過保護な君の言うとおり




 玲ちゃんはといえば、ソファーへと移動し手で顔を仰ぎながらスマホを触っている。



「……またあいつか」と玲ちゃんが呟く。
 


あまり気分の良さそうな表情じゃなかったけれど、誰かと連絡を取っているのだろうということは何となくわかる。



 誰だろう男か?……なんて探るようなことを考えてしまうのは、玲ちゃんにとって鬱陶しいことこの上ないとも思う。



それでも僕も人間だ。好きな人がもし男と連絡を取り合っているなら、それはすごく嫌だ。



「ん? なんだ佐久間、ぼーっとして」


振り返った玲ちゃんがのんきな口調で言う。


僕は首を振って苦笑いで

「あ、いや。なんでもないよ」と答えた。


頭の中でどんなことを考えているのかを見透かされている気がして、


玲ちゃんを直視出来なかった。



僕は時折怖くなる時がある。



玲ちゃんが実はなにもかもを、それも僕の醜い嫉妬心とか嫌なところを知っていて、


分かった上で見ていないふりをされている気がしてしまうのだ。




「もしかして、私に見惚れていたのか?」



 ソファーにもたれかかり、顔だけをこちらに向けて玲ちゃんはニヤリとしながら言う。


「なんてな、冗談だよ」


「……うん」


「……なんだ、大丈夫かあ佐久間? さっきから変だぞ」



 心配とは程遠い、不審な目つきで僕を見るのが、いかにも彼女らしかった。






「あ、そうか」と玲ちゃんは手を叩いて、少し古い閃いたという仕草をする。



「分かった。私は礼を言うのを忘れていたか」


彼女はこほん、と小さく咳払いして居直す、礼とはなんだろうかと思いながら僕も釣られて姿勢を正した。


「お前の作る料理はとても美味しかった、久しぶりにちゃんと味がした気がする。

ありがとうな、佐久間」



 玲ちゃんは思い返してまた味わうようにしみじみ言った。どうやら彼女なりに僕に気を使ってくれているのだろう。




料理の御礼を言われてなくて凹んでいると思い込んだ玲ちゃんのその思考がとても可愛かった。



彼女は自分で考えて、相手の感情を読み取ろうと努力をする子だ。



僕の気持ちを慮る、そんな彼女が苦しいくらいに愛おしい。




「あれ、お礼じゃなかったか?」


玲ちゃんがとっても不思議そうな顔をして首を傾げていた。

僕はぶんぶんと手を振る。



「いやいや、本当になんでもないよ。でも、お礼は、素直に嬉しいな」


「そうか、私はもう寝室に行くけれど、佐久間は秋子さんの布団を使うか?」



 玲ちゃんはいつも秋子さんと同じ部屋で寝ていると言っていた。


つまり、僕は今日から玲ちゃんの隣で寝ると言うことか?



「それは流石に……」


いくら、なにもしないと言っても危険すぎる。それだと僕は毎日寝不足になってしまう。




 玲ちゃんは僕に呆れた視線を送ってくる。



「馬鹿か、私と同じ部屋なわけないだろう。布団を貸すから、リビングに敷くといいって意味だ。変な勘違いするな、恥ずかしい」




「だよねえ」



 と、まあそんな感じで僕と玲ちゃんの同居は始まった。











 私は佐久間がうちに来てからといもの、すっかり元気になった。




夜もよく眠れるし壁の向こう側に人がいる、そう思うと安心して眠ることができた。



 まだ朝日が昇る前の仄暗い時間。




朝早く目が覚めた私は喉を潤そうとリビングに行った。



そこには佐久間の姿がなく、「あれ?」と不安になってそこらじゅうを見渡すと、ベランダへ出る窓が少し開いていた。




 佐久間はそこにいた。



 私の家は、マンションの六階だ、そこからの景色は夜明けと日暮れの景色がとても素晴らしい。




澄んだ空気、人が目覚める前の時間帯は夢の中と区別がつかない空想の世界みたいだ。




朝露に濡れ草木が煌めき、空が藍色から朝焼け独特の黄丹色に染まっていく。



そんな景色が私は好きだ。



前日にどれだけ悲惨な目にあったとしても、この時間の、この空気だけは私を最悪な世界から別離してくれる。





 佐久間は夜明けの街を見下ろしていた。




彼はなにを思ってこの景色を眺めているのだろう。



「景色、いいだろ」


ベランダの縁に腕をついている佐久間の背中に声をかけ、私は隣に並ぶ。



「あ、玲ちゃんも目が覚めたの。ここは寒いよ? ほら、僕のこれ羽織って」



少し驚いたように目を丸くさせた佐久間はそう言って、ダボダボのパーカーを私の肩にかけた。


「それじゃあ、佐久間が寒くなる」


「僕はいいの。体は丈夫だから」



佐久間は少し笑ってから、また街へ視線を移した。


「ここはいいね。街が起きる前の静かな時間が見れる。

もうすぐ日が昇って、車が走り出し、横断歩道には信号待ちで人が集まる。


今日が始まる前の静かな時間って不思議だと思わない?」



「静かな時間……?」


私が聞くと佐久間は首を縦に振った。


「そう。何かが始まる前には何かが終わって毎日、終末を迎えてるんだよ。



そういうのを何度も何度も繰り返してるんだよね。

まるでさ、今この瞬間に世界は時を止めて、次の終末に向かって動き出す準備をしているみたい」



「お前の目にはそう見えてるのか」


「僕はこの眺めが好きだよ」


「私もだ。……良いことはそのままに、この街の景色は、飽和した孤独や悲しみを優しく溶かしてくれる」




 時々、私自身が悲しみの権化となって街に溶けてしまいそうになる。


それは怖いというよりも誘惑に近い。


 

私は祈るように瞼を閉じた。


 いつか佐久間の見ている景色と同じものを見ることは出来るのだろうか。



もし叶うなら、それはとてつもなく眩しい日差しが射していて、開けたそこは私には勿体ない程の美しい景色に違いない。




 次第にまぶたの裏が明るく灯る。朝日が顔を出したのだろう。



「僕ね」と佐久間が言いにくそうに口を開いた。


「玲ちゃんが……突然消えてしまいそうで不安になることがある」



その声に私はゆっくり目を開けた。



佐久間がちらりとこちらを見て、眉を下げる。



「なんでかな、確かに君はここにいるのにね。僕の手をするりと抜けて遠くへ行っちゃいそうで怖いんだ」


「私がか?」


「変なことを言うなあと思ってるだろうけど……というか自分で言っててもおかしいなと思うんだけどね」


いつも以上に歯切れが悪い佐久間は、悩みがなんのフィルターも通さずに口から出たようだった。



「それは、単に考えすぎだろ」



 呟いた声は風によって、かき消されてしまった。また私たちは外を見る。



 その時間は、二人で心をチューニングしているような感じだった。




もう、佐久間を疑うことなんて全く無い。



だからなのか、私も佐久間と同じように、もし佐久間が私の元からいなくなってしまったら、と思うと恐ろしいのだ。



『考えすぎだ』



この言葉は私自身が安心するために言い聞かせた言葉だ。






 その時、部屋の中から電話がなった。




「こんな朝早くに?」



と佐久間が訝しみながら「僕が出るよ」と率先して電話を取った。



その電話は秋子さんからだったようで、佐久間は私に受話器を渡してきた。




 電話の向こうの秋子さんは、どこまでも申し訳なさそうだった。



「玲ちゃん、出張が長引きそうなの」



その言葉は少なからずショックだった。
少しでも私の我慢が足りなかったら早く帰ってきて、と口をついてしまいそうだった。



「……そっか、秋子さん頑張ってるんだね。無理はしたらダメだよ、こっちは大丈夫だから」



絞り出したように言ったので、無理してるように聞こえないか心配だった。

その心配をよそに秋子さんはいつものように上品に笑ってくれた。



頭の中には、ぱっと花が咲き誇ったような私の大好きなあの笑顔を思い浮かべた。



「無理しちゃだめって、学校で倒れた玲ちゃんに言われるなんて、なんかおかしいわね」


「確かに、私が言うことじゃないか」


「佐久間くんとはどう、上手くやってる? あんまり心配だから佐久間くんにお願いしちゃったけど」



「ああ、上手くやってる。なんでも出来る家政婦みたいで、もう凄いよ」




 私はちらっと佐久間を伺うように言った。



佐久間はわあわあと大きな欠伸をして、私が見ていることに気づくと



「はっ」と口を手で押え照れくさそうにはにかんだ。





「そう、良かったわ。心配だったとはいえ男の子と2人っていうのは、それはそれで心配だったのよ。

……その様子だと大丈夫そう?」



「うん。私には勿体ないくらい良い奴だ」


「良かった」


「秋子さんが帰ってくるのを楽しみに待ってるから」



「ええ。そう言ってくれる人がいるなんて、私は幸せものだわ」



海をわたり遠く離れているのに温もりが伝わってくるようだった。



 秋子さんとの会話は、ひと言ひと言が真珠のような輝きを持って私の心に届いた。



 電話を切ると、私たちは学校への支度に取り掛かった。



慌ただしくまた新しい一日が始まるのだ。



そして、私たちは小さな変化に翻弄され、それをのらりくらりとかわすか、真っ向勝負をするなりして過ごす。




 秋子さんの出張が長引いていることは仕方がない。こういう事はのらりくらりとかわすのが懸命だろうなと思う。



しかし、私も理解しているつもりだけれど、少しの寂しさは、抗いようがなく伴ってしまうのだ。






 佐久間がトースターで2人分の食パンを焼いてくれていた。



キッチンは彼仕様にカスタマイズされ、手馴れた様子で付け合せを用意している。




「秋子さん、いつ帰ってくるんだろう……」



と、つい佐久間のいるのを忘れてふっと湧いた言葉が口をついた。


「やっぱり寂しい?」



あつあつのトーストをお皿に移す佐久間が聞いてくる。



別に佐久間に言った訳ではなかったので、ふいに私の根っこの部分を見られたような恥ずかしい気持ちになった。




「まあ、そうだな。

ゴールがあるから頑張ってたのに、ゴールテープを切った途端に、

突然ここらか先は延長戦に入ります、なんて言われたようなもんだから、多少がっかりしたよ」




 私はいつもの場所(ソファーにぐったりともたれかかり)でくつろぎながら答えた。



「でもさ、思ってたより平気なんだ」



「どういう心境の変化だい。玲ちゃんはてっきりこの家に秋子さんが居ないことが相当こたえてると思ってたんだけど」



「お前はよく見てるなあ、見かけによらず」



 最後のはひとこと余計だよ、と分かりやすく頬を膨らます。
まるで僕は怒りましたよとでも宣言するみたいな感じだ。



 それとは対照的にトーストは私の前にそっと丁寧に置いた。



「まあまあ、そうカリカリするな。秋子さんがいないのはやっぱり寂しいよ……けどな佐久間」



私は一息おいて佐久間が運んできたトーストを見つめ、また向かいに座った佐久間を見る。



「佐久間がこの家にいるから、私は安心して秋子さんの帰りを待てる。
全部、お前のおかげなんだよ、本当に感謝してる」