を当てて、清水と自分の心臓の音を聞いていた。

「すばるさんが寄り掛かって、もし俺が倒れちゃっても大丈夫。俺が下敷きになるし。でもすぐに……よっと」

がばっと起き上がって、ふたりはもとの体勢に戻った。

「起き上がれるくらいの力は持ってるつもりだし」
「……清水さん」
「ん? なに、惚れた?」
「清水さんはすごいですね」
「あら……期待してた答えと違う……褒められて嬉しいけど」
「私は……誰かにここまで優しくできません」
「すばるさんにだけだよ」
「私……」
「すばるさんだからだよ」
「清水さん」
「なぁに? 惚れた?」
「……それさっき聞かれました」
「あ! すばるさんは『はぐらかす』を、覚えた」

にやり、と笑うと、同じように清水もにやりと口の端を持ち上げる。

頬をすり寄せ、鼻先をくっ付ける。

そのまま口付けられても、恥ずかしさばかりが込み上げてくるだけで、抵抗はひとつもなかった。



その後は軽く準備運動をして、清水先生のもと、すばるは『はぐらかす』と、近接格闘の初歩の初歩を覚えた。



午後はハイジの元へ行き、宣言通りに実弾での射撃をする。

結果は芳しくなかったが、最初はこんなもんだとハイジは大して気に留めていない。
日が暮れる前に町へ出て、離れた場所にいる人を見る練習もした。

ライフルに取り付けるスコープだけを持ち出して、それを使って何十メートルも先に居る誰かを見つける練習をした。
拡大やピントを合わせるのに手間取りつつ、暗くなっても夢中になっているすばるに、ハイジは根気よく付き合った。

練習しろと新品のスコープをもらって、すばるはうきうきと心が弾むようだった。
楽しいおもちゃをもらったようだと思いながら、ここでも自分の倫理観の薄さに苦く笑う。



ハイジの仕事にも付いて行った。

観測して、距離やあらゆる状況を判断する練習を繰り返した。
狙撃した後の撤収経路も、事前に綿密に打ち合わせる。

基本はふたりから三人のチームでの作業なのだと、教えられてもぴんとこなかったが、やってみて初めて感じ入る。

ひとりで黙々と、淡々と仕事を片付けるというよりは、頻繁に言葉や情報をやり取りをしなくてはいけないと理解した。

ハイジに付いて回って何度もアシストをこなすうち、すばるはハイジが失敗した時のためのフォロー要員だったり、護衛の役であったりのサポートを全面的に任されることになった。




季節は移り変わり、あっという間に半年が過ぎる。


すばるがこの世界に足を踏み込んだのが初夏の頃、いつの間にか秋は早足で通り過ぎ、冬が居座っていた。