『こんわけ』というのがある。

内容と順序をきちんと守らなければならない。

適当で何となく、では『こんわけ』は成功しない。

何かの偶然が重なった拍子にうっかり成功してしまった、では取り返しがつかないからだ。


重要なのは、一度ではダメだということ。


念のための二度目と、これでもかの三度目。

三度同じ手順を踏んで、やっと『こんわけ』を終了したことになる。
そのたった三度きりを繰り返すのが面倒ならばその程度。それすら苦もなく出来ないようならお話にもならない。
偶然が重なって成功しないためにも、残りの繰り返しが必要なのは、安全策としてもありがたい定めだ。


きちんと教わって理解して。

後になって気が付いた。

あの時おれは知らずの内に、偶然にも一度目を成功させていた。




さて。

それはまだおれが、トンビや鷹に狙われるのが常日頃な小さい頃の話だ。

おれを取り巻くこの世界とは一体なんなのか。

言葉の上っ面は知っていても、その意味も意義も少しも理解なんてしていなかった頃のこと。

あの頃のおれはと言えば、町を歩けば女の子に揉みくちゃにされ、子どもたちと出くわせば、しつこく追い回され、運悪く捕まれば力任せに撫でまわされた。
それほどおれは、ころころふわふわな愛らしい姿をしていた。

未熟者だったことも手伝って、幼いゆえの自信に満ち溢れ、敵など居ないのだと、その姿は堂々としたものだった。

単独で遠出も許されるようになり、何ごともなく家に帰ることだって、何度か成功もしていた。



その日も思いの外順調に遠出を済ませて、疲れてはいたが、しかし大変に気分が良かった。

というか恥を忍んで言えば、調子に乗っていた。

おれは鼻唄混じりの帰り道で、標的にする側から、される側へと見事に反転してしまう。

まんまと襲撃に遭って、結構な深手を負った。

ギリギリの状態でどうにか逃げ込んだのが、小高い山の上にある、ひと気のない小さな神社の境内だった。

自分の状況と状態から、本気で死を意識して、そこで初めてやっと、それこそ死ぬほど反省をした。

しばらく身を隠しながら傷を癒さなければならない。目立つ行動は控えて、なるべく温存して過ごそう。


そう考えていたおれの前に現れたのが、すばる。


しまったと思った時には、おれは女の子の膝の上に乗せられ、その小さな手はおれの血まみれの腹を押さえていた。

ぽろぽろと大きな目から涙が落ちて、おれのふわふわな背中の毛の上をころころと転げていった。

その女の子は声も出さずに静かに泣いている。

正直、驚いたったらない。

驚きすぎて動けないなんて、あってはならないというのに、咄嗟に逃げるという判断がつかなかった。

ちょっと……本当はかなり、だけど。
感動というか、なんというか。
おれのために泣いているのかと思うと、おれのしっぽが勝手にふらふらと揺れる。

しかしよく見てみると、その子は目を擦ったのか腫れているし、ほっぺも真っ赤になっている。
服から出ている腕や足には、あちこち引っ掻いたり擦ったような、細かい傷もある。
服は泥で汚れ、草の汁が染みて緑色の部分もあった。

自分のことばかりで気が付かなかったが、おれとはまた別の血の匂いもしている。
もちろんこの女の子から濃く匂っていた。

派手に転んだにしても、女の子が、山の中の、こんなひと気がない場所で、ひとりで?

そんなことあるだろうか。

大声で泣いて、泣きながら家に帰る。
普通はそういうものじゃないだろうか。


傷はものすごく痛かった。
本来ならこんな悠長に抱っこされている場合ではない、おれの方こそ泣きながら家に帰りたい。

この膝から下りて、人目のつかない場所で、少しでもじっとして回復するべきなんだ。


それなのにおれは、自分の傷のことも忘れて、その子にあいさつしてやった。

もちろん人の言葉は喋れないから、おれたち流のやり方で。

お互いの鼻の頭を擦り合わせる。
匂いをかいで、その子の今の気分を分析する。
涙も味見しておこう。

ほっぺを何度か舐めてやると、その子は少しだけ笑ったんだ。


なんだか腹の底の方がじんわり熱くなって、徐々に痛みが引いていく。


しょうがないな。
お前と一緒にいてやるよ。


その子はポケットからハンカチを取り出して広げると、細長くたたみ直して、自分の傷にではなく、おれの腹に当てた。
きつくない程度に巻き付けていく。

その子は手のひらをおれの血で濡らしていたが、よく見れば大きな擦り傷ができていた。
この子の血の匂いはここからしていたのだと合点がいく。
傷口には砂粒や小石がはさまって、見るからに痛そうなのに、おれの手当てをしようとする。

いや、おれの方が明らかに重傷ではあるんだけども。

手当てをされるべきは、もちろん、おれの方なんだけども。

それなら、おれがこの子の手当てをしてやろう。
手のひらの砂や小石を舐め取ってやると、くすぐったいと体を捻って、楽しそうに笑う。

その様を見ていると、おれも一緒に楽しくなってくる。



おれは優しく優しく、背中を撫でられた。
暖かくて、気持ち良くて、眠ってしまいそうになる。



そのままどれくらい時間が経ったのか、周りの影の色が濃く長く伸び、少し風が冷たくなったと感じた時、神社の石段を登ってくる人の足音が聞こえた。

小さな軽い足音……子どもかと、おれは緊張を解いた。
ぴんと立った耳が、へにょりと後ろへ回る。

「すばる、いるか?」

聞こえてきた声に、その子ははっと顔を上げた。

辺りを見回して、何かを探しているようだ。

おれには分かる。
これはどこかに逃げて隠れたい時の目の動き。

それならおれに付いて来いよ。
おれがお前を逃してやるから。

「あ、待って……」

膝から下りたおれを呼び止める声が、石畳に跳ね返る。
それがやって来た子どもの耳にも届いたのだろう、足音がこっちに向かってくる。

おれは子どもひとりが隠れられそうな近くの茂みまで走って行ったけど、その子は付いて来なかった。

寂しそうな顔でこちらを見たまま動かない。

何してるんだ、早く来いよ。

「やっとみつけた! 帰るぞ、すばる」
「かずくん……」
「すばる、またこんなにケガして……帰ったらばんそうこうはってやるから、ほら、これ」

かずくんと呼ばれた男の子はお兄ちゃんなのか、その子より少しだけ体が大きい。

片手に持った赤いランドセルをその子に背負わせると、ケガをしていない方の手を握って、石段の方にぐいぐい引っ張っていく。

黒い鞄と赤い鞄が小さな社を回って消えるのを、石段を踏むふたり分の足音が小さく遠のいていくのを、おれは茂みの中から見送った。



ちょうど良いからこのまま茂みの中で休もう。


体を小さく丸めて、おれは目を閉じた。






聞き慣れた足音に、おれの耳はぴくりとそちらを向く。

夢の中にいても、その足音で急速に、夢の世界から抜けて出る。

すばるだ!

おれのしっぽは千切れそうな勢いで左右に振れている。
まだ声も聞こえなければ、姿すら見えていないというのに。

女の子の名前はすばる。
あの日からすばるはしょっちゅうおれに会いにくるようになった。
その時はいつも食べ物を持って来てくれる。
給食の残りだったり、おやつだったり、色々だ。

「ウルフィー? どこー?」

そうそう。

出会った次の日には、すでにおれには名前が付いていた。
そんな名前の犬を映画で見てから、ずっと憧れだったらしい。

ウルフィーて。
それもこのおれにどうよ?
と思わなくもない。

でも憧れの名前だよと、内緒ばなしのように教えてくれたすばるはとても嬉しそうだった。

そんな顔を見ると、まあ、悪い気はしない。

というか、めちゃくちゃ嬉しい。

「あ、いた! ウルフィー、今日のごはんはメロンパンですよ」

よしよし。
よく来たなすばる。
鼻ちゅうしてやる、鼻ちゅう。

おれはいつものようにすばるに駆け寄って、膝の上に跳び乗る。

おれの傷はこの頃にはすっかり良くなっていた。

きれいに傷は塞がって、今にも家に帰ることができる。
もし襲われたとしても、返り討ちに出来るほど、気持ちも回復していた。

でも。

なぜだかおれはここから離れられないでいる。

すばるの声を聞くと。
すばるの顔を見ると。

暖かくて柔らかな膝の上といい、おれを撫でる手といい。
一言で表すならば、それはもう『うっ……とり』以外の何もない。

だからお前の持ってきたメロンパンも食べてやろう。

甘いのは好きじゃないけどな。
口の中はパッサパサになるけどな。
潰れたパンが上顎にへばり付いて、イヤな感じになるけどな。



すばるのメロンパンなら水なしで完食してみせてやるよ。