その日は大して観光客がくるわけでもなく、ただのんびりと過ぎて行った。奥の厨房はこれからのVIP客に備えててんてこ舞いだが、お店の売り子の私には関係のない話だ。
 今日のVIP用の和菓子はどんなのだろう……そんなことを考えるくらいが、私のできる仕事。今日も平和でよかったと、なんとなくそう思いながら過ごしていた午後4時過ぎ、いつものようにケース内の和菓子たちと「キミはどんな味がするの?」と会話をしていると、一本の電話が入った。

「はい、こちら鶴亀総本家、ベリーヒルズビレッジ支店で……」
『君、玲那と一緒に居た子だな! 玲那は!』

 焦った声の主は、朝現れた「甚八お兄様」のものだった。

「雨衣は今は接客中でして……」
『あーもう! 君が接客代わって、玲那と電話を代わってほしい』

 私は胸の奥にしまいこんでいたイライラを思い出していた。なぜこうも人をイライラさせるのか……。
 接客中の玲那を見ると、楽しそうに中国人観光客と談笑していた。

「申し訳ございませんが、ただいま雨衣は取り込んでおりまして……」

 私のその声に、「甚八お兄様」は深いため息をついた。

『じゃあ、君でいい。褒美をやるから、俺を助けてほしい』
「………はぁ?」
『話はつける。今から君を30秒で迎えに行く。待ってろ』

 一方的に電話を切られ、つーつーと鳴る受話器を耳に当てたまま、私は怒りのボルテージが最高潮になるのを感じていた。

「ふっざけんな! この甚八野郎!」

 小声でそう受話器に話しかけたとき、目の前に黒い影が差した。