「ねえ琴音、そろそろ結婚……」

「しーまーせーん!」



書斎のデスクに置いたキーボードはしばらく音を立てていない。

引き出しから出したプロットを殴り書きしたノートを見ても、指はかろうじてキーボードの上に置かれているだけで、そこから文字は生まれてこない。

代わりに大きなデスクとは別の、資料やこれまでに刊行した書籍がずらりと並んでいる大きな書棚の前に置かれたサブデスクでは、シンプルな紺色のスーツを着た琴音が小気味よい音を立ててノートパソコンを叩いている。


「先生、明日はG舎の方が原稿を取りにいらっしゃるんですよ、早く仕上げておかないと」

先ほどのプロポーズの返事はパソコンの画面から顔を上げずに答えたのに、小言はわざわざ振り向いて俺に言う琴音に苦笑するしかない。

「琴音が結婚してくれたら書く」

「またそんなわがまま言って」



プロポーズを「わがまま」と言い切る琴音が好きだ。




「先生、S新聞社のエッセイのテーマ、次回は『ときめき』だそうです。初稿の締め切りはいつも通り月末です。先生の端末にもスケジュールに入力しておきました」

俺の愛用するタブレット端末を手にした琴音がデスクに近づく。

「すっかりマネジメントが板についたね」

「今までこれだけの連載を同時進行していて、先生ご自身で管理していたなんてびっくりしました」

「確かに……、ね」

手渡されたタブレットのスケジュール画面には、2本の連載と2本の新刊、更にS新聞社のエッセイも結局始まって、カラフルな帯が緻密に張り巡らされている。



デスク前にいる琴音の手を引き、回転する椅子を回して俺の前に立たせる。

「ちゃんと締め切り守らないと、缶詰部屋行きですよ?」

「それは嫌だな、琴音に触れられなくなる」

口では小言を言うが、俺が触れるのを琴音は拒否しない。



俺の膝の上にストンと座らせると琴音の視線と俺の目は同じ高さになる。


「せんせ、原稿を……」

「だーめ」


どちらからともなく唇が合わさる。

触れる肌は滑らかで柔らかく、口づけはどこまでも甘い。


「エッセイのテーマ、ときめき、だっけ?」

「はぁい」

耳元に口づけながら言うと、琴音の返事はオフィスモードではなく、俺の可愛い琴音に戻っている。

髪の下に隠れた柔肌に朱を染めると、琴音の口から艶のある吐息が漏れる。

「俺の感じる『ときめき』を文章にしたら官能小説になっちゃいそうだよ」

「それはだめです、せんせえ……」


だめと言われても琴音の心と体に俺は溺れていく。



「琴音、そろそろ結婚……」

「うぅ……ん」



俺の愛撫に翻弄されて琴音は答えない。

だがそれは、ファンとして、マネジメントとしての作戦なのか?




俺は最強で極上の『餌』を手に入れたらしい。