しかし、生徒が出ていくと同時に佐久間が「ひいっ」とこっちがびっくりするような声を出した。
視線は私の指に向いていた。
「玲ちゃん!!! 血が出てる! 大変だよ、えっと、えっと絆創膏……」
オロオロとする姿は出張に出かける前の秋子さんと同じだ。
「お、落ち着けよ。ちょっと切っただけだから」
少しの切り傷も見逃さない佐久間は、目がいっぱいついてるんじゃないかと思ったくらいだ。
爪の先まで目がついているんじゃないか。
指を切った本人よりも慌てふためいている。
佐久間は財布の中から絆創膏を取り出した。
「僕が巻いてあげるから、じっとしてて……」
「どーもありがとう」
私は大人しく指を差し出した。佐久間の手は細いけれど、確かに男の人の手だった。
優しく優しく私の手に触れ巻いてくれるのはいいが、なんか、照れくさい。
あれ、胸がなんかぐっとなったぞ。
この症状の原因はなんだ。
佐久間の甲斐甲斐しい姿に見惚れてたのか?
いや、違うな。
忠犬のような姿に感激しただけだな。
「玲ちゃん?」
佐久間が私の顔を覗き込んだ。
「顔赤いけど……」
「い、いや何でもない。大丈夫だ」
「えっ! も、もしかして嫌だった!?」
佐久間は口の端をひくひくさせ、挙句、涙目になっている。
「馴れ馴れしくしすぎたかも……」
「ち、ちがう! そうじゃなくて……」
佐久間に誤解させたくなくて私は否定する。
この気持ちをどう表せばいいか、伝えるのはとても難しい。
「お前があんまり世話好きだから感心しただけだ!」
ああ、なんか思ってるのと違うニュアンスになってしまったが、佐久間は私の答えを聞いて胸をなでおろしていた。
「世話好きかあ。僕、玲ちゃん大好きだからなあ」
頬が落ちるような笑顔で佐久間が呟いた。
「え? 今なんて言った」
私は耳を疑った。
胸が波打ったが、これはときめいたとは程遠い、嫌な予感のせいだ。
私は目を細める。
「……大好きってなんだ。どういう意味だ。それは友達としてか」
「……え、僕声に出てた?」
引きつった笑みで佐久間は言って、その後少しの沈黙が支配した。
「どうなんだよ」
私の剣幕に言い淀み、逡巡した後、佐久間は、ゆっくりとした口調で言う。
「友達としてというより。傷つけたくない、大切にしたい、そういう気持ちが強いから」
「じゃあ……」
「僕は……玲ちゃんが好き、恋愛感情として」
「……そうか」
佐久間まで、そういうつもりで私に構っていたのか……?
あの茶髪野郎と同じで、だから見舞いにまできたのか、だから委員会にも誘ったのか……。
去年のあの出来事を思い出す。すごく、嫌な思い出。
あんなにも恐ろしく、私に気持ちを強要するそいつらと、佐久間は同じなのか?
そう思うとても残念だった。
心のどこかで佐久間には何も望まれないと安心していたのかもしれない、
委員会に誘われたのは友好的なもので、そこには深い感情なんてないと思っていた。
私は立ち上り、本を書架に返しに行った。
「もうすぐ昼休みが終わる。……じゃあな佐久間」
私はそう言って佐久間に背を向けた。
「玲ちゃんっ」
私はその呼び掛けも聞かずに図書室を出た。
無視して飛び出したのは私の方なのに無性に泣きたくなった。
なんでだろう、すごく悲しい。
1週間と少し、たった頃だった。
委員長は使いっ走りを卒業したらしく、「すみません。自分でお願いしますね」と断るようになっていた。
委員長に声をかけた時、前みたいなのはもう無くなったと嬉しそうに言っていて、心做しか少し逞しくなったように感じた。
そして私はというと、あれから佐久間を避け続けていた。
教室をのぞきに来る佐久間の横を素通りし、旧校舎のベンチへと向かう。
すれ違う佐久間は、いつも口を開きかけては噤み、今にも泣きそうな顔をしていた。
その顔を見たらこのままでいいのだろうかという思いに駆られる。
いつもなら、そういう人の事をすぐに忘れて元の日常へと戻れるのに。
後ろ髪を引かれる思いで、立ち止まっては、後ろをふり返り、言いすぎてしまったと謝ろうとうじうじ考えている私は、らしくない。
廊下を歩いていると、ちょうど向かい側から佐久間がこちらに向かって歩いてきた。
私に気がついた彼は隣にいた友人に私を見据えたまま「先に行ってて」とぶっきらぼうに言った。
私は一瞬たじろいだが、やはり内なる天邪鬼な心が、普段通り、平常心でいるように囁きかける。
とはいっても、視線を逸らすことが許されていないみたいに佐久間から目が離せないでいた。
「まって、玲ちゃん」
佐久間が私の腕を掴んだ。
それも、腫れ物を触るみたいにそっと。
「なに?」
私は声の調子を低くする。
それなのにまだ「……玲ちゃん」と悲しい響きを含んだ声で私の名前をよぶ。一体どう接したらいいのか分からない。
「玲ちゃん、ご飯ちゃんと食べてる?」
「関係ないだろ。食べてるよ、食べてる」
私がそう言うと佐久間の手に力が入った。
「じゃあ、昨日の夜は何食べた?」
「……えっと、昨日は別に……なんでもいいだろ」
「ほら、やっぱり……」
「どんどん、玲ちゃんの元気が無くなってる。僕、見てられないよ」
「……別にそんなの」
好きで食べてないんじゃない、喉に通らないんだ。
胸が詰まってご飯も食べられない。
原因になる心当たりなんか、わんさかあったし、いくらでも考えられた。
寝る時も隣に空いたスペースが気になって眠れない。
家がとても自分の家とは思えない、他人の家みたいに感じる。
秋子さんの不在がひしひしと身に染みているのだ。
自分は本当に孤独なんだと改めて現実を突きつけられていた。
何よりお前を避けていること自体に心が悲鳴をあげている。
「僕は心配だよ」佐久間は言った。
それに対して私は
「なぜ? それは押しつけか?」
とまたと酷いことを言ってしまった。
色んな過去の記憶が混ざりあって、誰の言葉を信じればいいか、分からない。
「……本当は心配してないんじゃないのか?」
───こんなことが言いたいわけじゃない。疑ってなんかない。これはただの酷い当てつけだ。
「なんで……なんで君はそういう風に言うんだ!」
佐久間の声が廊下に響いた。
「僕は君に何も求めない。
僕は君を好きだけれど、玲ちゃんも僕を好きになってなんて言わない……。
わがまま言わないから、だから……そばに居させてよ……」
そう言った佐久間は私をそっと引き寄せて包み込んだ。
少し高い体温がとても心地よく、心が暖かくなるのを感じた。
『わがまま言わないからそば居させて』
その言葉は、私の引き取り手がなく、施設に入れられた頃に大人たちに向かって全身全霊、心で叫んでいた言葉だ。
だから、その気持ちは私にもよく分かる。
私が人にこんなことを言わせてしまうなんて……心が痛んだ。
それどころか頭も痛く、不安定な足場の上に立っているような気になった。ぐらっと足元が揺らぐ。
───その時、私の全身からすっと力が抜けた。
意識がぷつんと途切れ、佐久間に抱きとめられる形で私は気を失った。
目が覚めたのは保健室だった。
佐久間の声がカーテンの向こうから聞こえ
「はい。そうです……はい……」
どうやら電話をしているようだ。
でも誰に?
「母からも電話がいくと思いますので……はい、それでは」
電話を終えた佐久間がカーテンを引いた。
「あ、よかった起きた? 体調はどう? 貧血気味らしいからもう少し横になってるといいよ」
落ち着いた声で佐久間は言う。いつもの慌てっぷりが嘘みたいだ。
「僕、秋子さんが帰ってくるまで玲ちゃんと一緒に住むことになったから」
「は?」
「僕の母さんから秋子さんにも電話がいってると思う。
安心して、万が一僕が玲ちゃんに手を出そうもんなら母さんが『僕を殺す』とまで言ってるからね。
僕の命に変えても身の安全は保証するよ」
まさか、そばに居させてってこういうことなのか?
あの言葉はそこまでのリアルを孕んでいたのかと思うと、呆れた。
「もう何なんだよ」と言う思いだ。ちょっとときめいた私が馬鹿みたいじゃないか。
これは世話好きの範疇から大きく外れていると思う。
「秋子さんはなんて?」
「すっごい心配していたよ。
飛んで帰ってきそうな勢いだったから一応止めたけど。
僕が玲ちゃんと住むことも了承してくれた」
秋子さん、こいつを信用しすぎじゃないのか? 佐久間に完全に外堀を埋められた気分だ。
「というか、秋子さんの電話番号知ってたのか?」
ふとした疑問だった。
その問いに実にあっさりと佐久間は頷き、私は拍子抜けした。
「玲ちゃんが入院していた時に『何かあったら頼みます』って秋子さんに連絡先貰ってたんだ」
「お前ってやつは……」
なんか、怖いわ。
なんの言葉も出てこない私に相反して、連絡先が役に立って良かったと佐久間は誇らしそうにしていた。
それから、私は早退し、先に家に帰ることになった。荷物は佐久間が保健室まで持ってきてくれた。
外に出ると、いつも疲れた顔をして帰宅するサラリーマンや学生の姿はない、穏やかに時間がゆっくり進んでる。
私は独り歩きながら、学校を出る前の佐久間とのやり取りを思い出す。
「僕は学校が終わったら、超特急で用意して玲ちゃんの家に向かうから」
と意気込んでいた佐久間に
「私はまだお前がうちに来ることを了承してないんだけど」と私は言った。
だって、客観的に見てどう考えても男と二人で暮らすなんておかしいだろうと思ったからだ。
「もう、強引に行くしかないかなって」
佐久間はそっぽをむいた。頑張って言い訳をさがしている、そんな感じだ。
「だって、僕が玲ちゃんのことを好きってだけで避けられるんだもん。
やってらんないよ。
だから、ここはもう強行突破で玲ちゃんに尽くそうと思ったんだ」
「佐久間……お前ってやつは」
到底思いつかない、突飛な発想に私はすっかり抗うことを忘れた。
「つくづく変な奴だな……何かを求めてくるやつは死ぬほどいたが、尽くそうと考えるのはお前くらいだ。そこまでするか、普通」
「やっぱり僕はおかしいのかなあ」
「自覚がないんだから相当だ」
「でも、もし迷惑なら言って。勢いだけでこういう流れになってるけど、無理強いだけはしたくないんだ」
真剣な顔で佐久間は言った。
佐久間が提示した選択は二つで、ひとつはこれまで通り秋子さんが帰ってくるまで一人で暮らす。
そしてまた倒れてしまわないよう、食事もしっかりとること。
そしてもうひとつの選択肢が佐久間が家に来ることだった。
私は………あの家にひとりで暮らし、寝起きする事がもう正直耐えられなかった。
情けないけど、寂しいのだ。
そうこう考えている間に家に着いていた。