「さぁ! めでたく同棲生活がスタートと相成った訳ですが」
「居候です…………お世話になります」
「いやぁ。戻って来てくれて良かった! すばるさんが出ていった後、清水君たら荒ぶって荒ぶって大変だったんだよ?」
「ちょ、余計なこと言うな!」
「わんこで行けばって提案してからの清水君のスピードといったら……ぷぷぷーー」
「……うるせぇな」

すばるは手元で作業をしながら、キッチンカウンター越しに交わされる会話を、テニスの試合でボールを追うように目線を送る。

清水は不貞腐れた顔をしながらも、てきぱきと食器を運んでテーブルに並べていった。

ダイニングテーブルにはできたての温かい食事。ひと通り揃えて清水とすばる、莉乃と英里紗の四人で料理を囲んだ。

「すごく美味しそう! どうもありがとうすばるさん!」
「うちの冷蔵庫に入ってたのをテキトーに調理しただけなんで、美味しいかどうか……」
「んーん! すごいよ! だって僕たちまともに作れるのコーヒーだけだもん!」
「お家でお味噌汁なんて初めて!」
「嬉しいねぇ、英里紗?」
「ねー?」

朝とは打って変わってテンションが高い英里紗が、無邪気な笑顔で手を叩く。


萩野家に到着してから、学校やバイト先に体調不良でしばらく休むと連絡をした。
腹の傷はそれほど痛まないが、交通量が多く賑やかな場所、人の多い場所に行くのは苦痛に近いことを、この往復の間に身に染みて感じた。

目や耳や鼻、手足や身体の扱い方まで。
情報を処理したり操作したりが難しいことに改めて気が付く。
上手くコントロールできるようになるまで、しばらく時間が必要だと理解した。

相手が清水だったから力任せにできたのだと、いくつか物を壊してから、すばるはやっと学んだ。

「莉乃、食べ終わったらすばるさんを刺したやつ探しに行けよ」
「わかってるよぅ、食べる前から言わないの」
「英里紗もだからな」
「はいはいはいはいしつこいな、もう」
「そんな……おふたりにそこまでしてもらわなくても、私……」
「ダメダメ。言ったでしょ、すばるさん。万倍にして返すって」
「……でも」
「まぁまぁ、話はすばるさんだけじゃ済まないからねぇ」
「え?」
「プライドだよ、こちらに手を出すことの意味を知れ!!……って話」
「そういう……ものなんですか?」
「我ら、誇り高く生きる者なり! ってね」
「話はもういいから食べようって。俺、腹減った!」
「私もおなじくー!」

話はいいと言いながらも、食卓は明るく賑やかだった。
楽しく笑い合いながら、人と向かい合って食事をする場所があるのだと思い出す。
すばるにとってそれは久しく忘れていた感覚だった。
自分以外の為に作った料理を、それも喜んで食べてもらえたのも、とても嬉しい。


食事の終わりにすばるは味気ない茶封筒をポケットから引っ張り出す。
中にはこれまでのバイト代を貯めた、銀行の通帳とカードが入っている。

「あの……本当に少なくて申し訳ないんですけど……これ」

莉乃に向かって差し出すと、出会って初めて顔を顰め、機嫌悪く唸った。

「たくさんなくて、ごめんなさい」
「すばるさん……僕たちみんな仕事してるんだよね、それも法外な値段で法外なことしてるの」
「ああ……やっぱりこの程度じゃ……」
「じゃなくて」
「はい」
「すばるさんひとり養うなんてワケないんだよね」
「……だとしても」
「すばるさん百人豪遊してもだいじょーぶなの」
「百人は言い過ぎ」
「豪遊ぶりにもよる」
「こら。話の腰を折らない」
「はーい」
「これは今まですばるさんが頑張った証でしょう? 大事にして取っておきなさい。使うのはここじゃない、簡単に人に渡しちゃいけないよ」
「…………食費にしませんか?」
「ん?」
「て、いっても高級な食事だと一週間も持ちませんけど」
「すばるさん……いいんだよ、気を遣わなくて」
「実は私も、豪遊できるくらいお金持ってるんです」
「すばるさん、それは黙ってなきゃ」

テーブルの上に手を重ねてきた清水に、すばるは目を細めて横を睨む。

「……どうして知ってるんですか?」
「う……ん、ごめん……でも調べたらすぐ分かるようなことだから」

ふふと笑って莉乃は頷いた。

「清水君の言う通り。それこそ大事にしなさい」
「はい! だからこれは使って下さい」

すばるは封筒を無理やり清水の手に押し付ける。

「晩ごはんはがんばります! こんな時短テキトー料理じゃなくて、ちゃんとした食事を作ります! 特訓です! もうカップは握り潰しません!」
「…………すばるさん!!」
「はい、何が食べたいですか?」
「そりゃもちろん、すばるさん!!」
「却下!!!!」



莉乃と英里紗が鼻唄混じりで出かけるのを見送って、すばるは部屋で荷物の整理を始めた。

その部屋のドアの枠に寄り掛かって、清水は不服そうにその様子を見ている。

「ねぇ……やっぱりさ」
「嫌です」
「狭いって」
「広い部屋は落ち着きません」
「ベッドも無いし」
「お布団があります」
「物置きだよ?」
「これは、ちゃんとした、部屋と言います」

萩野家の規模から言えば、確かに物置きと言える広さだが、寝るだけなら充分、立派に部屋の体を成していた。
腰高の窓もクローゼットも設えてある。
最初から家具も何も無い空間だったので、雑然とある物に紛れて床の隅で丸まる訳でも無い。
すばるの部屋と比べて、ほんの少ししか違いがない。むしろ家具が無いぶん広く見える。

低音で唸り続ける清水を振り返る。

「夕飯は何が良いですか?」
「うう……」
「お買い物行ってくれますか?」
「ううぅぅ……メモちょうだい」
「はい……何にしましょう」
「……カレー」
「普通!!」
「俺、お家のカレー食べたこと無いの」
「……じゃあ、ものすごくお家っぽくしましょうか」
「……うん!」


食材のメモを書いて渡すと、清水も鼻唄混じりで買い物に出かけて行った。

玄関先まで送り出し、扉を閉じて、鍵を掛ける。

外界と遮断されて音が消える。
静寂が耳に痛いほどだ。

高級住宅は違うとすばるは乾いた笑いをひとつこぼした。



部屋に戻って床に転がった。
端の方に畳んである布団に頭を乗せる。
横向きになって両腕で腹を抱え、目を閉じた。

身体の中身がぐるぐるする感覚、ゆっくりした波のようにやって来る、ぎゅうと突かれるような傷の痛み。
連鎖して思い出す、どん、とぶつかってきた同じクリーム色のカーディガンの肩。

怖いと思う暇なんて無く、攫われるように死に向かっていた。

今更になってがたがたと震えだす。
丸まった姿はダンゴムシの様だと、冷静な自分が上から覆いかぶさるように覗き込んでいた。

覗き込んでくる自分は良かったねと語りかけてくる。
良かったね。
家族ごっこは楽しいね。
良かったね。
一緒にいようと惜しみなく言ってくれる人がいる。
良かったね。
都合よく利用できそうな人に負い目を被せられた。
与えられる好意を邪険にして、まるで王様の気分だね。

空いた穴が塞がる訳ないのにね。





片方の手をすばるの額に乗せ、もう片方を自分の額に持っていく。
竦まっている肩と首の間に手を差し入れると、やっぱり少し自分よりも熱い。
辛そうだと分かっていたのに、ひとりにしてしまった。


身勝手な、と莉乃に言われた言葉を思い出して内臓全部が持ち上がる感覚がする。

こちらの世界に巻き込んで引き込んで、それは全部、清水の利己的な行動でしかない。

すばるのことを考えれば、再会してまず始めに考えた通り、遠くから見守ることに徹すれば良かった。

本人の預かり知らぬ場所で、時々やってくるだろう困難を知られぬまま手助けしたり、こっそり回避できるよう仕向けることを選ぶべきだった。

いつか誰かと結婚して、それは怪物ではない普通の人間で、相応に歳を取って死んでいく。

それを離れた場所から時々見ることができれば、それで良いじゃないかと、そう決めたはずだったのに。

傷を負い、すばるがこの世界から居なくなるかもと過った瞬間から、意思を覆す想いに囚われる。

片時も離れたくない、知らない男に笑いかける顔なんて見たくない。そんなこと許さない。

もうこの想いが魂分けの強制力なのか、自分の偽らざる気持ちなのか切り離して考えることが出来ない。




本当にごめんなさいと、すばるの前髪をさらさらかき混ぜて、指の背で睫毛をくすぐった。

勝手に部屋から移動させたら怒るだろうか。
自分のベッドに寝かせたら嫌われるだろうか。
せめてもと毛布を運んできて、丸まった頼りなげな身体を包む。

清水も一緒にその中に入って、向かい合う様に横向きに寝転んで額を引っ付けた。
少しでも楽になりますようにと、回した手で背中をゆっくりと撫でる。




日暮れ前に目を覚ましたすばるに案の定怒られたけど、眠る前より熱くなくなったことに清水はにこにこと顔を綻ばせる。


フローリングの上で凝った身体をごきごきいわせながらふたりで作った『普通のお家のカレー』は、やっぱり普通の味で、清水にはなにより美味しかった。