「ユニ……」

 誰? 誰の声?

「……ユニー……おい……」

 ……やめて、いや……違う……違うわ……わたしはなにもしていない。
 本当よ……!
 どうして誰も信じてくれないの?
 手を伸ばしても、手を伸ばしてもあの人はわたしを蔑むような目で見下ろす。
 その腕の中には……あの桃色の髪の少女……。
 ああ、ああ、ひどい、ひどい……!
 シーナ様はわたしの婚約者なのに。

「ユニーカ! いい加減起きろ! 着いたぞ!」
「ハッ! …………」

 はあ、はぁ、と肩で激しく息を吐く。
 嫌な夢……もう一週間以上も経つのに、まだこうして見てしまう。
 頭を抱えて兄、シュナイドの手を取る。
 馬車を降りると、母と父が見違えるほどみすぼらしい姿で立っていた。

「……よく来たな、二人とも。ここがお前たちの新しい家だよ……」
「……うっ……うっ……」
「…………」
「こ、ここが……?」

 父の落ちた肩。
 泣きじゃくる母。
 わたしが見上げたのはボロボロのお屋敷。
 二階建てだがどこもかしこも薄汚れ、外壁には枯れた蔦がびっしり生えている。
 これからここで、わたしたち家族四人で使用人もなく生きていかなければならないという現実。
 手を握り締めた。
 はらはらと涙が溢れる。

「わ、わたし……わたし、本当に……っ、本当に、殿下に毒なんて、盛って……ない……!」
「……いいんだ、ユニー。分かっている。お前はそんな事をするような娘じゃあない。嵌められたんだ、お前は……!」
「お父様……!」

 父のたくましい胸の中に抱き込まれ、わたしは涙を流し続けた。
 一週間、毎晩のように泣いたのに、わたしの涙は未だ枯れない。
 なぜわたしがこんなに泣きじゃくる事になったのか。
 それは十日前に遡る。

 その日はこの大陸で人々を脅かす魔王との戦いに向けた、決起集会。
 王立魔法学園の生徒が集まり、成績上位の者たちを見送るパーティーが行われていた。
 その場で、わたし……ユニーカ・モリカはとある少女に突き飛ばされたのだ。

「ユニーカ・モリカ様! あなたが王子シーナ様に毒を盛ったのは明白! 王子への殺人未遂です! 申し開きがあるなら聞きますよ!」
「…………え、あ……?」
「ないんですね! 罪を認めたという事ですね!」
「……ち、ちが……」

 なに? なに? なに?
 どういう事? どういう事……!?
 混乱した。
 しかし少女……イリーナ・ルシーアは止まらない。
 全校生徒のいる前で、わたしは殿下に毒を盛った事にされたのだ。

「ユニーカ……」
「ちが……殿下……! そ、そんな事! わたし……! ……ッ……!?」

 弁解しなければ!
 そう思ったのに、呂律が次第に回らなくなった。
 シーナ殿下とは幼少期からの婚約者同士。
 兄が間を取り持ってくれたおかげで、当時わがままだったわたしは改心し、少しでも彼に相応しい淑女になろうと努力出来た。
 それはもう、日々血の滲むような努力をし続けてきたのよ。
 外交に困らないよう他国の文化を学んだり、苦手だったダンスも足の感覚がなくなるまで練習した。
 貴族の関係性や当主の性格も必死に覚え、経済も政もお手伝い出来るように在学中から現場の手伝いをしながら学び、足手まといにならないように剣も魔法も常に女生徒では成績一位を維持してきたのに……。
 あの方は……シーナ様は辺境子爵家令嬢イリーナ・ルシーアとばかり一緒にいるようになって──……最後は……これ?

「ッ……! ッ……!」

 声が出ない。
 呂律が回らないんじゃない……これは、魔法……『サイレント』の魔法!
 誰がこんな事を……!

「!」

 目に入ったのはイリーナの斜め後ろに控えたハルンド・ディース。
 兄の友人で、わたしの幼馴染である。
 彼は魔法の成績が男子で一番だった。
 喉に彼の魔力を感じる。
『サイレント』は対人戦の魔法だ。
 学生で使える者は成績上位者5位以上の者だけだろう。
 わたしも使えるが、魔法に関しては彼の方がすごい。
 ダメだ、解けない。
 喉を押さえつけ、なんとか異常を伝えようとしたけれど、イリーナは容赦なくわたしに罪をなすりつける。

「どうやらぐうの音も出ないようですね! それがあなたの本性だったというわけです!」
「ユニーカ、そうなのか? 本当に、君が?」
「……っ!」

 せめてもの抵抗に首を必死に横に振る。
 お願い、シーナ殿下……信じて……! わたしはそんな事していません!
 真っ直ぐに彼を見て訴える。
 わたしは、無実です……!

「きっと私たちが仲良くしているように見えて、嫉妬したんです。私の持ち物にも、インクをわざとこぼしたり制服をナイフで裂いたり……ひどい事をたくさんされました」
「イリーナ……しかしそれは、証拠もないのに……」
「あとでお見せします! それに殿下の飲み物に毒が入っていたのは間違いありません! 私とハルンドさんが見ています! ね! ハルンドさん!」
「ああ、この眼でしっかり見た。彼女は毒草エブリガの葉の汁を、君の飲み物に入れていた。毒入りの飲み物と、君が置いておいたグラスを交換しているのもな!」
「っ!」

 ハルンド様……なぜそんな嘘を……!

「お、俺も見た」
「わたしも……」
「わたくしも見ました」
「!?」

 けれど、次々に上がる証言。
 どうして?
 わたしは友人への挨拶回りで殿下には初めに挨拶をしたきり、近づいていない!
 どうしてそんな嘘の証言を並べるの!?
 周りを見れば、そんな嘘を吐いているのはわたしの家と敵対する貴族の令息令嬢たち。
 体よく話を合わせているのだ。

「…………。ユニーカ、君との婚約は破棄させてもらう。俺は間もなく魔王との決戦を控えている。後ろに君のような恐ろしい女がいるのは、弟のためにも避けたいからな……」
「っ!」



 ──……こうして、わたしと殿下の婚約は瞬く間に破棄された。
 その後、四属性の精霊に愛されたイリーナとシーナ殿下、ハルンド様は魔王との決戦に勝利し、凱旋。
 祝福ムードの中、シーナ殿下はイリーナと婚約を宣言。
 彼女は『勝利の聖女』と呼ばれるようになった。
 わずか一週間……わずか一週間で! ……わたしは『王子暗殺』の罪人としてすべてを失ったのだ。
 魔王との戦いを理由に調査はまともに行われず、聖女イリーナの()()とやらでわたしの家は侯爵家の爵位を奪われ、彼女の家族と交換で辺境のこの地に『平民』として追放された。
 家具も土地も屋敷も金品も使用人たちも……なにもかも没収され、両親は自分たちやわたしたちの衣類を売却してなんとかこの家を買ったという。
 これまで住んでいたような大きな屋敷ではなく、とても小さな屋敷。
 家具もなにもない家の中。
 これからどうして生きていけばいいのか……分からない。
 平民として生きるなんて、どうすればいいのか。
 不安と悔しさで涙が止まらなかった。

「よし! 屋根のある家も手に入った事だしまずは井戸を調べよう! 家具や服はこれから揃えればいいし、水の安全が確認出来たら町へ行って食べ物を買ってこよう。そのくらいの蓄えはまだあるよな? 父さん」
「あ、ああ」
「オーケー。じゃあ母さんとユニーは屋敷の掃除を頼むよ。やり方知ってるか?」
「え? えーと……、……ご、ごめんなさい、分かりません」
「いやいや、素直でいいぞ。やり方は教える。俺は今夜の飯を確保しに行かなきゃいけないから、家の中の事は任せるからな?」
「! は、はい……」

 頭を撫でてくれる兄。
 こんな状況なのに、兄さんは明るく振る舞い、やる事をどんどん提案していく。
 これから生活していく上での注意点や、方針。
 まずは生活の基盤を整えなければならない。
 重要なのは食糧の確保。
 お金は沸いてはこない。
 働いて稼ぐしかないのは、貴族も平民も同じ。
 違うのは頭を使うか体を使うかの違い。
 広い庭があるから、草を抜いて小石を避け、畑を作ろう。
 薬草を植えて、怪我や病気に備えつつ薬代を節約しよう。
 町の人たちに愛想よく挨拶をしに行き、仲良くしてもらおう……。
 本当だ、やる事が山のようにある。

「じゃあ行ってくるよ」
「行ってらっしゃい! 兄さん」

 兄さんは井戸を調べに行った。
 わたしは一階、母は二階の掃除をする事になり、父は庭の草抜き……畑作りだ。
 教わった通り上から埃を落とし、窓や壁を乾いた布で拭く。
 箒で埃を集め、ちりとりで玄関の外へ捨てるのを繰り返した。
 結構……いえ、かなり大変。
 使用人たちは毎日こんな事をしていたのね……。
 ご苦労様、くらい……もっと真剣に言ってあげれば良かった。

「ん?」

 一階東の大きな扉。
 開けるとそこは暖炉のついた食堂だった。
 立派な長テーブルと木の椅子……埃だらけで咳き込んでしまったけれど、全面窓ガラス張りでまるで外にいるようだ。
 天井も大きなガラス窓が二つあって、光が床を照らしている。
 気になったのは、その片方の天井窓から漏れる光の下。
 テーブルの上に、黒いフワフワした大きな埃が落ちているのだ。
 大きい……大きすぎないだろうか?
 いや、絶対大きい。
 わたしの手のひらくらいある。

「なに? これ……」

 けれど埃……埃?
 真っ黒で、とても埃には見えない。
 ではぬいぐるみかなにかかしら?
 ……いえ、それも考えづらい。
 長期間放置されているお屋敷だから埃で黒っぽくなる事はあるけど……ここまでの真っ黒はもはや元の色が黒いとしか思えないわ。
 それに、わずかだけど魔力を感じる。
 恐る恐る近づいて……触れようとした。

「! ……この子……まさか、精霊? どうしてこんなところに精霊が?」

 箒を握り締める。
 精霊は魔力の源、マナの塊。
 貴族の人間が持つ魔力は、その家の加護精霊により与えられるものだと言われている。
 ……イリーナは四属性の精霊に気に入られて、四体もの精霊と契約していると聞くけれど……。

「大丈夫?」

 精霊……わたしは見るのも初めて。
 声をかけると黒い丸い毛玉のようなそれはゆっくりと顔を上げた。
 黄色い瞳の……子犬?
 子犬だとすれば今度は小さすぎるんだけど。

『だれ? 新しい住人?』
「え? ……あ、は、はい。わたしはユニーカ・モリカと……いえ、ただのユニーカです。あなたは、精霊、ですよね? どうしてこんなところにいるのですか?」
『わがはい、この屋敷の守護精霊。住人がいなくなったから屋敷が荒れて……力がなくなってるのだ。……あ、でもお掃除されてちょっと元気が出てきた……。掃除してくれたのは君?』
「! まあ、守護精霊……! このお屋敷は守護精霊がいるお屋敷でしたのね……!」

 守護精霊とは、土地や建物、生き物以外と契約した精霊の事をいう。
 その『場所』に住んだり訪れたり、その『物』を所有したり触れたりすると守護精霊の加護を得られるのだ。
 貴族のお屋敷などにも稀に守護精霊が憑いている事があるけれど……こんな辺境の、オンボロ屋敷に守護精霊がいるなんて!

『屋敷の手入れをしてくれると、わがはい元気になるのだ。ここしばらく、わがはいの事を視られるような魔力のある住人はいなかったのだ。意思疎通が出来なくて……どんどん廃れて……』
「そうでしたのね」
『わがはいを視られる魔力がある人間……住人は久しぶりなのだ』
「でしたら、わたしの家族はみんな見えると思いますわ! これでも一応、十日と少し前までは貴族でしたのよ!」

 貴族は魔力がある。
 魔力があるからこそ貴族とも言える。
 魔法が使えるからだ。
 今は廃れているけれど、建てられた当初は立派な屋敷だったのだろう。
 だから守護精霊が居心地よくて憑いたのだ。
 手入れをして、当時の姿に近づけられればこの子犬のような守護精霊も、多少力を取り戻すはず。
 そうすれば、少なくとも精霊の力を借りて……精霊の魔法を使って生活出来るようになるわ。
 わたしたちは王都から出る時に仮契約していた精霊と、強制的に繋がりを切られてしまっている。
 魔力があっても精霊がいなければ魔法は使えない。
 実感したばかりだったから、守護精霊の存在はこちらとしても大歓迎だわ。

「お屋敷の方も、これからお世話になるんですもの。誠心誠意お掃除させて頂きますわ」
『ほんと? うれしいのだー!』

 ぱたぱたと尻尾を振る、愛らしい精霊。
 あ、そうだわ。
 大切な事を聞き忘れてしまうところだった。

「お名前をおうかがいしてもよろしいかしら?」
『わがはいの名前? この屋敷に住む住人がその都度名づけるのだ。それが【契約】となるのだ』
「まあ、そうですのね」

 本来の契約とはやはり違うのね。
 通常ならば契約を望む者が精霊の名を聞き、精霊が契約を望む者の名を聞いて、その響きと心の波長を好めば契約は成る……。
 でもこの場合……守護精霊との契約は守護精霊への名づけ。
 そちらの方がお互いの拘束力が強く、加護の力や結びつきも強い。
 そうか、だから住人がいなくなるとこんなにも弱るのね。
 でも、わたしが名づけてしまっていいのかしら?
 お屋敷の所有者は父のはずだから……。

『…………』

 うっ!
 でもこの期待に満ちたつぶらな瞳に見上げられてしまうと抗えない……!

「では、シャール、はいかがですか?」
『シャール! うん、うん! いいよ!』
「良かった。よろしくお願いします、シャール」
『よろしくなのだ! ユニーカ!』

 不安いっぱいの新生活だったけど、兄さんと両親、そしてシャールがいてくれるなら……わたし、ここでがんばっていけそう。