私は走ることが好きだ。
何もかも忘れられるほど、無我夢中になれる。
タイムがコンマ一秒でもより早く走りたい。
人は鳥のように飛べない。不自由だ。
でも、走ることができる。
前へ進むことで私という存在が認められるような気がした。
『セット』の声から意識を集中する。
まるで、無音のようで、瞬きさえもちらつく。
周りの声援を一身に受けながら、プレッシャーに押し潰されないか、心臓が高鳴る。
走りきった先の世界は一面が雪のような銀世界。頭が真っ白になる。
その開放感は飛ぶ鳥のようかもしれない。
息を切らし、歓声が聞こえる。
我に返った時は思わず涙がこぼれ落ちたことさえある。
だから、私は前に進める。自由でいられる。
どんなに厳しい練習にも耐えられる。
私が走ることで、皆が喜ぶ。
それは私にとって、かけがえのない宝物だ。
そう思ってた。

でも、前に進めなくなった時はどうすれば良いの?
そんな問題は解のある数学でさえ教えてくれない。
表面に両足を乗せ、体重を預けるとヒビが入るように、私は脆かった。
高校二年の夏。私、神崎秋子(かんざきあきこ)は膝の故障をした。
それ以来、走れる体ではなくなった。
幸い歩くことはできる。激しい運動は医師から止められていた。
私はこの先どうすれば良いの。
暗闇に迷い込んで、ひとしきり泣くことが出来れば良いのに。
家族も友人も教師も近所の人も、みな私のことを心配してくれる。
私の前では明るく振舞ってくれる。
逆にそれが辛い。
足のことは気にせず、また新しい何かを見つけたら良いのだろうか。
みな私のことは腫れ物に触るように接するわけではない。
頭ではわかっている。
でも、多分、私は今の状況を誰かに助けて欲しい。

誰かにすがりたい。
誰かに泣きじゃくりたい。
誰かに叫びたい。
誰かに……

私は足だけでなく、心さえも引きずっていた。