過保護な君の言うとおり



「誰にやられたんだよ、なあ、佐久間」


「本当になんでもないから」



 佐久間は自力で起き上がり、「ほらね」と肩をすくめた。




あまりに痛々しい傷に目を背けたくなる。どうしよう、と私は不安になった。この傷は私のせいだ。



私の甘い考えがこの結果を招いてしまったんだ。




 玄関で立ち尽くす私の手を引いて、リビングへ向かい佐久間は白い箱を机の上に置いた。




「転んだ時に落としちゃったから、だいぶ不恰好なことになってると思うけど……お誕生日おめでとう玲ちゃん」




 中からはとびきり甘そうで、崩れて傾いたショートケーキが出てきた。



 



どくどくと血液が心臓から送られるように、私の目からは涙が次から次へと溢れてきた。



佐久間は誕生日を知っていのだ。ケーキを買った帰りにこんな風に怪我を負い、なのにまだ「大丈夫だから」と笑顔をつくっている。




「れ、玲ちゃん?」


何が大丈夫なのだ。底知れない佐久間の優しさに涙し、傷ついた佐久間を見ると悲しくて涙が溢れた。



「ううっ……」



拭っても拭っても涙は止まらない。



佐久間が背中をさすり「大丈夫、大丈夫」と優しく言う。だから余計に溢れてくるのだ。




人は泣きたい時に優しくされると、かえって涙がでて、もうどうやったら止められるのかさっぱり分からない。





 嬉しいから泣いているのか、佐久間を傷つけてしまったことに罪悪感を感じて泣いているのか、判然としない雫が顎をつたう。





 とりあえず私は「甘いのは嫌いだあ」と嗚咽しながら言った。


「嫌いなのに……なんで嬉しいんだよぉ」



いつから泣いていなかったのだろう、吹き出すみたいに滔々と涙が流れ出る。みっともなく大泣きして、しゃっくりまででてくる始末だ。



佐久間は黙って私を引き寄せ「まいったなあ」と天井を仰ぎながら頭をぽんぽんと撫でる。




 これで振り出しに戻れないだろうか、佐久間と病室で話した最初の瞬間に。


あの時にもっと突き放しておけば、私は佐久間をこんな風にしなくて済んだかもしれない。




「ごめんなさい、佐久間……傷つけて、ごめん、私のせいなの」


「大丈夫、君のせいじゃない」


「それをやったのは、洸なんでしょ? ねえ、ほんとのことを言って」






「こうなったのは僕が、彼を挑発するようなことを言ったからなんだ。


だから、君が気にすることはないよ。ね? 僕は案外タフなんだ。


まあ、こんな姿じゃ説得力ないけど」




 ああ、なんてこの人は優しいのだろう。



洸はこのことまで予想していたのかもしれない。束の間の安息は今日で終わりを告げ、私はあの人のところに戻るのだ。




そうするしか手段はない。もはや私には考えつかなかった。




「佐久間、私はお前のことが、嫌いだ」




 言葉とは裏腹に私は佐久間をぎゅっと抱きしめていた。







 僕と玲ちゃんの同居は解消された。


それは、最大の繋がりがぷっつりと途絶えたといっても過言ではなかった。




 玲ちゃんが、うちに電話を入れ、そして僕には「もうすぐ秋子さんが帰ってくるから」と説明し、



別々の元の生活へ胸ぐらを掴まれるように引き戻された。



彼女は、その日からすっかり僕を赤の他人、知らない人のように振る舞うようになった。




今回ばかりは、玲ちゃんを繋ぎ止めることができなかった。彼女との細い糸はやすやすと切られてしまった。



三島洸によって。





 全ては玲ちゃんの誕生日。ケーキを買いに行った帰りに『三島 洸』とその他二人に囲まれたことからだ。




 突然のことで僕はボコボコにされてしまったのだ。



いや、突然じゃなくても多分負けていた。




僕はひょろひょろだし、鍛えてもいないので、三人がかりでなくても容易く負けてしまった。




三島は僕をいたぶり「次に玲に近づいたら、殺す」と耳元で囁いた。





僕は当然、男に囁かれても嬉しくないから、というかむしろ気分が悪いので



「こんな弱い僕に玲ちゃんが奪われたら、そりゃあ悔しいよね」と嘲笑った。




そしたら、もう憤慨もいいところ、かんかんに怒った三島さんは追い討ちをかけるように僕を殴ったのだ。




 まあ、この後の流れはだいたい掴めていた。



予想はこうだった。



こうやって傷ついた僕を見た玲ちゃんが罪悪感を感じ、三島さんに僕に何もしないように頼む。




そして、自分自身を犠牲にして僕とは一切関わらない。そういうシナリオだろう、と。







 三島洸の最大の欠点は、彼の両親が相当厳しいことと有名企業の社長だということで愛情に飢えていること。




家ではいい子ちゃんで、だから受験が近くなった時に玲ちゃんに関わらずに勉強してた。




敷かれたレールの上をなぞることが三島さんにはとても苦痛だったのだろう。だから悪いことがしたくなるのかな。






 これらの諸情報は、玲ちゃんに怪しまれないように彼女が図書委員の時やクラスの友人を通じて探った。




この情報はなんの役にも立たないが、何もしないでいるのはもっと無理で探偵じみたことまでやってしまった。




 そして僕は玲ちゃんに嫌われているとは微塵も思っていなかった。



僕は救いようのない本物のアホだ。






そして玲ちゃんとの接点を失った今、考えてしまうのは



「なぜ彼女に執着してしまうのだろうか」という問題だった。




たとえば、委員会が同じ峰さんとは意外と話が合うこともあって、話すことも多々あった。


好きな作家が同じだったり、近所の行きつけの本屋があること。



共通点がいくつもあり、何より清楚な雰囲気の峰さんは女の子らしかった。



どちらかといえば、今までの僕のタイプはこういう清楚な感じだったと思う。




それに比べて玲ちゃんは口は悪いし、極めて天邪鬼で、個性というものに覆われているような子だ。


でも、なぜか気づけば目で追っているし、視界に入ると魅入ってしまったりする。




関わっていくうちに、玲ちゃんがどういう人かわかってくる。
彼女は自分を無条件で受け入れてくれる人がいれば、その人がすること全てに対して甘受してしまう。





恐らく、僕やその他の男が玲ちゃんに魅入られる理由は、本能的にこういう承認欲求を満たしてくれるところにあるのかもしれないと思った。


まったく、彼女は天然の人たらしである。困ったものだ。




 僕はこれからどうしようかと昼休みの時間を悶々と過ごした。



「ぼーっとしてたってなんも変わんないぞ」



お弁当だけでは足らず、焼きそばパンを買って戻ってきた神田が僕の肩をこずく。





「そうだぞー。お前がもたもたしてたって愛しの玲ちゃんは帰ってこないぞー」




携帯をいじりながら、武田までが僕を揶揄った。




「わかってるよ、茶化すなって。本気で悩んでるのに」


「手がないなら、もうちゃっちゃと諦めて次の子を探せばいいだろ。お前顔いいんだからすぐ見つかるって、な?」


「それも考えた、けど」


「けど?」



神田が焼きそばパンを頬張りながらモゴモゴと聞き返す。



「無理だわ。他の子ってなるとなんか無性にイライラしてくる」



 武田が引いた目で僕を見てくる。



「お前、相当不気味だぞ」


「どこが」


「宮代さんの前と、そうでないやつとの差が激しすぎて、俺、怖すぎて吐きそうだ」



 あんまり僕は人によって態度を変えるようなことはしてないと思っていたので、とても驚いた。



「それに、愛しの玲ちゃんを失ったお前は、手をつけられないくらいに恐怖の対象になってる。
見てみろ、俺らの周りだけめちゃくちゃ避けられてる」



「じゃあどうすればいいんだよ。
三島さんには喧嘩では勝てそうもない。ほら、僕ってこんな感じで鍛えてもないし」



「知るかよそんなこと。いいか、お前のとり柄はな、愛しの玲ちゃんのことになると頑固親父も同然なことだ。

そして、大胆なアホになってしまう。

普通の感覚では好きな人の親の連絡先は知らないし。急に同居を申し込んだりしない」




 神田が食べかけの焼きそばパンを向けて、僕がどれくらい変かと言う事を滔々と語った。



「連絡先に関しては、たまたまだし」


「じゃあなんだ、お前は無意識に好きなやつの外堀を着々と埋めていたのか」


「なんて怖いやつなんだ。宮代さんに同情するよ」



 二人は口々にそう言った。



外堀を埋めるか……。



ああ、それも一理あるな。


玲ちゃんに無理強いはしたくない。僕の思いを彼女に強制してはいけない気がする。



ならば、僕から離れると選んだ道が、僕へと続いていればどうだろう。………それなら有りかな、玲ちゃん。






 佐久間がいなくなった部屋は穴ぼこ空いたみたいだった。追い出したのは私だ。



今日からまた一人、どうにも私には別れが多すぎる。



でも、佐久間を想うと心が和やかになるのを感じ、比較的穏やかでいられた。




しかしまあ洸は今日も下駄箱で待ち構え、毎度の如く私と寄り道をしたいと言い、微笑んだ。




 靴を履き変えようと下駄箱を開けると、中から紙が一枚落ちてきた。




洸に見られたら大変なことになりかねないので、さっと速やかにカバンの中にしまい、

そして何事もなかったかのように靴を履き替えた。




「行こう、玲。何か食べたいものはある?」




満足げに微笑んだ洸の人形へと、かつての私に逆戻りするのだった。




「特にない」


「そう、じゃあ。前から一緒に行きたかったところにしよう」




 好きにすればいい、と私は重い足を引き摺るように洸についていく。


彼といると途端に全てのことに無関心になってしまう。
楽しいとか、暖かいとか、悲しみまでもが剥がれ落ちてなくなってしまうのだ。








 佐久間が怪我をして帰ってきた次の日、私は洸を問いただしに行った。



やはり犯人は洸で「玲に近づいた報いだよ」と言った。



そして佐久間を傷つけないでくれ、と頼んだがそう簡単に受け入れてくれるはずもなく、洸は交換条件をつけてきた。



佐久間が傷つくのが嫌なら「佐久間に近づくな、玲の孤独を埋めるのは俺である」と言うことを肝に銘じておけ。




とまるで悪の権化のようなことを言った。



私はおかしくて、気を弛めてしまえばゲラゲラと笑い出しそうだった。




しかし彼は素でそういうことを言っていたし、機嫌を損ねるのは都合が悪いので笑いを噛み締めてその条件を飲んだ。



心にぽっかりと空いた穴を私は見ないふりをして、佐久間に出会う前の私に戻った。







 それにしても……傍に人がいるのにここまで心が温まらないなんてことがあるんだな、と引かれる手を見ながら思う。



どんどん心は冷えていって、まるで遠くから自分を見下ろしている気分だ。