すばるは大きく吸い込んだ息をぴたりと止めて、そのまま建物を下からゆっくりと見上げる。
内側があれだけ広いなら、そりゃ外側の建物も大きいに決まっていると静かに息を吐き出す。
左右を見て大きな道路に出られそうな方へ足を向けると、すぐに見覚えのある景色に出会った。
いつもの河川敷、その対岸側だ。
オフィス街やマンション、商店街、学校……大きな建物が混ざったこちら側から、すばるの住む低層の住宅地が広がる方を見る。
なんとなくの勘に任せて歩いていると、いつも通学に使っている道に出た。
勉強道具が入ったトートバッグと、制服が入った紙袋を肩にかけ直し、この時間帯なら逆方向になるアパートへ向かった。
薄曇りの空は淡いクリーム色の陽をふわふわと降らせる。
下にある少し冷んやりした空気と、ふわふわの空気を、歩いて足でかき混ぜた。
車が横を通れば、ぐるんと風がひっくり返るようで心中ですばるはびくりとする。
いつもなら気に留めないような些細なはずのものが全く違っている。
怖くは感じないが、そのひとつひとつに発見や驚きがある。
通学の時間帯は少し過ぎているので学生服姿は見かけない。
その代わり通勤する人や自転車に追われたりすれ違う。
後ろから来るだろう自転車の気配に歩道の端に寄る。
なかなか追い越されないなと振り返ると、まだ随分とすばるの後方にいた。
今まで分厚い壁の内側にいたのではと思うほど、音の聞こえに差がある。
集中すれば、自分以外の人が立てる衣擦れのみならず、骨や筋肉の軋む音まで聞こえる。
気がする。
ここまでクリアに聞こえたことが無いので、すばるには聞こえてくる音が何の音なのか、頭の中が忙しい。
一度に色々が押し寄せて、すぐに疲れてしまい、自分が立てる音だけに集中しようと意識を変えた。
家まで送るという言葉を、すばるは清水宅の玄関先で固辞した。
色々考えるためにひとりになりたいという思いと、もうこれ以上お世話になって迷惑をかけたくない気持ちが溢れ返って、きつめの態度だったなと思い返す。
少し悲しそうな顔で笑って、別れる直前まで謝っていた清水の姿に、罪悪感がむくむくと湧いてくる。
「本当に帰るの?」
「……ですね、学校もバイトも休んで、大人しく家で寝ます」
「う……ん。休むのは大事だから、そうした方が良いに決まってるんだけど」
「……だけど?」
「ここじゃダメかな?」
「……落ち着かないので」
「だ……よね、その気持ちはよく分かるんだけど……例えば……例えばね?」
「はい?」
「すばるさん、自分家の部屋のドアを開けたとするでしょ?」
「はぁ……」
「見てみたら、部屋中に生ゴミぶちまけられてたらどうだろう」
「は?」
「あちこちゴミだらけだったら」
「……そうなってるんですか?」
「あ、いや、例えばの話」
「…………『くそっ』てなりますかね?」
「だよね……もうちょっと考えてみて?」
「怒りながらとりあえず掃除?」
「…………そんなすばるさんだから好きなんだけど」
予告もなくふわりと抱きとめられ、ぎゅうと締め上げられたので、叫ぶ暇もなく暴れて逃れた。
家まで送ると言う言葉に被せて、絶対に嫌だと玄関扉を力任せに開けて、更に言い募ろうとする清水に、本当に嫌ですと念を押して扉を閉めた。
閉めた扉は開かなかったので、すばるはその場でぺこりと頭を下げて清水の家を後にした。
部屋を見た途端に生ゴミの意味が分かって、すばるは『くそっ』と心の中で吐き散らす。
清水はこれを知っていたから引き止めようとしたのかと固く目をつぶった。
部屋の中は、昨日の朝、出て行く前と何ら変わらない。
見た目だけは。
いつもと変わらず、そこそこ片付いて、そこそこ散らかったまま。
なのにありありと感じる、いつか想像した小人の存在。
以前のぼんやりした違和感ではなく、確実に、手に取るように誰かが居たのだと分かる。
自分以外の何かの匂いがする。
知っている誰かの匂いとも違う、吐き気を感じる嫌な臭い。生ものが腐ったような、粘着質ですぐには拭い去れないような、とても嫌な感じがする。
それは部屋の中至るところを触っているようだった。小人と思っていたけど、大人のサイズらしい。腰の高さに扉や壁を指でなぞったような二本の線。通路を通る自分より大きな歩幅の足跡、それはベッドや卓、ローチェストまで続く。
手に取れるものは一度持ち上げられ、丁寧に置き直されたことまで分かる。
臭いが、ペンキを頭から引っ被った誰かの仕業のように、その手の形までくっきりと見えるようだった。
すばるはとりあえず部屋の奥まで入って、一番に窓を開いた。
靴を履いたまま。
例え靴下だろうがそこを踏むのすら気持ちが悪い気がして、天秤にかけた結果、日本人らしく気が引けながらも土足を選んだ。
窓辺まで来て、部屋を振り返って途方に暮れる。
怒りながらとりあえず掃除?
どうしてそんな悠長なことが言えたのか、自分の想像力の乏しさに目眩がする。
この嫌な感じがどうすれば拭い去れるのか、掃除でどうにかなるのか、どうして今までこの状態で平気でいられたのか。
叫び出したい気分をどうにかしようと、心の中の忙しなさが一層増し、かといってどうすることも思い付かない。
かりかり、かしゃかしゃと音がする。
ウルフィーが来たことを知らせる時のように、玄関扉を爪で引っ掻くような音。
いやいやいやと繰り返しながら、すばるは扉を開けた。
見下ろせば当たり前のように通路にウルフィーが座ってこちらを見上げている。
尻尾が千切れそうな勢いでぐるんぐるん回っていた。
「ウル…………じゃなくて、萩野さん……」
すばるが膝を落として目線を合わせると、ウルフィーはたしっとその上に前足を置いた。
ふんふんと鼻を鳴らしながら、お互いの頬をすり合わせる。
本当にそんな場合ではないのに、すばるの中は可愛いの一言で埋め尽くされる。
清水だということを忘れて、ぎゅうと抱きしめて、みっしりもこもこの毛の感触を味わう。
ささくれだった心が少しだけ落ち着いた。
「……え……と、誰かに見つかったらアレなんで、とりあえず中に」
立ち上がり扉を開けると、ウルフィーはいつものようにすばるの脚と扉の間をすり抜けて中に入る。
扉を閉じて下を見ると、足を拭いてもらおうと玄関の内側で行儀良く座っている。これもいつもと同じように。
ちなみに尻尾はまだぐるんぐるんと回っていた。
「う…………かわ! かわいい!! ウルフィー!!」
再び腰を下ろして抱きつくと、ウルフィーもぐりぐりと頭を擦り付けてくる。
すばるの両腕にさらに力が入る。
ふたりの間にあるバッグが気になって腕を緩めてウルフィーの顔を見た。
「ウルフィー、これなあに?」
首から片足を通して、ボディバッグが斜めにかかっている。
もごもご動いて外したそうにしたので、すばるは手伝うべくプラスティックの留め具を外した。
落ちないように受け取ったバッグに、ウルフィーは足をかけ、ぶら下がった短い紐を咥え、バッグを開けようとしている。すばるは断りを入れてから代わりにバッグを開けた。
持った感覚では柔らかそうなものが入っているのは分かっていたが、中身は服と下着だった。男性ものの。
「……ウルフィー?」
嫌な予感に素早くすばるは立ち上がる。
少しだけスペースが空いた玄関で、ウルフィーが立ち上がりぶるりと身体を震わせた。
指の先が伸びるのに反比例して、もっふりした毛がするりと引っ込んでいくところまではしっかりと確認した。
すばるはまた土足のままで部屋の奥まで走り、ベランダまで出て、その縁に縋って下を覗く。
飛び下りる気は無いし、そんなことしたら痛いでは済まないのも分かっているが、今なら出来るんじゃないかと考えるまでには焦っていた。
「…………ちょっと! ほんと! 出てって下さい!!」
ようやく絞り出した言葉に、笑ったような声が返ってくる。
「いやぁ、真っ裸で出ていけないよ?」
「服着たら帰って下さい!!」
自分の両側から自分のではない腕が伸びてきて、ぎゅうと巻き付いた。
左肩に頭がとんと乗る。
「今来たばっかりなのに、帰るわけないよね?」
「……!…………!! 離して下さい!」
もごもご動いて腕が緩む、そのまま手摺りに大きな手が置かれたのと同時にすばるは振り返る。すぐにぎゅと目を閉じた。
「なんで?! 服!! 着て!!」
「……下は履いてる」
「着て!!」
「……逃げない?」
「どこに?!」
「…………俺の言ったこと分かった?」
「分かった……から!…………服!!」
「ふふ……これなにドンかな? ベランダドン? 新しいな……どきどきするね」
押し除けたいけど触りたくは無いので、すばるは身を縮めて両方の手のひらを前に『止まれ』の仕草をしたまま固まっている。
清水はウルフィーのように頬をすり寄せた。
驚いて目を開けると、柔らかく手を取られ、そしてこれもウルフィーと同じく、鼻先を合わせてくる。
目を見られたままで、本当ならこんなこと嫌なはずなのに、力が抜けて、気持ちが落ち着いていくのを感じる。
「ここは嫌でしょ? だから迎えに来た……俺ん家においで? ね?」
「こんわけ……したから?」
「うん?」
「拒否できない……?」
「それとはまた別に『好き』だって思うんだけどな……俺は。すばるさんは拒否したい?」
「…………ここに……居たくても」
「……それでも良いんだ、しょうがなくでも良いから、俺ん家に来て下さい」
「…………しょうがないので、お世話になります」
「喜んで!」
正面からぎゅうと抱きしめてられても、今度は落ち着いてぐいぐいと押し返すことが出来るようになった。