だから私は、今日も猫を被る。



「一週間に何日パンなんですか?」
「んー、四日とか」
「え? そんなにですか?」
「うん」


なんの違和感もなくけろりと言ってのけるあお先輩に少し驚いた私。

四日ってもう一週間のほとんどだよ。
残り一日だけがお弁当ってこと?


「それ、栄養偏りませんか?」
「まぁ偏るだろうね」


口元を緩めて笑った先輩。

私と話す間も食べる手は止めようとはしなくて、新しいパンもすでに半分が減っていた。

でも、とわずかに目線を下げた先輩は、ふいに、食べるのをやめる。


「パン好きで食べてるからいいんだよ」

嬉しいような悲しいようなそんな笑顔を浮かべていた。


「そんなに好きなんですか?」
「まぁね」

短く答えると、パンをかじった先輩。

その横顔はなんだか寂しそうに見える気がしたのは、気のせいなのかな。

まあでも、先輩がパン好きなら仕方ないんだろうけど、四日間もパンって栄養偏るよね。
だからといってお弁当を作ってあげるほどの仲でもないし……。


「それ」

突然、二文字を呟いた先輩に視線を向けると、私のお弁当へと指を差していて、


「…どれですか?」

答えながら、先輩の指とお弁当を交互に見つめると、

「からあげうまそう」
「からあげ好きなんですか?」
「あー、うんまぁそうなんだけど…」


なんて中途半端に答えたあと、なかなか口を割らないから、

「あお先輩?」

声をかけると、

「やっぱ、なんでもない」

お弁当から視線を逸らすと、コーヒーを飲んだ先輩。

「それより」また私へと視線を戻すと、


「それ、七海が作ってるの?」
「え? …あ、いえ。さな…──お、お母さんが作ってくれて」


クセで早苗さん、と言いかけたところをお母さんに切り替える。
あお先輩に怪しまれなかったかな、と不安になりどきどきと鼓動が鳴る。


ふうん、と相槌を打つと、

「いいお母さんだな」

と先輩の薄く開かれた唇から解き放たれた罪のない言葉。


“いいお母さん”

それは、早苗さんのことを指した言葉だ。
もちろん早苗さんはとても優しくていい人だ。
けれど私にとってのお母さんは今も、そしてずっと昔から、亡くなってしまったお母さん、ただ一人だ。


「七海?」

あお先輩の声が耳に入り込み、意識をこちらへ戻した私は。


「え、あっ……そー、ですよね!」


言葉を取り繕ったのだ。
けれど、私の心の中にあお先輩の言葉がくっきりと、しっかりと足跡を残した。

「いい、お母さん…ですよね」

まるで自分に言い聞かせるように。


「うん。それに、おいしいごはんが毎日食べられるっていいよね」


羨むような色が言葉にのった。

私の胸はチクリと痛む。


「そう、ですよね。おいしいご飯食べられて、私も幸せです」


笑って言葉を言ったけれど、私の口からもれた言葉は、嘘が半分混ざっていた。

けれど、その感情を悟られないように無理に笑ってみせる。

だって絶対にあお先輩には知られたくなかったから。私の胸の内を。
こんな醜い感情知られてしまったら、きっと嫌われちゃう。

だから私は、笑うしかない。
いい子を演じるしかなかったんだ──。



お昼休みが終わったあと、教室へ戻ると、ドアの前でばたりと友人二人に遭遇する。


「あ」
「「あ」」

お互い思わず声がもれる。

こういうときって何か言葉をかけた方がいいのかな。でも私が一方的に八つ当たりしちゃって気まずいし……。


頭の中でぐるぐると考えていると、

「えーっと、私たちちょっと急いでるから」
「そ、そう! …じゃあね!」

矢継ぎ早に言葉が流れてきて、私が返事をする前に二人はそこからいなくなる。


せめて何か一言でも言えばよかったのかな。
この前はごめん、って。あのときはちょっとイライラしてたからって言い訳でもして謝れば、また元の日常が戻って来たのかな……。
そしたらまた楽しくおしゃべりする?
でも私、ほんとに仲直りなんてしたいのかな。今の状況の方が一人で気楽なんじゃなくて……?


やめやめ、と頭を振って考えを吹き飛ばすと、クラスメイトの視線を遠目で感じながら、自分の席へと最短距離で向かった。


席に座って周りを見渡すと、まだみんなそれぞれの場所で楽しくおしゃべりをしたり、お菓子を食べたりしている。
つい最近まで私もあんなふうにしてた。
楽しいかどうかはべつとしても一人になることはなかった。だから心強かった。
でも、私はあんなふうにすることはもうできないんだなあ……。


クラスメイトは私をチラチラと見ては、何やら話をする。

元々そんなに話すわけではなかったけれど、些細な何気ない会話くらいすることはあった。
でも今はそれすらもなくなった。

まるでみんな私に関わりたくないかのように、視線がぶつかってもすぐに逸らされたり、話しかけないでほしいというような雰囲気さえ感じ取れた。

ああ、そっか。やっぱりみんないい子の私だけを見ていたんだ。誰も内面は見てくれてない。

そう気づくと、胸がぎゅっと圧迫される。

こんな感情のままあと一年半過ごさないといけないの?
そんなの無理だよ……。
私、そんなに強くない。
いい子の仮面を剥いだ私の防御率なんてほとんどゼロに等しいんだ。


「──花枝さん」
ふいに声がして顔をあげると、メガネをかけた委員長がそこにいた。
そして、これ、と言って私に手渡したプリント。

そこに視線を落としていると、

「それじゃあ私はこれで…」

と足早にその場を去る足音だけが耳に入り込んだ。
ありがとう、さえ言う暇も与えられることなくいなくなる。

いくら私と関わりたくないからってあまりにも露骨すぎるでしょ……。


視線を周りへ向ければ、ササッと逸らされる。
まるでだるまさんが転んだをしているような気分だ、なんてとてもじゃないけど楽観的にはなれそうになかった。


みんなしてなんなの。
私をクラスの除け者にでもしたいの?
団体行動の輪にうまく溶け込めない人はこうやって爪弾きにされる?


何もかもがうまくいかない。

──学校も、人間関係も、家族も。
負の連鎖が続いていくばかりで、曇り空のようだった。

結局みんないい子の私だけを見ていたってことなんだ。
仮面を剥いだ私なんて必要ない、みんなにそう言われているようだった。

机の上に置いたプリントの上でぎゅっと拳を握りしめると、くしゃりとよれてしわになる。
そんなことをしても気持ちは晴れることはなくて、ただただ虚しいだけで。


窓の外は、晴れとは程遠いほどに重たい灰色の雲が空を覆っていて、今にも雨が降り出しそうなほど。
──私の心もそれと同じだと感じ、より一層心がずっしりと重くなった。


今日の夜ごはんは家族団欒でテーブルを囲んでいた。
それだけを聞けば誰もが仲睦まじい姿を想像するだろう。


「おお、今日はみんな揃ってごはんか。久しぶりだな」
「ええ、そうよね」


言いながら、テーブルにおかずやお味噌汁を並べていく早苗さん。


「パパぁ、あとであそぼーっ!」
「そうだな。あとで遊ぼうな」


その傍らで、お父さんと美織ちゃんが楽しく会話をする声が聞こえて、それに微笑む早苗さん。
そこだけが切り取られたように、私がいるキッチンとは別世界のように見える。

私の目の前に広がる光景は、まさしく家族団欒の姿で、父親と母親からたくさんの愛情をもらう娘の絵図だ。
そんな光景が視界に映り込むたびに、私はため息一つついたのだ。


「七海ちゃん手伝ってくれてありがとう」


ふいに早苗さんの声が聞こえた私は、ハッとして途端に笑顔を取り繕うと、


「ううん大丈夫。…あ、あとこれで最後だよ」
「ありがとう」


私からお皿を受け取ると、それをまたテーブルへと運んだ。


私たちの事情を何も知らない人が見たら、ふつうに仲の良い家族だと思うだろう。何も問題はないと思うだろう。
けれど、そこに私は含まれることはない。

だって私だけが別世界にいる。
真っ暗な空気に取り囲まれて身動き一つできない。
そこから抜け出すこともできない。
三人がいるリビングだけがスポットライトに照らされて、私はそこへ歩み寄ることもできない。


「──七海ちゃん」

呼ばれた声に意識を戻すと、

「立ち止まってどうしたの?」

私を心配そうに見つめる早苗さんと視線がぶつかった。


濁りのない瞳で真っ直ぐに私を見つめる。
心配したように下がる眉尻。
……やめて、私をそんなふうに見ないで。
そうじゃなきゃ私が惨めになる。
私だけが罪悪感でいっぱいになる。

そんな感情を押し込めて、


「……なんでも、ないよ」

首を振って笑うと、何事もなかったかのようにテーブルへと向かった。


「よし。それじゃあ食べるか」


お父さんの言葉を合図に、手を合わせてみんなでいただきます、と言った。
美織ちゃんは、いたーきます、と元気よく笑った。

私も笑う。みんなと同じように。
けれど、心の中はズキズキと痛み、黒い感情で覆われそうになる。


「ママこれおいしー」


美織ちゃんがスプーンで頬張りながら、そんなことを言う。
ああ、とお父さんは頷いて、

「確かに早苗のカレーは絶品だなぁ」

美織ちゃんの言葉に同調すると、ニコニコ笑っておいしそうに食べる。
そして、

「七海もそう思うだろ?」
「……あ、ああうん。おいしいね」

一口目で止まっていたスプーンを慌てて動かすと、二人のように頬張ってみる。


早苗さんの料理はおいしい。
ほんとに文句のつけようがないほどに絶品だ。
もちろんそれは嘘ではない。
それなのに私は心から素直においしいと言うことができなかった。
いつも心はどこか別の場所へいっていて、感情のこもっていない言葉を吐く。
その場の雰囲気を読み取ってみんなに合わせるのだ。


「なみちゃんもおいしー?」
「…うん、おいしいよ」


美織ちゃんに尋ねられて、笑って返事をすると、そっかあ! とニコッと笑った美織ちゃんは、口いっぱいにカレーを詰め込む。
美織ちゃんの机の周りはポタポタといくつもカレーの足跡が落ちていた。


「美織、こぼしてるわよ」

言いながら、口の周りを拭いたりテーブルを拭いたりと、自分の食べることはそっちのけの早苗さん。


「美織は早苗のごはんがほんとに大好きだなぁ」
「うんっ、だいすき!」


それを聞いた早苗さんは、ふふふっと口元を緩めた。


「それはよかったわ。まだたくさんあるからゆっくり食べなさい」
「はぁい!」


元気な返事をした美織ちゃんは、おいしそうにカレーを頬張った。

そんな美織ちゃんを見てお父さんも、早苗さんも笑っている。
家族団欒の光景がまた目の前に広がり、私の胸はズキズキと痛みだす。
幸せの形を見ていると、私の心はそれを拒絶するかのように真っ黒に染まり出す。


私だけが部外者に見えてならない。
私だけが除外されているような。
私はここにいてもいいのだろうかと不安になる。


「七海、手が止まってるがどうかしたか?」


お父さんの声が聞こえて、パチンっと意識が引き戻されると、早苗さんまでも私を見ていた。


「あ……ううん、何でもない」

言ったあと、目を伏せてカレーを食べた。

そうか、と言うと特に怪しまれることなく、お父さんも何事もなかったようにカレーを食べた。
そしておいしいおいしい、と顔を緩ませた。
早苗さんだけがまだ私を見ているような視線を感じた。
けれど私はそれに気づかないフリをする。

だって今、目が合ってしまえばきっと私笑える自信がない。
うまく笑顔を貼り付けられない。


「美織、危ないから左手も出して」


早苗さんが注意をして、はぁい! と美織ちゃんの返事が聞こえる。
わずかに顔を上げた私の視界に映り込んだ美織ちゃんの左手。

──その瞬間、ドクンっと嫌な音が弾けた。

美織ちゃんの左手でキラキラ光る、世界に一つだけのブレスレット。
私はそこから目が離せなくなる。


それは私が大切にしていたもの。
私が七年前からずっと肌身離さず持ち歩いていたもの。
それが今は美織ちゃんのものになっている事実が、私の心をひどく傷つける。

下唇を強く噛んで、感情を抑え込む。


私は、いい子だ。
私はお姉ちゃんだ。
だから我慢しなくちゃいけない。
美織ちゃんのためにもいいお姉ちゃんでいなければならない。

だから私は、のどまで出かかっている“返して”の言葉を飲み込んで、心の奥底で厳重に鍵をする。


「…ごちそうさま」


静かに合わせた手のひらは、わずかに震えているようだった。


「七海ちゃんもういいの? まだおかわりあるわよ?」
「…うん、でももうお腹いっぱいだから」


お腹をさすりながら笑ってみせると、そう、と眉尻を下げた。
やめてよ、そんな顔しないで……。まるで私が悪者みたいじゃん。心の中の私が毒を吐き始める。


「なんだ、七海。もう部屋戻るのか?」
「うん。まだ宿題残ってるから」


椅子から立ち上がると、食べ終えた食器をキッチンへと運ぶ。

「まだ時間も早いんだしこのあと一緒に遊ばないか?」

リビングの方から、お父さんの声がするけれど、私は静かに首を横に振った。


「なみちゃんもーいくの?」
「…うん、ごめんね。宿題があるの」
「しゅくだい?」


言葉の意味を理解できずに首を傾げる美織ちゃんに、

「お姉ちゃんの邪魔しちゃダメよ」

と早苗さんが横から口を挟むと、はーい! と聞き分けの良い子のように真っ直ぐピンッと手をあげた美織ちゃん。

美織ちゃんの左手には確かに私があげたブレスレットが輝いていた。

私の心でゆらゆら蠢(うごめ)く感情に、歯を食いしばって拳を握りしめて耐える。
ここで爆発されたら今まで築き上げてきたものが全て水の泡になる。
ダメだ、我慢しなきゃ……。


「じゃあ私行くね」

リビングと廊下を隔てるドアから抜け出して、パタンッと閉まった扉。
その瞬間、いい子の仮面が剥がれると、私の顔から笑顔が消えた。


部屋に戻ると、一気に全身から力が抜けてドアにもたれるように座り込む。

膝を抱えて、顔を俯かせる。

こんなつらい目に遭うんだろう。
神さまは不公平だ。
七年前にお母さんが亡くなってから私の人生の歯車は狂い出した。


「……お母、さん……っ」


ポツリともれた声は、部屋の中で弾けて消える。


──ふと、七年前のことを思い出す。

お母さんは病気だった。
それもタチの悪い“がん”だった。
でも私はそれに気づくことはできなくて、気づいたときにはもう手遅れだった。


初めはただの検査入院だと思っていた。
いつも家の中でのお母さんは元気いっぱいで笑顔は欠かさなかったから。
私は、それを信じて疑わなかった。

だから病気が見つかったときは、すごく落ち込んだ。
誰よりも私自身が……。
お母さんのそばに誰よりもいたのは私なのに、病気に気づいてあげることができなかったの。

入院するって決まったときだって、私は一ヶ月もしないうちに退院できるものだと思っていた。
けれどまさかそんなに伸びるとは思っていなかった。


『七海の誕生日はみんなでお祝いしようね』


お母さんは、そう言ってくれていた。
だから私もそれを信じて、私の誕生日前には退院するものだと思っていた。
けれど、入院日数が伸びた。それは一ヶ月、二ヶ月、そして気がつけば一年の半分をお母さんは病院で過ごすことになった。

だから私の誕生日を家族で過ごすことは叶わなくて。
その代わり、お母さんは病室で私にブレスレットを作ってくれた。
青と水色、透明な色を組み合わせて私をイメージして作ってくれたらしい。
──七海の"海"をイメージしてくれたってお母さんは言ってた。